クレトさん
「雫はエネルギッシュね」
「お休みの日は頑張りたくなります」
ミリアさんの言葉にはため息が混ざっていたが、わたしは笑顔で答えた。
本当は、『カラカスのご飯の方がエネルギッシュ過ぎます』とか言いたかったけれど、それは控える。
綿貫雫は食文化を否定するために来た訳ではないのだ。
食生活の改善は、必ずしも習慣の否定を必要としない。いつもに加えて、ちょっとした気遣い、ワンポイントのケアで十分な効果を発揮するのである。
まあ、それを言ったら、毎晩30kmをランニングして1kg肥えてしまったわたしはどういうことなのだろう。
と、どつぼにはまるのは前向きではない。そもそも体重のプラスマイナスは、エネルギーの摂取と消費の収支なのである。つまり、肥えたなら動けば良いのだ。
そういう意味も込めての、頑張りたくなります、である。
「確かに雫の顔にはやる気が満ち溢れているわ」
「文化なのだろう。僕らにもそんな時代があったよ」
納得をしないミリアさんに、セルジオさんが助け船をくれる。
が、やっぱり似たもの夫婦だけあって、彼も納得をしていない。
セルジオさんの視線が腕時計に落ちた。
いつもの送り迎えと、時間は変わらない。
もう少しゆっくりしたら良いのに、休みなのだから、と、言葉にしたらそうなるような感情を、彼の心音は帯びていた。
「帰りはカミロさんが送って下さるのです」
「パーティにそんなかっこうで大丈夫なのかい」
「カジュアルな服で大丈夫と言われました。もしドレスコードから外れすぎている場合は、着替えがあるそうです」
夜はカミロさんのお宅でパーティだ。彼の実家はカラカスの富裕層、5%の人々のさらに頂点に君臨する部類らしく、昨夜、スポーツクラブ崩落事件の後で連絡があった時、セルジオさんの血色は悪くなった。
驚愕と畏怖。
何もマフィアの首領からの連絡ではあるまいし、そこまでかしこまるものでもないと思うけれど、言うなれば財閥のトップのご子息からの電話みたいなものである。
驚くのも不思議ではない。
が、カミロさんでこうなのだから、わたしが毎晩中央マフィアのボスに会いに行っていると知ったら……。
うん、絶対言えない。無理無理。そもそもわたしが恋をしているのは九虚君である。ガブリエルさんは男性として好きなだけだ。優しくて、気配りができて、色気があって、包容力があって、ニカッと笑う顔が印象的なだけの現地人である。
やけに説明が多いのは、それだけわたしが意識をしているからだろう。まったく、とため息をつきたくなる。
「何かあれば電話をしなさい。ミリアと飛んでいくから」
ため息まじりに、セルジオさんはそう言ったので、わたしは微笑む。
「大丈夫だと思います。が、すぐに差し上げますね。……わたしがお邪魔虫をせずに済むことを、嬉しく思っています」
「雫ったら! 何て恥ずかしいことを言うの?」
「そうだよ。僕らはそんな時代はとっくに過ぎている」
イングニスご夫妻はほぼ同時にそう言ったが、ミリアさんが照れを、セルジオさんが照れと喜びを心音に示していたので、わたしはめちゃくちゃ和んだ。
長い時を共に過ごしても、旦那さんの方が奥さんにぞっこんなご夫婦。
- 素敵だなあ。-
カラカスに来て良かったと思う。
どういう結末がわたしに待ち受けているとしても、この気持ちが変わることはないのだろう。
イングニス邸に走り去るカブトムシ号を見送ってから、わたしはジャイカのビルに入った。
受け付けを通ると、チャベス顔の警備員さんはおらず、代わりにドレッドヘアの男性が番をしていた。
肌がとても黒く、背が高い。バスケットボールの選手みたいながっしりとした体格。
いかつい感じ。瞳は切れ長で、眼光はかなり鋭い。
でも団子鼻に愛嬌がある。チビ黒サンボが成長したらこんな男性になるのかもしれない。
「黒人を見たことがないのか? 珍しいのか? お嬢さん」
「あ、いいえ。世界各地でお見受けしますが、いつものお方がいらっしゃらないので」
「あのおっさんha非番da。
今日出たがってたんda。
美人な東洋人と挨拶するんda
ってのが離婚3年目no哀れなおっさんの最近のトレンドなんdaな。
まあ、そんなに美人なら一目みてやろうじゃないかってことde、
今日は俺がここを受け持つことにしたのsa」
へい! よ! せい! ほー!
とか思わず合いの手を入れたくなる、ラップ歌手っぽい語り口。
ドミニカ人なのかな、と思う。陽気だ。
「せい、ほっほー」
「ん?」
「いえ、何でもありません。綿貫雫です。よろしくお願いいたします」
「クレトだ」
お辞儀をするわたしに、クレトさんは団子鼻をすんと鳴らして、黒光りする手を差し出してきた。
黒い豹みたいな手だ。格闘技でもしているのだろうか。
わたしはその手を握った。
「……ふむ。なるほど。あのおっさんはこういう趣味ka。
確かに美人だが10代のガキに見えるga。
色気が足りないna。俺の趣味ではないのが残念da。
が、あんたはいい奴っぽいna。
基本顔はあわさねえが、よろしく頼むze」
褒められているのか、けなされているのか分からない。
けれどクレトさんの心音に嘘は滲んでいない。滲んでいるのは……。
「はい、こちらこそよろしくお願いいたします」
わたしは笑顔を作った。
「安原の旦那は駐車場にいるze。ノエミの姉ちゃんは事務所でサトウキビジュースを飲んでいる。どっちに行こうがあんたの自由da」
「では、ノエミさんに挨拶をして駐車場に伺います」
「ああ。分かった。……なあ、雫さん」
「はい?」
「1月は出来るだけ、早く帰れyo。事務所にも寄り付かない方がいい。治安が悪化するからna」
そう。
クレトさんは獲物を探している。ちょっとグラシオさんに似ているかもしれない。
違いは、そう。優しいこと。
値踏みの結果、わたしは獲物として対象から外れたらしい。
1月にこの人は何かをするのだろう。北か南か、ガブリエルさんの中央か分からないけれど、クレトさんにはマフィアっぽいものを感じる。
チャベス親分似のいつもの警備員さんからは滲まない気迫。
多分彼は組織の一員で『仕事の下準備』のために警備会社に乗り込んでいるのだろう。
状況は違えど、彼はわたしと同じ潜入工作員ということだ。
でも今は11月だし、その時にわたしがどうするか、について考える時間は十分にある。
でも。
例えばクレトさんが仲間を率いて事務所を襲う時、わたしはどうするのだろう。
どうすれば、良いのだろう?




