若い父
「ああ、いるよ。一人娘だ」
僕は柔らかい声色で答えた。
同時に、周囲に気を巡らせる。
……強い気配は感じない。
続いて、周囲を見渡す。
書棚が並んで、広い空間を視界の奥まで伸びている。
室内の空気は重く厚い。
長い時を経た書物独特の香り。
それは知の集積。
人影はまばらだ。
けれど、敵がどこかで見ているのだろうか。
このホセという男に悪意がなくても、彼が無自覚な協力者という場合もある。
「僕はこれから娘を迎えにいくけど、君は?」
目を合わせないように、できるだけ内気な感じで、声を出す。
見渡すというジェスチャーもしたし、ここでのお喋りに気後れしていることは伝わったはずだ。
「ああ、僕はアレクサンデル教授の所にレポートを届けにいく」
彼はそう言って、用紙をひらひらさせた。
ぎっしりと書き込まれたスペイン語が透けて見える。
心なしか、この国の紙は粗い。
ボールペンも、インクの出にムラがある。
この国の文具でしたためたにしては、随分と丁寧な筆跡だ。
学業に誠実な男なのだろう。
僕らは図書館の出口に連れ立つ。
周囲に迷惑をかけないように、小声で会話する。
これだと、目を合わせずに情報を収集できるので、ありがたい。
「僕の娘は、火蛍・甲斐というんだ。まだ9歳だから送り迎えしている。でも、何故君が知ってるんだい?」
「ああ。僕にも息子がいてね。アロンソって名前なんだけどね。君が送り迎えしている、スクールバスのストップは、彼の通学路なんだ」
先ほどの動悸を恥じた。
先輩の事を訊かれたからといって、僕はいちいち何を焦っているんだ。
……いや、しかし鵜呑みにするのもどうかと思う。
気配、気の循環に嘘が無くても、『仕組まれている』疑いがあることに変わりはない。
僕は小さく頷く。
「ああ、たしかにあそこら辺は、子供たちがよく通るね。みんな可愛らしい」
「バルセロナも観光都市だからね。東洋人はそれなりに見かけるけど、アロンソが言うんだ。今日も東洋の天使がいたって。背の高いパパに付き添われて、てね」
天使。
先輩の事だ。まあ、それはそうか。
彼女の美少女ぶりは、否応なしに人目を集める。
大人でも、子供でも関係がない。
……確かにあの通学路では、道行く子供たちの視線を感じていた。
「天使は嬉しいね。娘を褒めてくれてありがとう、と伝えてくれ」
「ああ、必ず伝えておくよ。ところで君は、シングル・パパなのかい? いつも君がバス・ストップに送り迎えしているようだけど」
「うん。シングルだ。事情があってね」
言葉に遠まわしの拒絶を込める。
しかし西洋人に空気を読むことを期待してはいけない。
空気を読むというのは、日本人独特のコミュニケーション手段なのだ。
「僕もシングルだよ! 妻は癌で死んだんだ。アロンソを残してね。僕は学業をしながら、忙しい時は両親に息子の世話を手伝ってもらってる。両親はチュロ屋をしてるんだけどね、孫が可愛いもんだから、いつもチュロをあげている。僕は反対しているんだけどね。虫歯になるから」
チュロは細長いドーナツのようなものだ。日本ではチュロスと言われている。
小麦粉と水と少しの砂糖・塩を混ぜた生地を、ケーキのデコレーションで使われそうな星型の搾り器から出して、揚げる。
蜂蜜、シナモン、砂糖をまとわせて食べる。
あれは嫌いではない、というより結構好きだ。
「あ、でも美味しいよ。君も食べに来ないかい」
謝絶する。
僕が観光客なら、一も二もなく伺いたいところだが、僕は物騒な立場の人間だ。
迷惑がかかる。
……しかし、人の良い男だ。
彼の息子、アロンソも可愛いのだろう。
そして、祖父母と父の愛情に囲まれて育っている。
アロンソの父、ホセはその後、今度バルで食事をしないか、と言ってくれた。
バルはスペインの居酒屋である。
多くはオープンテラスだ。
バルセロナの市民たちの多くは、このバルで夕食をとり、酒を嗜む。
もちろん断る。
僕らは分岐点に至った。
彼はアレクサンデル教授の部屋。
僕は、表通りに接する校門。
『悪いことは言わない。今すぐ退学届けを出して、チュロ屋を引き継ぐんだ。いや、いっそ家族ごとバルセロナを引き払って、マドリードあたりで心機一転した方がいい。……今君が僕に話しかけている。それがどれだけ危険な事かわかるか? 僕は君に加害しない。けれど、周りは違う。カルト教会が来てるんだ。君だけが巻き込まれるならいい。それは君の勝手だ。けれど、両親、可愛い息子のアロンソも、死ぬかもしれないんだぞ? 分からないのも不思議ではない、けれど、死はそこにあるんだ。僕ら村人が来ている時点で、おびただしい死が、確定しているんだぞ……!?』
僕は胸の中で叫んでいた。
だけどもちろん顔には出さない。
酷い苦虫をはにかみ笑いに変え、会釈をして別れた。
目は合わせなかった。




