ダメダメ多濡奇
わたしはいつも通り、バリオスの頂上部の暗緑色の木立に至った。
カラカスという巨大金魚鉢に視線を投げる。
木立の奥から風が吹き抜けてきて、わたしの髪を後ろから揺らした。
先ほどのガブリエルさんを思い返す。
野生的な色気を感じさせる人だ。
月を眺めるのが好きで、わたしの強さが『分かる』くらいには腕が立つ。
しゃがむ彼の心音は、終始、甘い痛みを刻んでいた。
彼は昔、東洋人に恋でもしていたのかもしれない。
ハードボイルドな空気を醸すガブリエルさんの事だから、やっぱり色々あったのだろう。
まあ、色々あったというのはわたしも同じだ。
ふと、昔の奈崩を思い出す。
今の、最悪なあの男ではない。視界に入るだけで吐き気を催すような、あの醜悪な奈崩ではない。
昔の、まだわたしが無邪気に、そして愚かに関わる事ができていた頃の、奈崩だ。
例えば、あの頃の彼が、ガブリエルさんみたいに、友達になろう、と言ってくれたら、わたしはどうしたのだろうか。
……どうして、こんな事を思ってしまうのだろうか。
わたしはしばし考えあぐねた。
そして、分かった。
環境が似ているのだ。
バリオスは、保育所があった村と似ている。
あの村は外部を拒絶していた。
奇跡的に迷い込んだ登山客などを、解剖学の素材にするくらい、徹底的な拒絶加減だった。
閉ざされた場所。
そこで生き延びる子供たち。
後ろから吹き付けてくる夜風に髪を乱されながら、わたしはとてもノスタルジックな気持ちになってしまった。葉が擦れあう音に合わせて、また感情が昂ぶる。
歌いたい、と思う。
歌の衝動は、セイレーンの因果だ。
わたしが今、歌い、その旋律が風に乗ってバリオスに届けば、起きている人々は死亡する。
閨で交わる親たち、夜に紛れて怪しい活動をする若者たち、そしてガブリエルさん。
みんなみんな死んで、日が昇り、少数の大人と子供たちだけが起きて、身内の死体を目撃する。
駄目だ。
そういう事はしてはいけない。
致死率75%の案件に臨んでいるせいか、それとも九虚君に恋をしているせいか、この頃のわたしは、やけに感傷的になっている。
良くない兆候だ。
でもまあ、スリーパーというものは、そういうものなのだろう。
わたしはため息をついて、立ち上がり、木立の葉むらに両手を伸ばした。
散歩のつもりが、思わぬ収穫があったのだ。
喜ぶべきだ。
ガブリエルさんが、友達になってくれた。
親友は淫崩1人でいい。
スリーパーとして、現地の情報を集める。
昼間はサンタ・ソフィア病院。
夜はこのバリオスで集めることができたなら、効率は上がる。
なんせ、今は何も分からないのだ。
何がわたしの命を奪うか。
何が幻の神花に繋がるか。
分かるためには情報が必要だし、現地のルートが必要だ。
ガブリエルさんという情報ルートが開拓された。これは願ってもない。
現地に入って3日目でこれは、良い成果だろう。
と、わたしは納得して、木立を離れ、バリオスの斜面を駆け下って、イングニス邸への帰路についた。
……夜のアスファルト舗装された道を駆け、いつも通りに沢で靴底を洗う。
沢を覆う木立の葉むら、その隙間からさしこむ月光に、水の流れが淡く煌く。
その煌きに、心を奪われながら、思う。
- そう言えば、ガブリエルさんにも、急き立てられないなあ。-
そうなのだ。
利用価値のある現地人。
良好かつ円滑な人間関係を築くためには、寝ておくことが好ましい。
わたしは案件では尻軽になるけれど、抱かれる事で物事が円滑になるのなら、村人だろうが一般人だろうが構わない。
そんな拘りやプライドは、淫崩を喪った時に捨てた。
つまり、ガブリエルさんとも寝ておくべきなのだ。
が、そういう気にならない。
でも、明日のバリオス案内を、わたしはとても楽しみにしている。
これは、どういうことだろう?
わたしは余程、彼の事を気に入っている、ということなのだろうか。
だから、綿貫雫ではなく、多濡奇という本名を教えたのだろうか。
自分の気持ちがよく分からない。
淫崩を喪って、ずっと閉ざしていた心が、奈亜ちゃんに解かれて、九虚君に救われて恋をして、今はガブリエルさんと友人になれた事を、嬉しく思っている。
もやもやする。
わたしの駄目駄目加減が増しているきがする。
わたしは色々な事に納得がいかないまま、イングニス邸に戻り、シャワーを浴びて着替え、ベッドに仰向けにぱたん、と倒れてる。
ちょっとごろごろして、枕もとの九虚君のゴンザレス! を丹念に見入っているうちに、うとうとして、意識は眠りに吸い込まれた。
こんな感じで、カラカス生活の3日目は終了した。
任務:幻の神花、謎の敵の情報収集。
オペレーション:潜入工作員としての生活基盤の確立。
これまでの関係人物等
ガブリエル:
バリオスの色男。長身。ロシアンフック使い。アンジェラの飼い主。多濡奇の強さを直感する程度には達人。
アンジェラ:
黒い毛並みの雌犬。3歳。ガブリエルが飼っている。
セルジオ・イングニス:
綿貫雫のホームステイ先の人物。国営石油資本職員。60歳。
丸眼鏡の奥の瞳は理知的。口ひげが艶やか。痩せ型。
ミリア・イングニス:
セルジオの妻。美術館職員。50歳。ふくよかな女性。
目も鼻も口も大きい。心も広い。
チャベス大統領似の守衛:警備員。愛妻家の55歳。
安原弘樹:
ジャイカの職員。白髪混じりの短髪。彫りの深い顔の52歳。
中島保:
ジャイカカラカス事務所長。禿げ上がった60代。穏かな性格。
安原ノエミ:
ジャイカの現地職員。安原弘樹の新妻。安原とはできちゃった婚をしている。常に物憂げな27歳。
大仏顔。
アルメイダ:
サンタ・ソフィア病院の管理栄養士。28歳。カラカス上流階級。豊かな胸のプラチナ美人。芸術家のアールオと折が悪い。
アールオ・エンポリオ:
ベネズエラでは有名な芸術家。専門は彫刻。とても気難しく、ことあるごとにアルメイダと衝突。入院患者のセナイダの夫。
セナイダ・エンポリオ:
糖尿病でサンタ・ソフィア病院に入院。
セルジオ・イングニス:
綿貫雫のホームステイ先の人物。国営石油資本職員。60歳。
丸眼鏡の奥の瞳は理知的。口ひげが艶やか。痩せ型。
ミリア・イングニス:
セルジオの妻。美術館職員。50歳。ふくよかな女性。
目も鼻も口も大きい。心も広い。
プンスカ号:
アメリカ車。黒のシボレー。ライトバン。2回キーを回さないとエンジンがかからない。ジャイカの社用車。




