バルセロナ大学
「敵からすら愛されたいと願う、これは貪欲です」
保育所の神学の授業で、僕はこう言われた。
聖書には相互扶助の精神が書かれている。相手になすべき事、というのは、裏を返せば、相手に望むことである。
つまり、聖書を信じる者は、敵にすら愛を望む。
だから講師のこの言葉は、聖書の有名なフレーズである『汝の敵を愛せよ』に対する、村人なりの解釈だった。
バルセロナ大学は1450年に設立された。
由緒あるこの大学は、天文学者、カソリック大司教、政治家に弁護士と、多くの著名人を輩出している。
建てられたのが中世だけあって、煉瓦作りの外観も内部にも由緒を感じる。
この学び舎は市の中心部に近いにも関わらず、緑に囲まれているため、一見すると森に抱かれた城といった感じだ。
ただ、僕は中庭を目の当たりにすると、いつも冒頭の村人の言葉を思い出してしまう。
授業の移動時に通るだけなのだが、穏やかに陰った通路から眺める中庭には、光が溢れている。
樹々の緑、煉瓦の白が、今にでも消失しそうな錯覚を受けるほど、まばゆい。
僕はこのまばゆさに、聖なる何かを感じるのだろう。それは教会のような。
学舎は人で賑わっている。
なんせ、4キャンパス合わせてだけど、職員が4000人以上、学生だと9万人を越える学府だ。
学部は18学部。
僕が受講するカリキュラムは、大学院の遺伝子工学課程で、どの講義も200人ほどが受講している。
遺伝子工学は、保育所でも教養として学んだ。
語学もスペイン語、フランス語、英語、ロシア語、ポルトガル語、北京語を修めている。
どれもネイティブとはいかなくとも、留学生としては問題ない。
だから、講義についていけないという事もないし、そもそも村人は普通のヒトより能力が高い。
そういう訳で、僕が受講中に行っているのは、聞き取りではない。
受講者の観察である。
僕は気功使いだ。
気脈の流れで、普通のヒトならだけど、ある程度の動きは把握できる。先祖から受け継いだこの特徴を活かすために、合気道も修めた。まあ、これは最後の手段だが、攻撃の受け流しに最適の技術でもある。
視線を合わせれば、個人の気の循環も把握できるし、治療もする。それが因果だからだ。
この循環には個人的な特徴が反映される。
僕の感覚は、それを色彩として認識する。
大学の講堂くらいの広さなら、対象の気の循環で、何にどう気を配り、行動するかくらいは、見なくても分かるのだ。
まあ、先祖が妖狐なので、これくらいは当たり前と言える。
ただしこの因果は「知らない循環の持ち主」だと効力を失う。
循環として特徴を、脳内の感覚ファイルに刻み込まないと、できない芸当である。
しかし、刻みこみなら、目を合わせなくても、知覚する気の範囲を拡げれば、実行が可能だ。
そういう訳で、受講中は、ノートに書き取りをするふりをして、ひたすら出席者の刻み込みを行っている。
この場に十三聖教会の信者がいることは確実だ。
戦闘時のアドバンテージが、これをするのとしないのでは、違ってくる。
僕の取れる行動が防御だけだとしても、違いは違いだ。
それに、村人レベルの武の者がいれば、すぐに分かるのも利点である。
この場合はとても話がはやくなる。
が、2週間経っても、これといった循環の持ち主にはたどり着いていない。
「クロウ・カイ」
白髪頭の教授が僕の偽名を読んだ。
返事をすると、教科書の設問の回答を求めてきたので、目を合わせないようにして、即答する。
教授は考え込み、矢継ぎ早に3つの質問をしてきた。
1つは基礎、次は引っ掛け、最後は応用の問題。
真ん中に引っ掛けを挟まれるのが、少し楽しい。
茶目っ気を感じる。
もちろん即答した。
補足的解釈も加えると、驚かれる。
「あなたのようにオドオドと、素晴らしい内容の解答を導く学生を見るのは初めてです」
褒められたのか、けなされたのか分からないけれど、拍手をされたので、良い方なのだろう。
拍手は講堂全体に広がった。
僕はとても気恥ずかしい。
この拍手の中に、潰しあう彼らもいるのだと思うと、少し複雑な気分になる。
カリキュラムが終わると、図書館に向う。
先輩との合流まで時間があるし、必要な作業があるからだ。
もちろん、留学生としてのレポート作成という、表面的な学業にまつわる作業もあるが、これは特に気にするべきことではない。
第一目的は、閲覧用PCを使用した大学サーバーのハッキング。
そして、僕らが追う学者、カルロスさんの文献の調査。
特に、『消された箇所』を探すのが重要なのだ。
何らかの不都合で、それが消されたとすれば、そこに十三聖教会の活動の軸がある。
ちなみに、ハッキングは手探りで慎重に行わなければならない。
今日、やっと、教職員用サーバーに裏口を設置できた。
痕跡はもちろん消す。
もう少しちゃんと出来たら、先輩と共に、学外から侵入しよう。というのも、あの人の方が、こういう作業は詳しいからだ。
さすが、潜入工作の専門員である。
気配が近づいてきたので、……ログオフ。
念のため、電源も切る。
「カイ」
「はい?」
声をかけられたので、僕は肩越しに振り返った。
20代男性。距離は1.5m。自然に伸ばした黒髪。整っているが、いささか勝気な顎元。堂々とした体躯を覆う、チェックの長袖シャツ。
もちろん目は合わせない。念のため、というのがある。
「さっきは素晴らしかったよ。あの先生は意地悪で有名なんだ。見事に答えたね」
「ああ、たまたま、だよ」
まくし立てるような明るい声に、僕は抑えた声で応える。
図書館なのだ。
男は声色で気づいたのだろう、書棚に占められた周囲を見回して、謝罪の気を発する。
「ごめんよ。君が随分感動的だったものでさ」
「そんなことないよ。でも、ありがとう」
僕は応えて座席から腰を上げる。
注目を集めたくない。
それに、もしこの陽気な男が敵だとしたら、面倒だ。
「僕はホセ・ベルグッソ」
「九郎・甲斐だ。といっても、知ってるよね」
ホセの自己紹介に対して、はにかみ笑いを作る。内気な日本人というイメージは、目を合わせない事を自然にする。
後は立ち去るだけだ。
「君、娘いるだろう。人形みたいに可愛い、女の子の」
男は唐突に言った。
僕は、上がろうとする視線を必死でこらえた。
もちろん、胸に広がる動悸も。




