意外な励まし
ジャイカに戻る。
今日のプンスカ号は優しい。
帰りのキー回しは2回だったけど、3回ではない。
明後日の休みは安原さんにお願いをして、この子を洗わせてもらおう。
もちろん、許可が出たらだけど。
MRIの検査結果を事務所に提出する。
もちろん昼休み前に異常無しとの結果は連絡済みである。
まあ、検査費用はジャイカ持ちである。
カミロさんを驚かせた脳の特異性については、記載がなかった。
『異常出血なし。所見なし』
とだけ記載されている。あの大袈裟な検査音、手間と時間、何よりかかった費用を考えれば、不愛想と言えるほど素っ気ない文面である。
が、『聴覚、運動能力、記憶力、瞬発力が異常発達している怪人です』とか記されるより、余程ありがたい。
実は、もしそんな結果出てきたら、院内のカルテ管理システムに侵入して検査結果を書き換えたり、診断書を偽造しないといけないと思っていた。
村人であることを大目に見て下さるのは、カミロさんが融通が利くのか、ベネズエラの国民性が大らかなのか、どちらかは分からないけれど、感謝の念は絶えない。
そういう意味でも『異常出血なし。所見なし』という文面は、本当に良かった。
「本当に良かったです。後遺症が出なくて」
安原さんの穏やかなテノール。
「うんうん。ただでさえ大事なのに、とんでもない大事になっている所でしたよ」
中島所長の低いバリトン。
お2人とも正直な心音を刻んでいる。
ありがたいことだ。
安原さんの瞳の底が、強くなった。
「まあでも。それは身体的な話ですけどね。精神的なケアはやはり、事務所の責任です」
意志を帯びる声。彼は頬を微かに震わせて続ける。
「怖かったでしょう? 僕も銃で脅された事はありましたが、ワインボトルで殴られた経験はありません」
「あ、いえ。全く」
安原さん、中島所長の目が点になった。
沈黙。
オフィスの空調の音だけが、空間に存在を増す。
- しまった。-
本当に何でもない、といった感じで言ってしまった。
いや、実際あんなものよりは蚊に刺された方がダメージがある。
だって、虫刺されは腫れるし痒いし、悲しくなるのだ。
あ、昨夜は悲しくなったけど、あれはわたしの中の根幹を成す痛みに関わるもので、断じてワインボトルでおでこを割られかけたとかではない。
そんな村人がどこにいるというのだ。
いや、大事なのはそんなことではない。日本から派遣された栄養士、綿貫雫なら暴力に明け暮れた日常というものを経験していない。
カラカスに来たという時点でそれなりの覚悟はあったものの、いきなりホストファミリーから襲われるなど言語道断であり、対処については今後相談、応相談を計らわれてしかるべき……うん。
パニクり過ぎて韻を踏んでしまった。
頬と耳たぶが火照る。
ぼうっとする。
「我慢強いのですね。綿貫さんは」
「え?」
安原さんの言葉にわたしは我に帰った。
目を細め、目じりの皺を深くして、安原さんはわたしの目をじいっと見た。
「顔が赤いですよ。混乱する時、つまりどういう感情を覚えるべきか分からない時、人は今の綿貫さんみたいな顔になったりするんです」
「そうなんですか?」
「はい」
安原さんは頷いた。随分と重みのある頷き方だ。
「綿貫さんは責任感がある。だから感情を必要以上に抑えようとするのでしょう。ジャイカへの推薦状にもですね、つまり日本での採用試験の面接評価でも」
「安原君」
中島所長が止めに入った。
「いえ、大事な話です。混乱というのは去ってからやってくるものです。今、ちゃんと話しておかないと、綿貫さんはここでやっていけない。そうでしょう?」
安原さんの語気は強い。
中島所長の心音が、気圧される。
「うん。まあ、そうですね。非常事態が発生した。綿貫さんは被害者です。確かにケアが必要だ。……続けて下さい」
安原さんは中島所長に頷き、再びわたしに目を合わせた。
黒々とした瞳。
混じり気という物が無い。
強い意志。深い意図。
「通常は公にしない面接評価ですが。綿貫さん。貴女には『物事を背負いこみ過ぎる』という評価がでています。こういう評価の方は、通常はもっと治安の良い、人種的偏見の軽い地域に派遣されます。ですが貴女はカラカスに決定されました。何故か分かりますか?」
「分かりません」
わたしは即答した。
日本ではジャイカの面接など受けていない。
中島所長、安原さんに渡ってきた書類、データは全て村で偽造したものだ。
つまりわたしが見当がつくのは、こういう評価を書き込んだのは境間さんだ、ということだけだ。
『物事をあまり背負い込まないで下さいね』というフレーズは、わたしに対する境間さんの口癖だった。
安原さんは、少し呼吸を外されたらしい。
きょとんとしてから、こほん、と一度咳払いをした。
「献身に対する熱意が特にに強い。芯が非常に強く、能力も高い。状況に対する突破力が強い。正しいサポートさえ行われれば、多大な成果、貢献を果たしていただける、という事です」
……境間さんは。
淫崩を喪った時に初めてお会いしたのだけれど。
なんというか、ずるいなあ。
意外な所に、意外な励ましの言葉を仕込んで下さる。
さすが、村でも随一の人格者、助役さんだ。
わたしは少し、うるっとした。
下唇を噛んでしまう。
安原さんは、そんなわたしに、柔らかく微笑んでくれた。
「ですから、綿貫さん。貴女のサポートは、心もケアも含めて、僕らの役目です。僕達は同じ事業に携わる『仲間ですから』」
低いテノールが心に沁みる。
小さく、中島所長が、うんうんと頷く。
わたしの鼓膜には、木漏れ日の歌、安らぎが渦巻く。
歌は分かりやすい。
正直に感情を反映する。
「ありがとうございます」
わたしは心から、そう言った。
安原さんは首を横に小さく振ってから、こう訊いてくれた。
「なんでも、正直に要望を話してください。特に緊急の事態には」
「あ」
「はい?」
「いいですか?」
「どうぞ」
「明後日の休み、プンスカ号、もとい、隊用車を洗ってあげたいんです。いいですか」
わたしは真面目に、そして真剣に、安原さんに訊いた。
けれど、何故かとてもびっくりされた。
中島所長も目が点になって、口がぽかんと半開きだ。
下の銀歯が覗いている。
……なんかすごく恥ずかしくなって、わたしの頬と耳はまた火照った。




