奈崩が壊すもの
みぞおちを押さえながら、わたしは淫崩の言葉を涙目で思い出した。
『詠春拳の強さはね、強さに頼らないことなの。強く打とうとして硬くなっちゃだめ。どんな状況でも、体の中に水を持つこと。意気込んだり硬くなったりしたら、ただの的になっちゃうから』
― なんであの時、ちゃんと真剣に考え詰めなかったんだろう。なんで、ぼけーっときいて、こくこくうなずいたりしちゃってたんだろう?―
『……わかってないよねえ。まあ、多濡奇なら大丈夫よ。ほっといてもいっつもぼーっとしてるし。大切なのは、いつものテンションで戦うこと。それができれば、あんたは大抵の奴には負けないわ』
困ったみたいに笑いながらそう続けてくれた友に本当に申し訳ないくらい、奈崩の回復薬を前にしたわたしには、力みがあった。
その夜、人を真の絶望に叩き落すのは、絶望ではなく希望であるという事を、わたしは思い知った。
何故なら、検尿管を追うたびに、それはスレスレで届かず、むしろ、がら空きになった脇に蹴りを入れられて生木に吹き飛ばされたり、みぞおちを蹴りぬかれたりして、両膝を床に着いたりしたからだ。
希望は確かにあった。
本当にあった、のに……。
「はっはあ! 間抜けだなぁ、多濡奇ぃ! せっかちな女は嫌われるぜぇっ!」
声がふざけている。
両膝をついて3回目、みぞおちを押さえながら奈崩を見上げるわたしを見下ろして、ひだる神は口角を醜く歪めた。
「…いい目どぅあ。その目がみとぅあかったんどぅあよお。俺はなあ!」
『……いい目だ。その目がみたかったんたよお。俺はなあ!』
顎を蹴ってくるので、横に避けつつ軸足に手のひらを絡めて体勢を崩し、中腰で顔面に縦拳を連続で3発入れる。
― なら、潰してから奪えばいい。 ―
眼窩に追撃をしようとした刹那、ひだる神は5本のうちの1本を斜め後ろの生木に投げつけた。
わたしの意識は自然に加速する。
その1本の軌跡に集中する。
全身、特にふくらはぎと大腿筋が筋走り、奈崩の真横にステップ。
そのまま検尿管に向かって飛ぶ。
ファウル球にアウトを取ろうと飛びつく野球選手みたいだ。
けど、姿勢ががら空きだった。
検尿管まで指先が後3cmという空中で、みぞおちめがけて低空姿勢からひだる神が繰り出したアッパーに、わたしの体は上方にくの字に曲がる。
悶絶したい腹部を抱えて地べたに転がりながらも、視線は検尿管を追う。
それは生木に衝突して、粉々に砕けた。
破片を回復薬が暗く濡らす。
瞬間、とても絶望的な音が小屋の闇に響きながら、わたしの心臓をえぐる。
「そんな顔すんなよぉ。多濡奇ぃ。……まだ4本あるぜぇ? 」
面白おかしく言う奈崩の声が気に障った。彼の心音は恍惚と嘲笑を刻んでいる。
それでもわたしは立ち上がり、詠春拳の構えを取った。
ひだる神は笑いながら、残りの希望4本をまとめて右の指の先でひらひらさせて、半身の姿勢を取る。
― 闘牛士みたい、だ。……わたしは牛、か!? ―
……実際は、牛さんに、『お前と同じにするな』と怒られそうなくらい、わたしは無様で感情的だった。
奪いに行くと、届く前に拳や蹴りを被弾してうずくまる。
潰し行くと、検尿管をまた1本割られた。
同時に容赦のない蹴りで脇腹を蹴られる。
ボレーシュートのサッカーボールみたいにわたしの体は跳ねるし、奈崩の姿勢は日本リーガーそのものだった。
生木に衝突する刹那、検尿管のガラスの表面は薄い月光を妖しく反射する。
