バナナ・パイ計画!
任務:幻の神花、謎の敵の情報収集。
オペレーション:潜入工作員としての生活基盤の確立:継続中
短期オペレーション:病院関係者と良好な関係を深める。
その夜は夢を見なかった。
翌朝わたしはその事に感謝をした。
眠りに就く前、わたしは淫崩のCD、ウィーン少年合唱団の旋律に耳を傾けていた。
そうしてうつ伏せの形で枕元に肘をつき、九虚君の『ゴンザレス!』の絵面を眺めながら、ガブリエルさんの事を考えていた。
今後、彼にどう対応するか。九虚君がくれた変化のおかげで、わたしは彼のことを好きになれた。
異性を好きという感情を胸に抱くことができ、その事実を受け止めることができる。が、だからといって思いのままに振舞えば、九虚君に救われる前のわたしと変わらない気がする。
それが自然なのか。
はしたなく恥ずべきことなのか。
正直よく分からない。でもどこかで線引きが必要なのだ。
でもこれは一朝一夕でどうこうできる代物ではない。だから慎重に考えなければならない。
彼にまつわることは、そのまま敵さんにもつながるのだろうから。
いや、ガブリエルさんというよりファナちゃんか。
……彼女が月と自殺の女神の末裔だったらどうしよう。
突飛にすぎる考えかもしれないし、そうであってほしい。が、彼女の『予感』は正直怪しい。
なんせ、わたしもセイレーンの子孫なのだ。
彼女はキチェ族で、マヤ神話の末裔。
本人の自覚なしに異能が発現しかけているという可能性だって捨て切れない。
村の最高尊厳、ばば様だって、防人という護衛がつくとはいえ、発現までは『普通のヒト』なのだ。
彼女にその気が無くても周りはわからない。
ガブリエルさんのご両親は中米からベネズエラに渡ってきた。
もしかしたら、敵さんの本拠地も中米にあって……。
ガブリエルさんとファナちゃんは、『無自覚な』彼らの末端なのかもしれない。
……こんな昏い不安に胸をさいなまれながらも、わたしはいつの間にか眠りに落ちていた。
不安に気は昂ぶっていたが、体力は限界だったらしい。
これは片道15km、往復30kmのランニングが辛かったとかではない。日課ごときに疲れるのは村人の矜持に関わる。
わたしを消耗させたのは超音波の咆哮だ。
これは1回でもかなり疲れる。脳のスペックを過剰使用してしまうのだ。
これを2回もしてしまった。
……3回使ったらどうなるのだろう。
いや、これは何かの前ふりとかそうことではない。
1回で果てしなく疲れ、2回でぶっ倒る。3回目は?
こういう事を考えてしまうこと自体、何かの前ふりになってしまうのかもしれない。
気をつけよう。
……と、思いながら、わたしは小鳥のさえずりに目を覚ました。
閉じられたカーテンを四角く縁取る朝の光に瞼を半開きにしながら、むくりと起きる。
欠伸をしながら伸びをして、首をこきこきと鳴らす。
夢も見なかった。
ガブリエルさんは出てこなかった。九虚君は夢くらいでてきても良いのに。
バルセロナは忙しいのだろうか。まあ、彼は不死だ。
まずはわたし自身の行動を考えねば。
とりあえずは今日のスケジュールである。
バナナ・パイをイングニスご夫妻、安原さんご家族、アルメイダさんとカミロさんのパーティ用にお作りする。
腕まくりをしたくなるが、パジャマでしてもしょうがない気がするので、さっさと朝の身支度に取り掛かる。
まずはシャワー。
昨夜はバリオスから帰って、これでもか! と念入りに洗ったが、もう一度洗う。
洗いすぎはキューティクルにダメージがあるが、下水の臭いのまま今日の一日を過ごすのは個人的に厳しい。
プンスカ号のメンテナンスはともかく、安原さんご夫妻にもご迷惑だし、博物館やカミロさんのパーティではTPOも問われるだろう。
余談だが保育所時代、わたしはTPOを『てぽ』と読んでいた。
うん、本当に余談だ。朝はぼけぼけである。
いや、いつもぼけぼけだろうという突っ込みには、もちろんぐうの音もでない。
シャワーの後で普段着に着替える。
黄色、青、白のストライプが斜めに入ったTシャツ。
デニムのダメージジーンズ。
この2つはベネズエラに赴任する前に、色々調べて東京で買っておいたものだ。
