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黒疫(くろえ) -異能力者たちの群像劇―  作者: くろすろおどtkhs
多濡奇(たぬき):カラカス2
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頭からバリオス

 崩落から落下までの時間は物理学の知識で求める事ができる。

 純粋に重力加速度と高さの話だからだ。まあそれに空気抵抗も加わるが、落下する人というのはそんな事を考えるものではない。

 体感的にはふわっと無重力になって、それからぐわっとひっぱられる。で、どすんとが、ずどんとか真下に激突するのである。

 

 しかし、である。わたしは崩落に飲み込まれる瞬間、まずこれについて考えていた。

 重力加速度とか落下時間とか距離とかを物理学の公式に当てはめれば、時間の予測はほぼ正確にできるのである。もちろんこの知識も保育所で得たものだ。講義では常に眠気を覚えていたこの知識も、保育所を出てみると中々役に立っている。

 難しい事を嫌がる須崩と気だるいわたしを講義室に引きずってくれた淫崩に感謝だ。


 ちなみに落下時間は0.9秒ほどだ。一階の駐車場に接地する瞬間の速度は時速にして約32km。

 体重によるが時速32kmの乗用車に轢かれるという感じになるのである。

 もちろんわたしは受身を取る。時速32kmくらいの衝撃はなんてことはない。

 粉々になった建材が無数の針、それこそ剣山のように下で待ち構えるだろうが、それも蹴りや突きで逆に吹き飛ばせば済む話だ。

 

 落下という危機に、わたしの意識は加速する。


 接地衝突まで0.9秒。


 受身の準備には十分な時間だ。

 グラシオさんの心音は1度大きな混乱と恐怖を刻んだきりだ。

 その1度で、彼の身体は血液を末端から中央に集めている。筋肉の硬直。衝撃に対する備え。最小限の出血を目論む肉体。

 が、もちろん彼は無事ではすまない。ちょっとした速さで迫るアスファルトは2つの踵を砕くし、衝撃は腰椎に集中するだろう。それ以前に粉々になった建材は彼の背や腹を下から貫くだろう。

 これで彼は再起不能になる。死にはしないだろうけど、身動きの取れる身体ではなくなる。どんなにしつけの悪い猫みたいでも、グラシオさんが人間である限り、これは避けられない運命である。


 接地衝突まで0.6秒。


 そう。

 彼だけならば、そうなのだ。

 けど、わたしがいる。ランニングマシンで爆走したし、急に水分を取りすぎてトイレにも行きたい。けど壊してしまった。しかも、だ。

 壊しておいてなんだが、位置的に、トイレの汚水にまみれる可能性がある。

 

 ・・・・・・これは女子として避けたい。いや、避けるべきだ。


 接地衝突まで0.3秒。

 

 色々な出来事で、とても疲れている。

 何より超音波の咆哮を2回もしてしまったのだ。

 グラシオさんを助ける余裕など無い。いや、あっても助けたくない。そもそもこの男を、わたしは何回も殺したいと思ったのだ。

 彼の心音は混乱を刻んでいる。目も白黒させている事だろう。



 接地衝突まで0.2秒。



 そのまま建材に貫かれて再起不能になればいい、とも思う。イングニスご夫妻の災難は去るだろう。こんな彼のことだ。良からぬ事を企てているに違いない。

 アリアさんだってそうだ。短期的には悲しむ事になっても、将来的な破滅は回避できる。悲しむのだって、グラシオさんにわたしを襲わせた因果だ。


 

 接地衝突まで0.1秒。


 そう。愛する人の悲惨に悲しむのは自業自得である。再起不能。自業自得。

 グラシオさんの悲惨に、アリアさんの悲しみに、わたしは何の感情も-。


 


 グラシオさんの胸元に右手を伸ばした。

 引き寄せつつ左手の拳を握り、横に振る。

 縦拳の中手骨の先が、グラシオさんの顎先をかすめる。頚椎を支点にシーソーみたいにグラシオさんの脳が揺れる。ごく微細だけど、確実な脳の震盪。

 意識が飛ぶのは念のためだ。脱力してくれていた方が受身は取りやすい。

 巴投げの要領、上体のばねだけを使って遠くに投げ飛ばす。

 彼の体は駐車場の闇に消えたはずだけど、視界には入らない。


 接地衝突まで0.05秒。


 グラシオさんを投げ飛ばしたせいで、天地が(さか)さまになってしまった。

 地球的には下からだけど、感覚的には上から降り注ぐ無数の建材、割れたコンクリート、鉄筋、タイル、そういった全て。

 時速32kmの槍たち……を咆哮と共に右の裏拳で吹き飛ばす。

 建材の奥に現れた大御所。

 駐車場のアスファルト。


 左の拳に全ての力を込める。

 そう、時速32kmの衝突エネルギーを、拳撃の膂力(りょりょく)で相殺。


「るああああっ!!」

 とか気分的には叫んでいたのだが、もちろんそんな事は無い。


 接地衝突0.000000000……-。


 アスファルトは黒く崩壊し、ちょっとしたクレーターっぽい穴ができた。

 わたしは肩、首、背、腰、尻、とくるくると回って、やっと着地する。


 天地も回復。

 

 よし。嫌いなグラシオさんは救ってしまったけれど、波風を立てないためにはこれで良かったのだ。

 と、粉塵の向こうの闇、おそらくグラシオさんが伸びているだろう所に視線を投げようとした刹那。


 頭からかぶってしまった。

 かぶってしまった。


 汚水。


 方角的に男子トイレの。

 汚水。


 かぶっ、て、しまっ……った……!

 

 わたしは濡れネズミならぬ、濡れ多濡奇になってしまった。

 頭からつま先まで、バリオスの路地の悪臭に覆われる。髪の一本一本まで、瞬間的かつ念入りなコーティング。


 とても悲しい。

 すごく悲しい。しかし悲しいのも潜入工作員の仕事なのである。

 だが、とりあえず……シャワーを浴びたい。

 いや、先にトイレだ。トイレに行きたい。

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