カミロさん
検査の結果に出血等の異常は無かった。
当たり前である。ワインボトルを崩壊させた位で脳内出血が起きるほど、わたしの頭蓋骨はやわではない。
「とても柔らかい脳の形ですね。30代とは思えません。10代の脳と言っても良いくらいの隙間の無さです」
金髪碧眼のいかにも優等生然とした若い医師、カルメリオ先生は、MRIのフィルムを光源に並べてから、そう言った。
縁なし眼鏡の鼻頭のアーチ部分を人差し指で、くいっとし続ける。
そう、脳出血は無かった。
ただ、30代と思えませんとわたしを喜ばせてからの沈黙が長く、かつその心音が戸惑いと躊躇いを刻み始めたので、わたしは不安に思った。
何か、隠れた疾患があるのだろうか。
脳腫瘍などが見つかったのか。
実は全身に転移しているとか。
まあ、30も越えて2年たつし、身体にも色々がたがきている。
村で言えばわたしはベテランの類だ。
けれど、この案件の途中で死ぬわけにはいかない。
とか何とか考えていると、医師はフィルムからこちらに視線を移してきた。
意を決するような心音。
「綿貫さん」
「はい」
「虐待を受けてきましたか?」
「え」
わたしはびっくりした。
奈崩のいびつなひきつり笑いが、脳裏をかすめる。
でもあれは精神的外傷であり、虐待ではないはずだ。
医師はわたしの瞳を覗きこんだ。
「貴女の聴覚野は全体的に、通常より50%も肥大しています。暴言虐待を受けた人の聴覚野の一部が14.1%の肥大を記録した事例はありますが、全体の50%は人類に確認されていません。代わりに脳の前頭前野の全体が75%ほど減少しています。厳格な体罰を受けた人の前頭前野の一部が19.1%の減少を記録する例はあります。が、全体の75%は異常です。貴女の脳の抑制機能は著しく低い。代わりに海馬と小脳、つまり記憶と運動司る部分が、それぞれ全体的に20%ずつ一般人よりも発達している」
「つまりどういうことですか}
医師の心音は畏怖を刻んだ。
「貴女の脳は通常ありえない形で成長をしたということです。聴覚と視覚の処理能力が異常に高い。記憶力と運動神経が異常に発達している。筋肉、行動の抑制が異常に乏しい。多重人格障害の異常犯罪者の症例に、貴女と似た脳の構造例があります。分かりますか?」
「分かりません」
医者はため息をついた。
「簡単に言うと、貴女は超人です。『ハルク』のような多重人格系の怪力に、『レクター博士』のような超越した知性と凶暴性が伺えます。サヴァン症候群の兆候も見受けられます。自閉症の天才ですね」
「ええと」
わたしは答えに窮した。
恐るべし、現代医学。
恐るべし、MRI。いや、この先生が名医なのだろうか。
多重人格、怪力、知性、凶暴性、天才。
全て村人の特徴である。
若い医師は、わたしの瞳をじっと覗きこんだ。
「貴女が今こうやって、僕と話をしている。会話が成り立っている。これは奇蹟です。ここまで偏った脳だと、通常は刑務所か精神病院です。でも、貴女はジャイカの栄養指導員だ。これは一体、どういうことでしょう?」
さて。
こういう時、村人ならどうするだろう。
簡単だ。
殺せばいい。
わたしの場合は耳を借りて木漏れ日の歌を囁くように歌えばいい。看護師をぎりぎり巻き込まない形で。
けれど、である。
ここは病院だ。
公的機関だ。
目立ってしまう。しかも、この若い金髪碧眼は、わたしに堂々と疑いを向けてきた。
無邪気なほどの無防備。
さらに、である。
わたしはこの彼を殺したくないのだ。
それは、綿貫雫として、である。
ジャイカの職員として派遣されて一週間もしないうちに、医師を1人殺す。
これはさすがに駄目な気がする。
……殺しはしないまでも、例えば、月蝕の歌がある。
醒めない昏睡に誘う愛の歌。
『その歌は甘い。月を蝕む愛のように』
文献にはこう記されている、性愛の歌だ。
日本を発つ前、九虚君に救われた晩、わたしはこの歌を大学生君に歌った。
彼は白目を剥き、口から泡を、股間から失禁しして倒れた。尿には精が混ざっていた。その肉体は腰を中心に痙攣を続け、精は断続的に漏れ続けた。
彼は今、病院で長い昏睡についている。
同じことを、わたしはこの若い医師に行うのか?
それでいいのか?
この罪の無い医師に?
ふと、わたしの胸に酷い悲哀が甦った。
昏倒する大学生君のそばで、胸に覚えた昏い痛みだ。
医師の顔がぼやけた。
視界が涙で歪む。
わたしは口の端を無理やり上げた。
どうすべきか。
昏倒させるべきか。何もしないで予想される窮地を見過ごすか。
次の一瞬で決めよう。
-でも、願わくば次の一瞬が永遠に来ないで欲しい-。
医師が看護師を呼んだ。
「少し医局に行ってくる。丁度区切りの時間だからね。午前に診きれない分は、ランチを削るよ」
医師は彼女にそう話して、わたしに微笑んだ。
「少し歩きましょうか」
「え」
わたしはびっくりした。
「それはどういう」
「僕は医局に忘れ物がある。貴女は更衣室に向って、着替えて、栄養相談室に向う。更衣室と医局は隣同士だ」
その通りである。でも。
「ええと」
わたしは煮え切らない。
「……会計手続きが」
「そんなものは今日中でいい。そうでしょう?」
わたしは答えれなかった。
彼の碧眼と、その心音が真剣そのものだったからだ。
わたしは頷いて、医師と共に立ち上がった。
半そでから突き出た腕から肘までの肉が丸々とした看護師の褐色の2重顎に、お辞儀をして、診察室を出る。
わたしと医師は、医局あんど更衣室に向って歩き出した。
医師の方が、半歩先を歩いているが、これは足の長さのものだろう。
人の事を超人とかのたまったくせに、外見なら彼のほうが、よほどスーパーマンっぽい。
違いは金髪なことぐらいだ。
「貴女の事は個人的に聞いてたんだ」
医師は歩を止めずにぽつりと漏らし、わたしは思わず、彼の青いドクター服の肩、その向うの彼の顎を見上げた。
彼はわたしを見ない。涼やかな視線は、通路の先を見据えている。
綺麗な顎だ。
ガブリエルさんほどの色気はないが、すっきりとした爽やかさがある。顎と喉のライン。形の良い耳。
少し、九虚君に似ているかもしれない。
「え」
「アルメイダ、彼女と僕は付き合っている」
そう言って、金髪はその碧眼で、ちらりとわたしを見た。
「えええ?」
碧眼の値踏みをする視線などお構いなしに、わたしは驚きの声を小さくあげた。
金髪はちょっと笑った。
「僕は友人の間ではカミロと呼ばれている。よろしく」
カミロさんは立ち止まって、わたしに向き直り、握手を求めてきた。
縁なし眼鏡の奥の瞳が柔らかい。
わたしはとりあえず、笑顔を作る。
できるだけ自然を心がけ、彼の手を握った。
「よろしくお願いいたします。雫・綿貫です」
と、言いながら、わたしはひやっとした。
危なかった。
アルメイダさんの彼氏を、再起不能にするところだった。
本当に、危なかったのだ。




