初めての気持ち
「病院の案件は正直引き受ける気がしませんでした。怖いので」
奈亜ちゃんの件だ。
しかし本当に堂々とこの子は臆病なことを言うなあ、とわたしは思った。
「今、俺の事を臆病だと思ったでしょう?」
「あ、うん。え? いや、そんなことは……」
言葉の尻が切れる。
「気にしませんよ。天敵に臆病になるのは生き物の自然ですから」
「あ、うん、ごめん。だから、機嫌悪かったんだ? 九虚君」
「いえ。悲しく思ってました」
「え?」
「亡くなった人を思い出していたんです。だから悲しくなって、悲しいと不機嫌になるんです。まあ、村人らしくない多濡奇さんに、イラッとしてたのは事実ですけど。早羅さん、ご存知ですか?」
……早羅さん。防人さんだった人だ。
「亡くなった人?」
わたしが訊くと、九虚君の視線は膝に落ちた。
「はい。あの人も、俺を確実に殺せる位、理不尽というか。あり得ない強さの人で。けど穏やかというよりいつも眠たげな人で。なのに隙は全く無く。何より任務のために自分をひたすら殺せる、鋼のような意志のある人で」
「尊敬してたんだね」
「はい。あの人とは防人の案件の関係で一度仕事を一緒にしたことがあるんです。お役御免になられた後も何回か伺ったりして。で、ですね。あの人はいつも気にしていたんです。ご自分の案件達成確率が98%なことに」
「98%ならものすごい適格者でしょう」
「はい。でも境間さんは、99.9%を超えていました。だからずっと器様に対して申し訳なく思っていたみたいです。ばば様が器様に降りられた後も『境間君だったらもっと上手くできたんじゃないか』って、悔やまれていました」
「そう」
「はい。どう思いますか?」
「正直に言っていい?」
九虚君は、はい、と頷いた。
「無駄な悩みだったと思う。器様が大切だったのはわかるけれど、案件を達成したんだから、悩むべきはそこじゃなくて。もっと……なんだろう。わからないけど」
九虚君は微笑んだ。
「俺もそう思います。確率に悩むなんて馬鹿らしい。それなら全力を尽くす方法に悩んだ方が建設的だって」
「あ」
「はい?」
「もしかして、わたしの事?」
「はい」
「でも、2%と75%は全然違う、でしょう?」
彼は肩をすくめた。
「俺と多濡奇さん、両方が生き残る確率は、0.25の2乗、6.25%です。消費税より全然高いですよ」
「それは、まあ、そうだけど」
なんというポジティブさだ。さすがにびっくりした。
93.75%はどちらかが確実に死ぬのに。この子、絶対ギャンブラーとかにしたら駄目なタイプだ。
けれど、なんか、一生懸命話されたら……ちょっと嬉しくなってきた。
わたしの口元はなんとなく緩む。
「……馬鹿にしてますか? 楽天的すぎると」
「あ、いや、感動してた。前向きだなあ、て」
九虚君は、ため息をついた。
「……俺、今のばば様が器様だった頃に、1度お会いしたことがあるんです。今さっき話した案件の関係で」
「うん」
「美しい人でした。凛としていて真っすぐで。若い桃の樹のように瑞瑞しい」
「みたいね。噂は聴いたことある。絶世の美女だって」
「因果もありますからね。でも、ひたむきさを感じる人でした。つまり俺が言いたいのは、あの方が6.25%生き残れるというのなら、本当にできるんです」
彼の語尾は強く。その確信はわたしの心に響いた。
「う、ん」
「で、ですね。俺がいくらどうこう言っても、9割どちらか死ぬのは事実ですから、こうしましょう」
九虚君は、サングラスを外して、わたしを見た。
彼と、障壁の無い彼と目を合わせるのは、初めてだった。
……彼の慈悲。瞳。
その光を起点に、世界が、時間が、空間が更新される。
穢れの歌が霞み、光が全てに満ち、清浄が全て宿り、静かな、満ち足りた歓喜がわたしの胸を満たす。
唖然とした。実際に傍から見ててもすごかったけれど、行使されるのとは、大違いだ。
……身体感覚から、古傷が消えている。
筋肉が、骨が、瞼も結膜も、あらゆる臓器に力が満ちて、なんか、とても若返った気がした。
「……すごい、ね。因果。ありがとう」
「いえ、違いますよ。俺は約束をするときは、グラス外すんです。……一つ、約束をしましょう」
「え?」
「案件が終わったら、大学生君の病院に連れてって下さい。治しますよ」
わたしは、鳩のように口を大きく開いた。
顎の骨が外れそうだ。女子力が高い子は、こういう時に、もっと可愛い顔をできるのだが。