服装はできるだけ現地化しておいた方が良い。
うん、もちろん体型は別である。32歳の女心を甘く見てはいけない。
1kgの増量だって絶対克服せねばならない。これは村人というよりも、女性としての尊厳の問題である。
この決意を元に、わたしは旅行用ケースからバンダナを取り出し、額にがっちりと巻いた。
気分はラーメン屋さんである。
カラカスにラーメン屋さんはないし、現地化の話と違うだろうというつっこみも飛んできそうだが、細かい事を気にしてはいけない。
基本わたしはふわっとのほほんと生きていきたいのである。
例え死地が日々の果てに迫っていようとも、それは変わらない。
でも流石に御菓子作りはのほほんでは駄目だ。
きっちりとした計量。これは基本である。さらにわたし独自の計画もこれに加わる。
いい加減な計量は悲劇的な結果を招く。
保育所の講義で何度やらかしたことか。
たまに砂糖と塩を間違えて、淫崩にため息をつかれ、須崩がうえええっと舌を出したこともあった。
そういう数多の食材の犠牲の果てに、わたしの御菓子スキルは成り立っているのだ。
が、もちろんアレンジはちゃんとする。
その朝作ったバナナ・パイは前日にガブリエルさん、ファナちゃんのお2人にお作りしたものよりも、ヴァニラを強めに利かせた。
グラシオさんが『じじばば』というほどお年は召されていないにしても、加齢によって味覚は落ちる。
はっきりした味を年配の方々は好まれるのだ。
くわえて秘密兵器は爪楊枝である。
「わあ、雫、このパイ、好き」
口元を押えて、ミリアさんが黒々とした瞳を大きくしたとき、わたしは微笑みながら、胸の奥でガッツポーズを取った。
「お口に合ったようで、安心しています」
いや、本当に一安心である。
ミリアさんの作るデザートは美味しい。この味を超えるのは結構なプレッシャーだ。
でも、超えるとか考える時点で、既に負けているのが製菓の世界かもしれない。
料理は如何に個人に寄り添うか。である。
わたしは調理に使うバナナをまずレモンに浸して酸化を防ぎ、それから爪楊枝で食材の筋、食物繊維の塊、硬く渋くなっている点を取り除いた。
セルジオさんもミリアさんも、奥歯は義歯が多い。という事は、残された歯が受容する『食感』にこだわりがあるはずだ。
舌触りにおける違和感。ざらついた引っかかりを極限まで除去する。
ミリアさんのデザート作りは豪快だ。
極まれる主婦の知恵に対抗するのは賢いやり方ではない。
だから、彼女が『しないこと』をする。
突飛なことではない。基本に限り無く忠実に。
真摯に、食べてくださる方に寄り添う。それはサンタ・ソフィア病院の業務と変わらない。
― セナイダさんにも、バナナ・パイを提供したいなあ。アレンジ沢山すればいけるかなあ。いや、まずはアールオさんか。―
「ミリアの作るパイとは全然違うね。なんというか、その」
ものすごくゆっくりと咀嚼を続け、その分沈黙をしていたセルジオさんがやっと飲み込んで、口を開いてから、言葉を呑んだ。
心音は感動と戸惑いを刻んでいる。
嬉しい。けど、ここは助け船が必要だ。
「ミリアさんのパイも好きです。ただ、種類が違うんです」
「そうだね。そうだ。このパイは思想からして違う。東洋の新世界だ」
「素直に美味しい、で良いのよ。嫉妬くらいさせてちょうだい。なんて美味しいパイを作るの、雫」
褒められるのは嬉しいが、ちょっと照れる。
笑顔のミリアさんに、わたしの口は半笑いになり、視線は皿の上のパイに落ちた。
わたし用のパイ。
実は細工をしてある。この皿にのるポーションだけ、砂糖を半分以下にした。
カロリーはもちろん控えめである。
もちろん、体重が気になるので別のパイを自分用に作りました。
と言っても呆れられはするが、まあ、それだけだろう。
が、わたしは気を使ってほしくない。
昨夜のスポーツクラブは、ご夫妻にはあまり思い出して欲しくない。
それに、アリアさんと同じように見られる、体型を異常に気にする女性とは思われたくはない。
ので、これも尊厳の問題である。
正直これが一番緊張した。
とにかくばれなかった。
皿洗いを手伝いながら、わたしは『計画通り!』と胸の中で喝采を叫び、万歳をした。




