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夜を走る

 わたしは正門を出て南東に続くあぜ道を駆けた。

 耕す人のいない畑では、無数の蕎麦の白い花が月光に揺られている。

 風がふとした拍子に吹くたびに畑全体が草原みたいになって、花たちはおびただしい蛍となり、闇に揺らめく。

 そんな景色が前方から視界に飛び込んできては、後方に消えていく。



 髪をおでこの上に巻き上げながらかけ続けていると、足首に痛みを、足指全体、特に爪の間に強い(かゆ)みを感じた。

 速度を落として視線をやる。


 ……足首の上付近に直径1cmのいぼが、ぽこん、と()えていた。

 粉をふいている。


 ― 発症か。やっぱり早いなあ。―


 と思うと時を同じくして、下腹部。陰部とその奥に熱を感じた。

 焼けただれるような、強い痒みと痛みに、うずくまり下半身をむしりつつ身をくねりたい衝動を覚える。

 けれど、我慢して、駆ける足を速める。

 山間の大気の冷涼さが(かゆ)さをアイシングしてくれていたのが、まだ救いだった。



― ……カビも暴れ始めている。()ってみると、淫崩(あのこ)の辛さが分かる。 ―


 友を思いながら胸の奥に痛みを覚える。

 奈崩にまつわる悲劇は結局のところ、全てわたしが招いたのだ。

 淫崩が須崩を捨ててきたことにも思いをはせる。

 あれだけ大切にして、いつも連れて歩いていたのに。

 わたしが彼女なら、絶対に置いてくることなどできない。


 けれど、……戦略的にはそれが最も(かな)った(ほど)き方だった。


 淫崩が(かな)わない奈崩(なだれ)に、須崩などがいても逆に足手まといだ。

 つまり2人で戦っても必ず死ぬ。

 その後、奈崩は回復して、情報の少ないわたしの喉をカビで潰し、わたしたち3人は全滅する。


 一方、須崩を蜥蜴(とかげ)尻尾(しっぽ)みたいに切り捨てて逃げて、わたしに情報と報復を託せば、今夜、戦闘で衰弱している奈崩なら、わたしは彼を(ほふ)ることができる。

 つまりわたしは生き残る。

 3人のうち1人は生存することができ、全滅は避けられる。


 とても合理的だけど、須崩からすれば冷徹で救いようのない(こたえ)だ。

 それは淫崩にとっても同じか、それ以上に悲惨なことだ。


 だから彼女は泣いた。

 

 ……もっと救いようのないのは、わたしである。

 そうまでして生かそうとした最後の1人は、一時(いっとき)の自己満足のために、奈崩の因果に感染した。

 本末転倒。

 これ偽善と言わずして、何を偽善と言うのかわたしは分からない。

 自己嫌悪。

 けれど、時間が巻き戻ったらやはり、同じ事をするだろう。


 ……肺にも重みを感じる。

 ほどなく気管や喉も奈崩のカビに潰されるのだろう。

 その前に彼にたどり着き、歌う。

 肺が潰れていても、喉さえ(えぐ)られていなければ、わたしは歌えるはずだ。

 さして長かった生ではないけれど、鼓膜の内側に渦巻く歌は、わたしに歌う事を求めていた。

 それは、この生の間ずっと。


 だから、わたしは歌える。

 それで、わたしたちと奈崩の物語は完結する。


 ……正直この時まで、まあこんな時もなのだけど、わたしは奈崩を憎んではいなかった。

 この感情は上手く説明できない。


 わたしたちは専守防衛というお題目にそって、たくさんの子たちを容赦なく潰してきた。

 そこに因果はあっても、恨みはない。

 つまり、人を潰し続けてきたら、潰される側になる日もいつか来る。

 そういう日の相手がたまたま奈崩だったというだけだ。


 むしろ彼の因果は賞賛に値するとすら思っていた。


 淫崩は14歳にして、日本脳炎ウイルス、黄熱ウィルス、マールブルグウイルス、炭疽菌、ボツリヌス菌、耐性ブドウ球菌、破傷風菌などの、悪名も致死率も最強の兵器(きん)をその身に宿していた。

 加えて幼いころに達人の域に達した詠春拳も、保育所の子供たちの中では至高の部類に達していた。

 それは彼女が、達人であることに慢心することなく功夫(くんふー)を磨き続けた結果である。


 つまり、因果でも武でも足元にも及ばない淫崩(みだれ)相手に、彼は知恵で挑み、超越した。


 友が振った(さいころ)から出た目は悲劇的だった。

 それに、先ほどまでは色々な事がとても怖かったけれど、結果は結果だ。

 もう変えようがないのだ。

 出たそれに恨みごとの類を言う時間は、残されていない。


 それに、わたしは彼の苦闘をずっと見守ってきた。

 その彼に滅ぼされるのはわたしの因果だ。

 滅ぼすものは滅ぼされる。

 それはこの死で溢れた美しい世界の(ことわり)である。

 でも、だからこそ、終わらせなければならない。

 わたしが、奈崩を。



 ……あぜ道を外れた。

 月光に山が黒くうっそうとそびえ、勾配(こうばい)を帯び始めた道の先に登山口がある。

 その脇に樫の生木に囲まれた炭焼き小屋がある。

 灯りはない。

 けれど、あの小屋に奈崩がいる。


 わたしは止まって、自分の足を確認した。

 ふくらはぎまでびっしりと、うにょうにょが覆っている。

 足を止めたからだろう。

 陰部と膣に、痛みと痒みが波濤のように押し寄せた。

 肺には水でもたまっているのだろうか。

 息をするたびに、胸の奥がとても痛い。

 けれどまだ呼吸はできる。


 ― 大丈夫。わたしは歌える。―


 呼吸は、痛みを伴っていた。

 息をできる回数も、そこまで残されていないのだろう。

 それでも、あえてゆっくりと深くして、改めて小屋に視線を投げた。


 ……小屋というよりも山の影全体が、奈崩の体のように思える。

 斑転の(つむ)いできた山のようにおびただしい血と因果が、太い管のように絡み合いもつれあった先の先に、奈崩が()る気がした。


 そう感じることに、恐怖よりも無常と悲哀を感じる。


 自我が飛びそうな下腹部の痛みと痒みに潤む目じりから、涙の粒が自然とこぼれた。

 それらを、何かを否定するように、手の甲でぬぐう。

 

 わたしは炭焼き小屋に続く勾配(こうばい)に足を踏み出した。

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