最近の若者
待ち合わせ時間は午前2時のうしみつ時。
場所は病院前のロータリーだった。
車で来るのかなあ、いや、徒歩か。
と、遊園地で辞表を出してから一度帰宅、普段着のスーツにひよこの被り物といういでたちになって、奈亜ちゃんの病院についてからおよそ5時間という時間を、わたしはひたすら彼を待ちながらすごした。
この間に、彼女の病室を訪れようとして、でも足が止まってしまい、仕方なくこれから襲撃する守衛室の下見。
それもすぐ終わってしまって、結局することもなくなったわたしは、バス停のベンチに腰を下ろし、後ろ手をつく。
ひよこの被り物の奥で、目を閉じる。
色々な音が鼓膜に飛び込んできた。
夜の息吹。
虫の音はもう秋であることを示している。
奈亜ちゃんが眠ったのは春だったのに。
「多濡奇さんですか」
振り返ると、茶色のハーフジャケットの男性が立っていた。
ぼさぼさと言えるくらいゆるくのばした黒髪の長身。
髪と同じ色のサングラスが、めちゃくちゃ感じが悪い。
ロータリーの薄暗さの中で浮き上がる高い頬骨に骸骨を連想。
血を失った土色の肌。まるでさっきまで墓場で眠っていた死体みたいだ。
ただ耳だけが形が良く、ふっくらとしている。
その不吉なアンバランスさを、わたしは覗き穴を通して下から眺めた。
「九虚君?」
「はい」
「歩いてきたの? 気づかなかった」
「気配を消してきましたから」
そんな問題ではない。
どんな微かな足音でも、わたしの鼓膜はひろう。
『わたしの意識の波に、呼吸に紛れるように気配を消して』彼は歩いてきたのだ。
達人。
村でも指折りのレベルかもしれない。
……ちょっと頼もしい。
わたしは立ち上がった。
鈴の音と闇が遠くなる。奈亜ちゃんを癒すという希望。
それが実現するのだ。
そのためなら、目の前に立っているのが死体だろうが雪男だろうが構わない。
「じゃあ、行こうか。まずは守衛室を襲わないとね」
「俺は対象を治癒するだけですからね。襲撃は多濡奇さん。貴女がやってください」
……感じが悪い、と思った。
※※※
小児病棟に向かう非常階段を九虚君と昇っていた時だ。
「すすみません」
とつぶやかれた。
わたしは、すいません、と謝られたのかと思った。
遊園地のスタッフ控え室での辞表提出が脳裏によみがえる。
28歳から入った長期休暇の4年間を、わたしは遊園地の職員として過ごした。
最高に楽しい日々だったが、自分から幕を下ろしたのである。
だからだろうか。
わたしは、辞表を受理した課長になんとなく、すいません、と漏らした。
……この事を思い出していた、ちょうどそのときに九虚君がすすみません、と言ったので、わたしは勘違いをしてしまったのである。
―ああ、すすみません、といったのか、この24歳は―
「止まらなければ大丈夫よ。進んでいることになるから」
視線を足元のヒールに戻す。
九虚君の後ろ足の踵は2段先を進んでいる。
彼の言葉と裏腹に、その差も縮まらない。
このため視線を向ける必要を感じなかった。
「いや、足が進まないんじゃなくて、気が」
「これは正式な案件よ? もちろん、私個人のわがままだけど」
「分かってますよ」
九虚君の声のトーンは低い。
「村の正式な案件でもなければ、僕はこんなとこに来ません。でも、多濡奇さん。よく平気ですね。薬品臭で鼻も頭もどうにかなりそうです。そのかぶりもの、防毒マスクなんですか? ひよこに見えますけど」
「そりゃ、病院だし。この臭いはクレゾールとか、消毒系でしょ? 有毒ガスじゃないから大丈夫よ。それと、これはただの被り物。つまりはあたしの趣味」
「はあ。……違うんです。僕が言いたいのはつまり、病院に溢れ返る死臭。そういうまがまがしいものに、消毒薬で無理やり蓋をしている。その欺瞞に不自然さを感じて、ざわざわするんです」
「九虚君からしたらそうかもしれないけど、ね」
わたしは、ひよこのかぶり物の内側で、少し困った顔を作って笑った。
「多くの人はここで、命にすがっているの」
「薬品に浸かってまで、すがりたい命とか。そんな大層なもんなんですかね」
