突然の希望
にゅるっと湿っていたそれは、生き物なのかそれとも弾力を帯びた肉なのか、初めはわからなかった。
口の中では血がざらざらしていたけれど、もっと苦くて生臭い何かが、口腔にあふれる。
それは腐ってから3日たったレバーから滲みだした液体をろ過したような粘液だった。
わたしは気持ちが悪くなる。
その後に、わき腹とこめかみ、みぞおちに打撲の腫れと熱さを伴う痛みを感じた。
背は生木にもたれたままで、背に当たる木材のごつごつした感覚に、ここが炭焼き小屋であることを思い出す。
わたしのおでこはかきあげられて、骨ばった手のひらが当てられていた。
顎の下にも手は添えられて、顔面は上を向かされていた。
わたしの唇に交差するように、誰かの唇が接触していた。
口腔で動くそれは、わたしの顎に手を添える誰かの舌だった。
舌だとわかるまで、それが生き物なのかそれとも弾力を帯びた肉なのか分からなかった。
ここまで知覚して初めて、瞼を開く。
奈崩の眼球があり白目があり、開いた瞳孔を小さく縁取る虹彩があった。
至近で見るその虹彩は、入り口から侵入する月光を反射するその光は、狂気と恍惚に満ちている。
それはわたしが対峙したことのない不気味だった。
頬が恥辱に染まる。
わたしの両手はひだる神の骨ばった両脇に添えられる。
重心の急激な移動と集中。
いわゆる寸打、無距離の打撃。
衝撃が彼の腹筋を抜けて大腸と肝臓、胃と腎臓に通るのを知覚。
同じ刹那、奈崩が悶絶するよりも速く、掌底で顎を下から突き上げる。
がら空きになったみぞおちに縦拳を全力。
奈崩は向かいの生木の山に吹き飛ぶ。
この全てを1秒以下の、ほぼ反射で行ってから初めて、わたしの意識はクリアになる。
闇に目が完全に慣れて小屋の隅々まで、それこそ生木の円い断面の1つ1つのわずかな凹凸の立体まで、くっきりとした視覚情報として認識する。
肺は、その底から息を吐いていた。
ほぼ仁王立ちで左拳は胸元に引き、右拳は真っすぐ縦拳で前に突き出している。
拳の延長線上、わたしの向かい側の正面では、奈崩が生木にもたれていた。
白と黄色の粘液を、炭焼き小屋の地べたに嘔吐している。
― ……須崩は?わたしの意識はどれくらい、飛んで、いた……?―
正面の奈崩に警戒を保ったまま、目の端に須崩を探す。
先ほどと同じ姿勢で入り口の地べたに倒れて、心音は混濁を示している。
時間はそれほど経ってないのかもしれない。
口腔内が生臭く苦味すら広がっているけれど、呼吸に問題はない。
― ……!? 呼吸に問題が、ない?!―
「へへへ……」
炭焼き小屋の闇に奈崩の声が響く。
わたしは眼を大きく見開いて、その不吉に吊り上がった瞳を直視した。
「やっとぉ、俺を見たなあ。多濡奇よぉ」
首をこきこきしながら、ひだる神は言う。
……わたしはずっと彼を見てきた。
応援をしていたし、実際に助けてきた。
「なに、を」
「てえめえの眼中には俺はなかったぁあ。そうだろう?多濡奇ぃ。歯牙にもかけねえ。どういう状況だろうがぁ、てぇめえは俺をなめてたぁあ…っ!」
憎悪にきらきらする虹彩。
― ……つまり。彼はわたしに脅威として思って欲しかったのだろう。けど。 ―
ないものねだりも甚だしい。
脅威というものは同等かそれ以上の能力に根差すものだし、戦闘と殺戮では同等になりようが……。
そこまで考えてわたしは、はたと気づいた。
― ……目の前のひだるの男神は、わたしと同等になりたかったのか。いや、誰の下にも並びたくないのか。つまり、とても誇り高い斑転なのだろう。―
