同じ目線
わたしはガブリエルさんからアンジェラちゃんに視線を戻した。
『もっと、ないの? 食べたい』
と無垢な瞳でこちらを見上げて来る彼女の毛並みは美しい。
「ごめんね。今日は忘れてしまったの」
謝りながら、弾力のある耳の後ろをかいてあげる。
「気にしなくていいさ。飯はちゃんとやっているんだ」
「ガブリエルさんは優しいですね」
わたしはアンジェラちゃんから視線を上げない。
……甘えている、なあ。
そうだ。わたしは甘えているのだ。
75%の致死率に死を覚悟しつつも癒しを求める。
死は確定しているのだ。
生き残るのは九虚君で良い。
というより彼が生き残るべきだ。
彼は強いし、不死身だし、わたしを救ってくれたし、何よりわたしたち4人の中で一番若い。
100%以上の納得をしているのに、どこかで寂しくなってしまう。
カラカスの日々がもっと荒んだものであったら良いのに。
そうすれば、死という終わりに向って、わたしはわき目も振らずに潜っていけるのに。
息継ぎを求めるようにすがる思いで何かを求めてしまうのは、みんなが温かいからだ。
その温かさにわたしは甘えている。
「俺はしたい事をしているだけさ。で、良い事や悪い事にぶち当たる。さっき、多濡奇さん、あんたを笑わせる事ができたのは中々な良い事だったぜ」
ガブリエルさんの声がバリオスの闇に溶けていく。
夜風がわたしたちに吹き付ける。木々のざわめきが風に乗って耳に届く。
「つまらなかったですよ。笑ってしまう位、酷くつまらない冗談でした」
わたしの声に、彼が肩をすくめるのが分かった。
「まあ、あんたが笑ってくれたから良いさ」
「好きな人がいるんです」
頬に彼の視線が刺さった。
鼓膜に彼の心音が届く。甘い痛みを帯びる鼓動。
わたしは続けた。
「多濡奇というのはわたしの本名です。昼は綿貫雫という偽名で活動をしています。
カラカスには使命を果たすために来ました。内容を貴方に話す事はできません。
貴方もファナちゃんも巻き込む事になるかも知れないからです。
わたしが貴方にそれを話さない限り、彼または彼らを気にとがめないでしょう。
ヒトではないモノはヒトには目もくれません。彼が見るのはわたしだけでしょう。
だから貴方は安全なのです。わたしの使命に介入しない限りには。
この使命について、限りない際で話せるのは、多くの命がかかっているという事だけです。
か弱く、まだ名前すらない子供たちのために、わたしは戦うし、生と死の縁を歩き続けるのです。
わたしが好きな彼は、わたしと、同じ、組織の人です。同じ、任務、に臨む人です。
彼は大西洋の向こうで、やはり戦っています。わたしみたいな甘やかされた戦い方ではなくて、もっと直接的な敵と渡り合っていることでしょう。冷静ですが熱い人です。許されるならば今すぐ彼の元に向いたい。つまりわたしはファナちゃんやこちらのアンジェラに癒されています。心は大西洋の向こうなのに、貴方の、善意に、付け込んで、癒されよう、として、います。酷く……醜い思考です」
わたしはまくし立てた。
長い長い言葉だった。
目を伏せて語り始めた言葉のテンポは早く、同じ任務に臨む九虚君の話題に差し掛かると、恥じらいに勢いが落ちた。
大西洋の向こうという言葉に我ながら胸が熱くなり、語気も強くなった。
が、その後は徐々にかみかみになり、声のトーンと共に、わたしの首はアンジェラちゃんから、足元の泥に落ちた。
両手だけが彼女を撫でる形で止まっていた。
そんなわたしをアンジェラちゃんは不思議そうに見上げている。
この独白の間、わたしは一度もガブリエルさんを見上げなかった。
この時、わたしは何を期待していたのだろう?
任務で来たのか、頑張ってくれ、という他人行儀な言葉とか。
好きな奴がいるんだな、目当てが外れた、残念だ、という欲望と失望丸出しの言葉とか。
危ねえ組織の奴なんだな、悪いがあんたをファナには近づけらんねえな、という警戒と拒絶の言葉とか。
大方そこら辺だろう。
失望と壁と拒絶。
そもそもこんな怪しい東洋人を大切な妹に近づける時点で間違っている。
それは分かっている。わたしは村人である。
が、やはり胸の何処かが柔らかく痛んだ。奥歯のあたりの筋肉が硬くなる。
「分かんねえな」
ガブリエルさんの心音に嘘は無かった。
彼は本当に分かっていなかった。
けれど、はっきりとした落胆を刻んでいた。
まあ、それはそうか。昨夜もいきなりキスをしようとしてきた人だ。
落とせると踏んで、色々優しくしたけれど、わたしに意中の相手がいたので落胆した、ということだろうか。
ガブリエルさんはすらりと長い脚を曲げて、わたしの隣にしゃがみ込んだ。
耳が彼の動きを拾っていた。
「全然あんたの言っている事がわかんねえ。だが、あんたについては分かる事がある。今、あんたは嘘をついていなかった。誤魔化しもねえ。本当の気持ちを話してくれた」
穏やかなテノール。
海のような深みのあるテノール。
わたしは顔を上げない。
代わりに口元を結ぶ力が唇から失われた。
「精一杯の気持ちを話してくれた。大切なのはそこだと思う。ファナがあんたを癒したはずだが、また気がふさいじまった。だが、気が滅入る時はとことん滅入った方がいい」
この人は何故こんな事を言うのだろう。
わたしは身元を半分明かした。
組織の工作員として偽名で活動している。
命の綱渡りをしている。
組織に好きな人がいて、同じ任務に就いている。
彼の側に行きたい。
