ファナちゃん
目が合った。
海の色をした虹彩。
まだあどけなさを残すけれど、小さく整った鼻梁。
綺麗な曲線を描く褐色のおでこは、ランプの灯りを反射して、微かに赤らんでいる。
生え際から真ん中分けになって、アーチを描いて左右のこめかみに流れる黒髪は、柔らかいウェイブを描く。柔らかそうな唇は、褐色の大地に舞い落ちた桜のようだ。
擦り切れかけた白のタンクトップが、滑らかな曲線を描く肩に引っかかっている。
胸の発育は第二次性徴を迎え終えたあたり。
つまり歳の頃は14、5だろうか。
この女の子を前にした時、わたしの殺気は完全にそがれた。
ガブリエルさんが、小屋のドアを閉めたせいだろうか。
汚水の臭いではなく、アレパ、トウモロコシの香りが室内に満ち、鼻腔をくすぐる。
バリオスではないみたいだ。
いや、カラカスにいる実感すら薄れる。
先週おいとまを頂いた職場を思い出す。
あの遊園地に続く桜は綺麗だった。
奈亜ちゃんは元気だろうか。
九虚君が目覚めさせてくれた彼女。
あの子が長い昏睡から目覚めた瞬間を、あの濃密な奇蹟の時間を思い出す。
そして似ていると思った。
この子の顔立ち自体は志骸の目じりを、もっと涼やかにした感じだけど、雰囲気は奈亜ちゃんのものだ。
わたしは被り物をしたくなった。
遊園地、千葉にある東京のアレを真似たキャラクターである、ミミィちゃん。
頭からあれを被って、この子に向かって、左足をかがめ右足を横に伸ばしたい。
腰を支点に上半身を右足先方向にくのじに曲げて、両手のひらをこれでもかと開いて、ぱたぱたと振りたい。
それは着ぐるみ係として、身体に馴染んでいた動きだった。
綿貫雫になる以前の、わたしの動きだ。
もうあの頃の戸籍はない。
雇用保険、アパートの賃貸契約等、あらゆる記録が、消去済みだ。
これは村人が海外案件に挑むにあたっての、通過儀礼である。
でも、消しようがないものがある。
記憶だ。
アリアさんがわたしのおでこを割りかけた時、崩壊したワインボトルからあふれ出たモノも、わたしの記憶だ。
そして今のわたしを衝き動かしているこの感情も、根源は記憶なのだ。
この子の前で踊って、喜ばせてあげたい。
わたしは奈亜ちゃんを治癒してもらうために、この案件を引き受けた。
そして、このカラカスに来た。
仕事はジャイカの栄養士だ。
もう二度と誰かのために着ぐるみの動作をしたいとか、思う事はないと思っていた。
……ほら、来た。
感傷だ。
いちいち感傷的になるのは、セイレーンの因果なのだろうか。
それとも、多濡奇が駄目駄目な女だからだろうか。
まあ、この場合はどちらだろうが関係はない。
「こんばんは。わたしは多濡奇と言うの。日本から来ました」
わたしは親しみの微笑を口元に浮かべ、瞼を柔らかく落とした。
そう、寝てたら兄が怪しい東洋女を連れてきた。
女が自分を見て、硬直している。
これはこの子も迷惑だろう。
ファナちゃんは、きょとんとして、ガブリエルさんに視線を上げた。
この時、わたしはびっくりした。
彼女が視線を上げるはずみで、前髪が揺れて、ランプを反射する光沢が美しかったとか。
凛とした横顔が、ガブリエルさんに似て、草原の彼方を見据える遊牧民のような、独特の雰囲気があったとか。
そういう事ではないのだ。
心音が2つした。
1つは、ファナちゃんの胸の奥。
まだあどけないけれど、成熟した女性として花開きつつある生命力を感じさせる、刻み。
もう一つは、刻みとも言えないほどのとても微かな心音。でも、確かにそこにある。
繊維の硬そうな、色あせた茶色の毛布に覆われた、腹部。
体育座りのように膝を曲げた彼女の奥には、彼女以外の命があるのだ。
ファナちゃんは、妊娠している。
「挨拶しろよ。ファナ。わざわざ北の半球からきてくれたんだぜ」
「……ファナです。多濡奇さんって、天使なの?」
言葉を促すガブリエルさんから視線を戻して、ファナちゃんは小首を傾げた。
「え?」
わたしの口は、半開きになった。
「透明な感じ。雪の水晶みたい」
「結晶だろ」
ガブリエルさんが笑う。
ファナちゃんも、恥ずかし気に顔をくしゅっとさせた。
いや、天使はファナちゃんだろう。
わたしは色白なだけだ。
「わたしは」
「俺の友達だ。お前もなれよ。多濡奇さんは北半球からきて、1人で寂しいんだ」
割り込むガブリエルさんの物言いに、わたしの胸の奥は、どきりとした。
が、違うだろう。
話がそもそも違う。
わたしはガブリエルさんに、殺し合いの場を頼んだのだ。
対立組織の壊滅。
死を踊り、花びらのように振りまく。
それがわたしの望みである。
思わず、ガブリエルさんを恨めし気に睨む。
こんな、可愛らしい、少女で妊婦さんなファナちゃんを紹介して欲しいなんて誰も頼んでいない。
懐かしい気持ち、新しい命、それは、汚れきったわたしが近づく事が許されない、最たるものだ。
が、ファナちゃんはそんなことを思うわたしを傍目に、あどけなく頷く。
「うん。なる。あたしもマリオが帰って来なくて、寂しいから」
「マリオはファナの旦那だ」
わたしが訊く前に、ガブリエルさんが答えた。
……何歳なんだろう? ファナちゃん。
まあ、それは後で訊けばいいかと思ったが、ガブリエルさんがやはり察してくれたらしい。
「マリオもファナも14歳だ。バリオスでは普通だ。ガキができたからな、いい機会だった。まあ、もともと幼馴染だし、勝手知ったるって奴だな」
……知ったる、と穏やかな、柔らかいテノールで、ガブリエルさんが話した時、彼の心音は罪悪と悲哀を刻んだ。
彼は、この子に何か隠している。
わたしは不吉を感じた。
ファナちゃんはそんな不吉などまるで感じない様子で、黄金に満たされるみたいに、海の色の目を伏せて、ほほ笑んだ。
それから彼女はわたしを見上げた。
「よろしく、ね。多濡奇さん」
差し出される手。
肘が薄いと思った。
華奢とは違う。栄養が足りてないのだろうか。
この子は妊婦さんなのに。
わたしは彼女の前に両膝をつき、その手を両手でくるむように握りしめて、
「こちらこそ、よろしく、ね。ファナちゃん」
と言った。
また、夜を思い出す。
奈崩に蹂躙された、あの山小屋の夜ではない。
九虚君が奈亜ちゃんを癒してくれた、あの奇跡の夜だ。
わたしの頬は、自然に緩み、何故か分からないけれど、目の奥が熱くなった。
気が付くと、ファナちゃんの手のひらを握りしめたまま、涙の粒をいくつも、ぽろぽろと流していた。
ファナちゃんが、不安そうな顔をする。
彼女が口を開きかけた時、ガブリエルさんがまた、割り込んだ。
「多濡奇さんはさ。寂しかっただけだ。だから、な。ファナ、お前と友達になれて嬉しいってことさ」
……また勝手な事を。
当たっているだけに、わたしはガブリエルさんに、イラっとした。