「うん。わたしは奈崩、あなたを対等には見ていなかった。けど今はすごいと思う。……わたしに何をした、の?」
とても話したいはずだ。
得意げに彼が話す間に須崩が混濁から起きてくれるかもしれない。
そうしたら、わたしの歌の届かない場所に逃げるように言おう。
それにしても今夜は乱数状況すぎて、ほんと、気が遠くなりそうだ。
死んだと思った須崩は生きているし、カビに蝕まれたわたしは回復した。
いや、させられたのか。
口の中に残る苦味が回復薬なのだろう、けど……。
奈崩は自慢げに鼻を鳴らす。
「とぅえめえを治したんだよぉ。回復ヤクを流したぁ。俺のはキキがはええからなあ。なおるのもとぅえきめんだぁ。」
『てめえを治したんだよぉ。回復ヤクを流したぁ。俺のはキキがはええからなあ。なおるのもてき面だぁ』
― わたしは彼を助けてきた。でもこれは恩返しというよりも、意趣返しか。わたしが握ってきた生殺与奪に対する反感。ずっと傷ついてきた誇りを取り戻す行為、なのだろう。
……どうせ治すなら淫崩を治して欲しかった。今から頼んだら治してくれ……るはずはない。仮にしてくれても、回復したら淫崩は彼を屠るだろう。つまり彼にとっては自殺行為だ。―
「どうして、わたしを治したの?」
念のために訊いてみる。
「それはなぁ…」
言いかけて奈崩は、彼の横の椅子の背もたれをむんずとつかんだ。
「てぇめえを屈服させるたあめだよおお!!」
と叫び、木製の4つの脚をブンブンとつかんでは放してを繰り返す。
ヌンチャクみたいだ。
わたしは随分と冷ややかな目をしてしまったと思う。
― 椅子を振り回したくらいでわたしに勝てるとか。その勘違いも自殺行為だ。―
「分かった。わたしも香港映画は見世物として嫌いじゃない、から」
左脚を一歩内股に踏み出し、重心を右足に乗せて腰をわずかに落とす。
左手のひらを開き、ゆるく奈崩に伸ばし、右手も上に開いて左手の肘の横に添える。
身体感覚を改めて確認。
肺からカビは消滅している。
呼吸に違和感はあるけれど、動きに問題はない。
下腹部から痒みが消えて、うにょうにょもひっこむか、なだらかになり始めている。
……武では淫崩以外と手合わせをしたことがなかったので、無意識の緊張に肩が硬くなりかけた。
けれど、息を深く吐くと体の芯が落ち着き、山林の気が全身にみなぎる。
「多濡奇いいぃぃぃぃぃぃっ!!!」
奈崩が振りかぶって、脳天目がけて椅子の角を振り下ろして来た。
とても豪快だ。
わたしは斜めに交差して避けた。
同時に彼の眉間、鼻の先、人中、顎、首に縦拳を連続で入れる。
― 大振りすぎる、なあ。木人相手にしてるみたい。―
木人は詠春拳の練習道具で、サボテンみたいな形をした木の人形だ。
わたしはこの木人相手に、対人格闘の練習をしながら、自分の刻みたいリズムを刻んでいた。
歌う代わりである。
思い返すとゲームセンターの太鼓の超人みたいなものだった。
習慣というものは恐ろしい。
どんなに打撃で弱っていても、一度動き始めると腕も体も止まらずに動いてくれる。
最速最短の拳撃。
とん、とんとんとん
たん、たんとんたん
とん、とんたんとん
たん、とんとんたん
とん、…
奈崩は連打によろめき、瞼を閉じる。
― 駄目だよ。閉じちゃ。でも、わたしはありがたい。―
縦拳の親指を伸ばし、彼の眼窩を突いて爪で眼球をくり抜きかける。
でも、回し蹴りをしてきたので、横に廻りこみながら、軸足の関節に踵を入れる。
彼は尻もちを着く。
― 冷静な判断。 ―
床に崩れなければ奈崩の関節は潰れていた。
少し見直しつつ、腰の高さにある頭部に中段回し蹴りを入れる。
コンパクトだけど、確実に衝撃が脳の中心を貫く、そういう蹴りだ。