九虚君が軽く鼻で笑った。
「人間なんてたくさんいるのに命がそんなに大層なら、重すぎて地球が潰れちゃうじゃないですか」
「命は尊いわよ。普通の人はそう教わって育つし、自分の命が尊いと思うからこそ、人の命にも優しくできるの」
そう言うと、九虚君は、肩越しに私を振り返った。
皮肉ですね、と言って笑う。
「多濡奇さんが尊いと思って優しくしたい命を救うために、僕はこんな場所に御呼ばれしているわけですが。多濡奇さん、人殺してきたじゃないですか。それも大量に」
ぐうの音も出ない。
けれど不快である。
事実であれ何であれ、突きつけられるということに、わたしは不快を感じてしまう性質なのだ。
とりあえず沈黙する。
沈黙のまま階段を上り切ってしまうと、非常扉に突き当たった。
わたしはひよこを両手で上に押しのけて外す。
そのまま右わきに抱えた。
とたんに死臭が頬とおでこを撫でてきたような錯覚を覚える。
自然と眉間の表情筋がこわばった。
不快を感じたからだ。
― うーん。でも九虚君の言葉とどちらが不快かというと、……ちょっとわからないなあ―
すぐに呆けたような顔に戻る。
扉のノブに触れた。
冷ややかな感触が手のひら全体を伝わってくる。
ちゃんと自然だと思った。
鉄も死も冷たく静かであるべきなのだ。
そのままノブを握って前に押す。
非常扉はうめき声のような声をあげて、ゆっくりと前に開いた。
小児病棟の通路は西に真っすぐ伸びている。
消灯はとっくに済んだ時間だ。
薄っすらとした闇が幾重にも重なる通路。
この天井付近に色々な表示が点々と白く浮き出ている。
鼻腔にクレゾールと消毒用アルコールが混ざりあった刺激臭を感じた。
この臭いが病院という空間の日常なのだろう。
ここに収容されている子供たちは、とても静かに眠りについている。
まあ大人でも、入院患者なら強がる時以外は静かなものだ。
子どももしかり。
それに、夜も静かであるべきだ。
床の照明は手すりを照らしている。光はあいまいに輝いていた。
何かを待つような静寂と共に。
ちょっと物悲しい。
不満たらたらの男の子を従えている事にも、ちょっと悲しくなった。
「違和感、あるんだけどね」
わたしは九虚君を振り返った。
すらりと背の高い彼を見上げる。
九虚君は首を傾げた。
「はい?」
「そのサングラス。えっとね、SUNGLASSESって、直訳すると太陽メガネでしょ。太陽のないここでかけている意味ってあるの?」
青年は肩をすくめるだけだった。
ちょっといらっとする。
わたしはなるたけ静かに言葉を強めた。
「それに、怖いでしょう? 真夜中にサングラスの男の人が部屋に入ってきたら」
同じ仕草を返されたわたしは思わずじと目になってしまう。
彼は少しためいきをついた。
右手の親指と人差し指の先で、グラスのふちをつまむ。
彼の指は細く長い。先がたこで膨らんでなければ綺麗と言えるかもしれない。
九虚君はそのままグラスを外した。
羽織ったハーフジャケットの胸元にしまい込む。
一連の動作が優雅というか、きざだったので、最近の若者は、と、思わず声が出そうになった。
ふと、このフレーズに寄る年波を覚える。
もう32歳なのだ。
「案件だから外したんです」
「え?」
ぼそっと言う九虚君に、わたしはきょとんとした。
よく見れば整った顔、とおった鼻とか、うりざね顔なあごのラインとかを順々に見上げる。
最終的に、切れ長くっきり二重の、微かに茶色がかった瞳を、下から覗き込むかたちとなった。
とたんに、目を、ぷいっとそらされる。
「治すには、目を合わせないといけないですし。じゃないと、いちいち気を使って外したりしません」
―この子、照れ屋なのかな?―
気が付けばわたしの口元は笑いをこらえていた。
ちょっとだけあわてる。
とりあえず、二十四歳から顔をそむけた。
― 意外と可愛いかもしれない。九虚君。-
通路の先に向って、わたしはまた歩き始めた。
笑いを堪えながら歩くのは苦しかったが、不思議と悪い気はしなかった。