ちゃんと話して拒絶も覚悟したはずなのに、拍子抜けだ。
代わりに胸の奥のとても柔らかいどこかが、優しく押される。
バリオスの路地、アンジェラちゃんの鼻先。地面に向って揺れ視界を遮る髪。
それらの全てがにじんだ。
案件の時わたしは非情になる。
少年でも老人でも敵ならば躊躇なく歌う。
必要と思われた相手とは積極的に寝る。
泣くときは一人で泣く。
なのにカラカスでのわたしは、誰かの前で泣いてばかりだ。
「でもまあ、あれだよなあ。キニチ・アハウにでも嫌われているのかな、俺は」
キニチ・アハウはマヤ神話の太陽神だ。別名、『大空の首長』。
善意を司る存在。創世の神の1人。豊穣や生命を守り、人々に文字・カレンダー学・薬学の他、トウモロコシやカカオの栽培方法を伝授したといわれる。
わたしは肩で目元の涙をぬぐって、彼に視線を上げた。
ガブリエルさんは両手で額の髪をかき上げている。
端正な唇をすぼめて、瞳をぎゅっと閉じている。
長く黒いまつ毛の存在感が増すしているが、いつもの彼の色気というか、月光のようなオーラが、しゅわしゅわと萎んだ感じがした。
「なんでこう、立て続けなんだよおおおおおおおお」
「何がですか?」
「不幸」
ぽつりと呟く彼は嘘を言っていない。
が、言い方というか間に愛嬌があった。
わたしは少し笑いそうになったが、それは控えるべきだと思った。
「どういう不幸ですか」
「俺にコマンド・サンボを教えてくれた兄貴分は南にやられて死んじまった。兄貴分だけじゃねえけどな。奴らの襲撃の日は、兄貴分と姉貴分の結婚パーティだった。俺だけが食あたりをおこして行けなかった。アレパが腐ってたんだ。ファナが腹下すよりもましだが、とにかく苦しんだ。頼りになる兄貴たち、ボスは全員殺されちまった。残っているのは店番やなんやらでパーティに出席しなかった下っ端ばっかだ。俺がずっと横恋慕していた姉貴分は花嫁姿のまま蜂の巣になった」
笑わなくて良かった。
かなり悲惨で真面目な話だ。
ガブリエルさんは深いため息をついた。
「アンジェラだって元は兄貴分が飼っていた犬だ。あの人が足を撃たれて散歩がし辛くなったからってんで、一番懐かれている俺が面倒を見ることになった。残された下っ端たちん中じゃ、俺が一番年上だった」
「ガブリエルさん」
「なんだ」
「お年はおいくつなのですか?」
「32歳」
びっくりした。
同い年だ。色気とか貫禄とかで、40代だと思っていた。
「……」
わたしは言葉を喪う。
「なんだよ。言いたいことがあるなら」
「貴方は運命に愛されているのですね」
「……」
「貴方だけが生き残った。ガブリエルさん、貴方は魅力的な人です。それに強いと思います。遺された人たちにとって、貴方は光だと思います。先を示し導く光です」
わたしは何を言っているのだと思う。さっきまで泣いていたのに、今のわたしは彼を励ましたくてしょうがない。
「でも、あんたは好きな人がいるんだろう?」
「はい」
「俺はあんたが好きだ。姉貴分がずっと好きで、片思いしてた俺が、電撃に撃たれた。つまり、姉貴分の死に地球上で一番ダメージを喰らっていた俺が、痛みを忘れた。忘れちまうくらい、多濡奇さん、俺はあんたが好きだ」
「ガブリエルさん」
「なんだ」
彼は瞼を開かない。
心音が切ない。
わたしは軽く息を吸い込んだ。
下水の臭いは気にならなかった。そんな些細なことより、今の彼を諭す事の方が大切だと思われたからだ。
「忘れては駄目です」
「……あんたなら、そういうだろうな」
「はい。言います。忘れようとするだけ心が傷つきます。それは亡くなられた方々も悲しいと思います」
「ま、兄貴分も姉貴分も2人で揃ってあの世だ。よろしくやっているだろうよ」
「はい。今の貴方に必要な事は、必要な事をするという事です。わたしには好きな人がいますが。……大切な人を喪った経験があります。昨日お話しましたね」
「ああ」
わたしは頷いた。
「わたしは貴方と似た種類の傷を抱えています。だから、といってはなんですが」
ここで言葉を切る。
75%という確率が浮かぶ。
どういう行動が、どういう影響を及ぼすのか、今は全く分からない、
それでも-。
「Intentaré ser como Gabriel lo más posible en la medida de lo posible.
(わたしはできるだけ、ガブリエルさん。貴方の側にいましょう)」
言葉は正確に発音した。
でもガブリエルさんは目を見開き、信じられないといった面持ちで、わたしの瞳を直視した。
この時わたしたちは微動だにせず、相変わらずしゃがんで、同じ高さの視線だった。
村人、マフィアといった分け隔てはなく、ただだた同じ高さだった。
わたしは彼に、にっこりと笑った。
「今、キスしようとしたら、投げ飛ばしますからね」
「顔に出ていたか」
「はい、ばればれです」
そう言って、わたしはアンジェラちゃんに視線を戻し、大きく耳の裏をわしゃわしゃとして上げた。
立ち上がる。
「バリオス、案内して下さい」
「そうだな。約束していた」
彼も立ち上がった。
背がすらりと高い。
「はい。楽しみにしていました」
わたしは彼を見上げる。
彼も微笑みを返してくれる。
和む。
「じゃ、行こうぜ」
ガブリエルさんはそう言って、踵を返した。
わたしはアンジェラちゃんに小さく手を振って、彼の後を追った。
月光がバリオスの家々と、わたしたちの輪郭を際立たせていた。