これを放つ時のわたしには、表情という表情はなかった。
せいぜいが、唇と右の瞼が打撲で腫れているくらいだ。
これで終わらせる。
そのつもりだったけど、後転してかわされた。
距離を取られる。
……後で思えば、これが致命的だった。
いやむしろ、単純な戦闘という誘導に簡単にはまるわたしが馬鹿なのだろう。
だから、
「てぇめえは馬鹿だぜぇ」
という奈崩の指摘には、ぐうの音もでない。
「へへへ。……やっぱよぉ。てぇめえはとぅええなあ!!」
……わたしは構えを崩さず、もちろん返事もしなかった。
これは潰し合いであり、遊びではないのだ。
混濁する須崩の前では歌えない。
ならば武で彼を屠り須崩を手当して一刻も早く淫崩の元に向かう。
状況は随分と好転した。
わたしは奈崩の意趣返しにせよ、回復し、おそらく耐性もできたので、もう彼の因果は効かない。
するべき事も決まっている。
早急に、でも着実に彼を終わらせて、死にゆく淫崩に須崩の生存と、報復の完了を伝える。
それから、わたしと須崩の2人で彼女の死を看取ろう。
……目の前の彼を悼むのは、その後で良い。
とまあ、わたしはこんな風に、とても浅はかに考えていたのだけれど、本当に浅はかすぎた。
「へ、へへ。おもしれえなあ。多濡奇ぃ…!」
奈崩は言いながら、ぐらりと崩れ、ボクサーがロープに腕をかけて寄りかかるように、右腕を生木の積み木の上に乗せた。
右手のひらが何かを探っている。
隠しものがあるらしいので、わたしは首を傾げた。
「銃も椅子も変わらない、と思うけど?」
「へへ、へへへ。じゃああ、見てぇえみろよぉ。ガラス製だぁあぁぁぁぁ!!」
奈崩が5本の指の先で誇らしげに掲げたのは、指と同じ数の、つまり5本の検尿管だった。
中で液体が揺れている。
わたしはしばし、きょとんとして隙だらけになってしまった。
潰し合いの最中であることを、本当に忘れてしまった。
とても驚いて、不意の、そして望外の希望にわたしは混乱した。
奈崩は笑う。
「は、ははは。そうだ。これは回復薬だ。嬉しいだぁろお?てぇめえと仲良しの糞豚も治せる。今、俺がてぇめえを治したみたい、になあ」
状況の変化と溢れる希望に感情を揺さぶられ、言葉を失うわたしに、奈崩はにやにやする。
「欲しかったらなあ。俺に屈服しろぉ。そうだなあ。やらせろよぉ。多濡奇ぃ…!!」
その声紋には恍惚と欲情の響きがあり、わたしはきょとんとしてから、背筋が震えた。
もちろんその頃には生理も来ていたし、生殖行為についての知識もあった。
けれど、そういう目で見られた事もなかったし、誰かと溶け合う日がくるとしても、そんな事をするのは、もっと先のことだと思っていた。
何より奈崩は全くそういう対象ではなかったのだ、
その夜の前までは、お地蔵さんに抱くような敬意と愛着が、わたしのなかにあったことは否定のしようがない。
でもお地蔵さんはあくまでお地蔵さんである。
いつもお供えものをそなえていたお地蔵さんが、ある夜動いて関係を迫ってきたら、それはもうホラーである。
全身の毛という毛がよだつ感覚を覚えつつも、奈崩に踏み出す。
― ……聴く耳は必要ない。淫崩を救う回復薬。それが。悪意の男の手の内にあるのなら。
奪えばいい。―
わたしはとても怒っていたのだと思う。
潰し合いは年中行事だったけれど、それは純粋な命がけの殺し合いで、こんな、性的な代償を要求するという汚れた行為ではないのだ。
頬がイヤに熱くなる。
友を救う希望にだけ、集中すればいいと思った。
けれどもちろん、現実はそこまで甘くはなかった。