「……いい、の?」
「はい。特別サービスです」
「なん、で?」
九虚君は、サングラスを再びした。
きらきら感が薄れて、むしろ、感じが悪い。
しかも、顎に親指をあてて、全身を舐めるように見てくる。
「俺は芝咲コウが好きなんです。日本人美しいランキング総選挙でもしたら、間違いなく1位でしょうね。多濡奇さんは、まあ。顔立ちは悪くないと思います。くりくりとしたつぶらな瞳とか、小さな丸顔とか、整っているけれど高いってほどでもない鼻とか。原宿系なファンシー感がありますよね。それこそ頑張れば10代後半、ナチュラルに20代前半、外人から見たら10代後半と言える透明な空気感がある。これは裏を返すと、30代の色気が欠落してます。まあ、ロリばばあとして萌え属性はあるかもしれませんが、ロリアピールをするには、無駄に乳が大きい。これは駄目です。論理的な破たんです。つまり、多濡奇さんは、まったくキャラが立ってない。俺の好みでは全くない」
……この酷評の間、わたしは泣くか、または彼の隣を殴るかしたかったけれど、耐えた。
「なんか、ごめんね。萌えポイントとか、なくて」
我ながら、声が何かをこじらせているのが、分かる。
「いいえ。全然です。でも、ですね。多濡奇さん。貴方は最強ですから。俺を殺せるくらいに。だからそこら辺のモブキャラみたいな卑屈な態度は、似合わないんです。つまり、ですね」
黒サングラスのまま、彼は言葉を一度切って、口元に微笑みを浮かべてくれた。
「最強の貴方には、堂々としていてほしい。そのためなら、俺は何でもします」
「……なんで、も」
「はい」
「なら、お願い」
わたしは、何故か恐る恐る、小指を彼に差し出した。
「え」
「指切り、げんまん」
「指切るくらいじゃ、俺はすぐ回復しますけどね」
頬がむくれる。九虚君は冗談ですと言って笑って、指切りをくれた。
……それから、トランクケースを持ってきて、これ俺の漫画の初版ですと言って、漫画を一冊渡してくれた。
表紙は例のゴンザレス、だった。
「初版、第一冊です。貸しますから。案件終わったら返してください」
「あ、九虚、君、あの、ね?」
思わず慌てふためく。
「はい?」
「あたし、人からもの借りるのって物凄く苦手なの。すぐ返したくなるの。昔ね。アルバム貸してくれた友達が返す前に死んじゃって」
九虚君は、狙い通り、とでもいった感じで、口元に笑いを浮かべた。綺麗に長い眉が、少し自慢げに上がる。
「それくらいがいいんですよ。早く終わらせたい、成功させて生き延びて、俺に返したい。そういう、がつがつしたものが無いと。諦め9割の舐めプレイより、全然生き残れます。多濡奇さん」
「はい」
「この漫画は俺のフラグです」
「え、あたし、それじゃ死ぬ」
「打ち破ってください。俺のフラグ。というか、フラグなんかですね。打ち破るためにあるんですよ。と、この案件で落ち込んでから、開き直ることにしました」
「あ、それ、良いと思う」
少し考えて、わたしは言葉を加える。
「……それに あたしもそう思う」
……こういう会話の後で、出発時間が迫ってきた。
まずわたしが先に、ファーストクラスの受付に赴く。
添乗員のとっても綺麗なお姉さんに連行されながら、何度も何度も、九虚君を振り返ってしまった。
そのたびに、彼はガッツポーズを取ってくれた。
本当に初めと大違いの、熱い子だ。
いや、子供扱いはちょっとダメか。
だって、ね。
その後、ニューヨークに向かう航空機の中で、イヤホンを耳にさして淫崩のCDを聴きながら、漫画のページをめくりつつ、わたしはとても、後悔したのだ。
……指切りではなく。
ハグしてもらえば、良かった。
案件に関わる男性に、尻軽になりたいという欲求は、膣がひりつくような切迫感があったけれど。
わたしが九虚君にハグされたい、と思った感情は、これとは全く違っていて、……どう言えばいいのだろうか?
わたしの体内ではどうやら、彼との間に、感情の卵が出来ていたらしい。
それは色んな出来事を通じてゆっくりと温められて、一生懸命に励ましてくれる彼の前で、殻が、割れたのだ。
そしてそれは、泉のように溢れている。
今でも温かいけれど少し胸に切なく、溢れている。
そして、はたと気づく。
わたしは九虚君の事が男性として好きなのだ。
だれかを好きになることが恋というのなら、これは、この感情は。
わたしの生れて初めての、恋なのだと。