月光は間接的に屋内を照らしている。
硝子は、わたしと彼の姿を、まず映し出す。
内に容れられていた希望は、その硝子という堤を決壊させ、無数の小さな破片にする。
濁流みたいに、硝子の内からあふれたそれは、生木に降りかかりる。
そして、ただの茶色い粘液となって床や断面に付着する。
極度の集中状態にあったわたしの虹彩には、その一部始終がまるでスローカメラみたいに克明に精密に映し出されていた。
けれど、届かない。
そして、視覚と聴覚はその様を受容するけれど、ガラスが割られるという認識はない。
かわりにとても大切なものが砕かれ、喪われる感覚が胸を浸す。
1つの希望が喪われる感覚。
……割られるまでは、それは指先からほんの少しの先に、あったのに。
「3本だぁなあ。多濡奇ぃ。そろそろ糞豚も死ぬかもなぁ」
ひひひ、と奈崩は狐みたいに目を細めて笑う。
揺れる白髪が死神みたいだ。
それでもひだるの男神の言葉は事実だった。
こんなどうしようもない繰り返しの間に、淫崩に残された時間が減っていく。
わたしの胸には焦りがつのり、身体は土だらけで、内部には損耗だけがたまっていく。
戦闘に呼吸が追い付かない。
四肢の腱が伸びきったみたいに力が入らない。
……けれど、普通のヒトなら致命傷となりうる打撃は、いくつか奈崩にも加えた。
そもそもわたしと戦闘をする前に、淫崩が彼を瀕死にしている。
確実に削ってはいるはずだ。
奈崩の体力だって無尽蔵ではない。
けれど、削り切れるか分からない。時間もない。
回復したといっても、わたしの体力そのものはカビに削られているのだ。
そもそもわたしは体力的には、人里の普通のヒトの女の子とそんな変わらないはずだ。
なのになんで、こんな絶望と対峙しているのだろう?
わたしが奈崩を圧倒できるのは殺戮で、優位に立てるのは戦闘で、挑まれてみて初めて分かったけれど、こういう心理戦には、絶望的に適性が欠けている。
そして、奈崩に固まる時間は無い。
この時間も、淫崩の余命は……。
― それでも。―
わたしは地べたから立ち上がる。
重い左脚を一歩内股に踏み出し、ふらつく重心を右足に乗せて腰をわずかに落とす。
指を張る力の失せた左手のひらを無理やり開き、震える腕を奈崩にゆるく伸ばす。
右手も上に開いて左手の肘の横に添える。
― 戦闘を侮辱する、このひだる神には屈服したくない。―
「ブスだなあ。多濡奇ぃ。てぇめえは」
一旦言葉を切って、奈崩は真後ろの生木に検尿管を叩きつけた。
構えを保ったまま口を半開きにして、唖然とするわたしを、ひだる神は軽蔑する。
「甘えんのもよぉ。大概にしろよお。糞膜女が舐めくさりやがってぇえ」
息を飲む頬から血の気が引くのが分かった。
その通りだった。
回復薬をめぐる奪い合いは、奪い合いですらないのだ。
奈崩の気分次第で、最短最速で粉砕されるほどその検尿管は脆く、わたしはなすすべもない。
つまり、奈崩は回復薬に必死になるわたしを、からかって遊んでいたに過ぎないのだ。
『てぇめえは発情期の犬か? よだれたぁらしやがって、全くはしたぁねえなあ。てぇめえが満足するまで俺に追いかけっこをしてもらえるとぉ、思ってぇいたぁかあぁ?!ほんっとおぉに馬鹿だぁなあ! てぇめえはあっ!!』
奈崩はそう叫んで、奈崩はさらにもう1本を、真後ろの生木に叩きつけた。
わたしは回復薬に飛びかける。
刹那、顔面を奈崩に蹴り飛ばされる。
ほぼ同時にみぞおちに拳がめりこみ、後方に吹き飛ばされ、背をしたたかに打つ。
「…てぇめえを見てるとぉよお、イラつくんだぁよ」
みぞおちを押さえながら両膝をつき見上げるわたしに、吐き捨てるようにひだるの男神は言う。
悠然と、指の先でつまんだ検尿管を催眠術師みたいにゆらゆらさせる。
液体が揺らめく。
「……多濡奇姉ちゃん……」
須崩が混濁から戻った。
けれど、わたしの視線は彼女をむかない。
奈崩から、そしての、残り1つの希望から、目を外すことができない。
「逃げて。須崩」
唇が自然に動く。
「逃げたぁら割る」
間を置かず奈崩は言う。
「糞餓鬼、これが割れたぁら糞豚はおしまいだあ」
彼はわたしに視線を固定したまま、静かにそう言い放った。
その声色に感情はない。
相対するわたしに示し続けた奇妙な興奮も恍惚も狂気も、その声紋には微塵も宿っていなかった。
「え……?」
須崩が漏らす声と共に、わたしの鼓膜に届く戸惑いの心音。
「……回復薬が入っているの。淫崩が治るの。わたしも治ったの」
何故わたしは説明したのか。
逃がすべきなのに、留まることを促すような事を言ったのか。
答えは単純で、奈崩に検尿管を割って欲しくなかったからだ。
それだけは止めて欲しかった。
そして須崩が逃げた瞬間、この男は迷わずに割る。
そう感じた。
でも、逃げないで、とも言えなかった。
だって、この状況は全てわたしが招いた因果だからだ。
「奈崩」
「お?」
「それを割ったら、殺す」
奈崩はきょとんとしてから、盛大に笑った。
身をくねらして、腹をよじり、涙をつりあがった目じりの端に浮かべる。
「はは、ははは。わかってぇるっつーの。……くどい女だなぁてぇめえは。だぁがそのくどさは嫌いじゃねえ。だぁから、教えてぇやるぜ多濡奇ぃ。てぇめえは今、やっとぉ選べる。踏ん切りのつぅかねえてぇめえが、やっとぉ選べるんだあ。千載一遇のチャンスだぁぜえ」
奈崩はその晩、いや、彼と関わるようになって初めて、常日頃周囲を威嚇するようにしかめていた切り立った角度の眉毛を穏やかなハの字にした。
つりあがった目も細める。
それは柔らかいとか優しいとか言えそうな微笑みだったので、わたしは混乱した。
「なに、を」
「いや、単純な話だぁ。てぇめえは、股間の糞下らねえ膜とぉ糞豚とぉ糞餓鬼全部守りたぁくてぇ、このザマ、だぁろう? 否定はでぇきねえよなぁ。歌えば簡単なのになぁ。戦闘だぁけでも負けようがないのになあ。悔しいよなあ。だぁが、今糞餓鬼の目が覚めたぁ。チャンスだぁぜえ、多濡奇ぃ。糞餓鬼とぉ俺に歌って糞豚救って膜を守る。俺とぉ糞豚殺して糞餓鬼とぉ膜守る。選べよお多濡奇ぃ。屈伏てぇのもあるけどなあ……。ここまで体張っといてぇ、膜捨ててぇ糞豚とぉ糞餓鬼守るってぇ選択肢ってのはねえよなあ』
須崩の心音が、弱弱しい視線がわたしの頬に突き刺さるのが分かった。
それは幼く、そしてだからこそ絶対的な哀願。
刹那、わたしの頭蓋骨の内側に、花壇の映像がよみがえった。
花畑ではしゃぎ合う淫崩、須崩、わたしたちを包むあの夏の日の景色が鮮やかに浮かぶ。
あの日、夏の緑に濃密だった青空から永遠でも約束するかのように降り注いでいた陽射しが目眩みたいに乱反射する。
その陽射しは、わたしの心を、ぽきん、と折った。
……。
「分かった。屈服する。やら、せ、て、あげ、る、から。淫崩、たすけ、て」
わたしの声は、かすれていた。




