愛着と敬意
わたしは、そう、とだけ返事をした。
手元に視線を戻し、裁縫を続ける。
一通りの修繕を終えたので、まだ身動きの取れない奈崩の体を清潔な布で拭く。
絆創膏やら包帯やらを巻く時に、嫌がられるかな? と思った。
けれど彼は特に何も言わなかった。
心音は静かな覚醒を刻んでいる。
良かった。大分回復してくれた。
「まず体を治して、ね」
と言ってわたしは、仰向けのままの奈崩の白髪に覆われたおでこを、ぺしっ、と叩く。
それから立ち上がり、部屋を後にした。
翌日、何食わぬ顔をして講堂に入っていく奈崩を遠目に確認しながら、
― 斑転は強いなあ。 ―
と思う。
そのまま淫崩たちと合流して、講堂に入った。
講義のテーマは世界の神話。
休暇で民俗学の大学教授をしているというロマンスグレーな髪の村人の逆忌さんが、その日の講義を担当していた。
ちなみに休暇というのは、文字通り休暇である。
村人が案件という村の特殊任務をやり遂げると、休暇がもらえる。
その間は、普通のヒトたちの仕事に就く。
就労のサポートは村がしてくれるし、基本的に村人の処理能力はとても高いので、したい仕事に就ける。
基本村はゆるい組織だ。
休暇中の職業選択については、特にゆるい。
駅職員、土木作業員、漫画家、ピザの宅配員やコンビニアルバイトなどをしている者もいる。
やる気がないならゲームニートとして引きこもってもかまわない。
その日の逆忌さんの講義は、世界の神話シリーズ南米編だった。
ペルーのケツアルカトルがグアテマラのキチェ族のクルルカンだとか、羽根が生えた蛇だとか、キチェ族の神話には13の天があり、それぞれに対応する神々がいるだとかの話から始まった。
次に神々の説明。
月と自殺の女神や、雷と嵐の神、夜にジャガーに変身し死の世界をうろつく神、完全なる善意と知恵の神、それに洪水を起こす女神などがいる。
彼らの敵対者として死と疫病の王がいるという話になって、逆忌教授が講堂を見渡した。
「斑転の方はいますか?」
ちらりと横目をやると、淫崩はうつむいていた。
反対に、須崩が大きく堂々と手を挙げる。
逆忌教授は、神話に登場する死の王は貴方の遠い親戚かもしれませんね、と微笑んだ。
講義が終わったのでわたし達は別の講堂への移動。
この時、奈崩とすれ違う。
ちらりと眼をやると、彼はこちらに目を合わせない。
心音にも何の変化もないままに、足を引きずるようにして廊下を歩き去って行った。
― 足も痛めていたのか。……自己回復に手間取るくらい。 ―
奈崩の後ろ姿に心の中でため息をつく。
それから思う。
― また手当することがあったら、足に湿布を貼ってあげよう。 ―
「どうしたの?」
淫崩が怪訝に顔を覗いてきたので、わたしは笑顔を作って小さく首を振った。
「なんでもない」
と答える。
……奈崩を介抱したとかそういうことを、わたしは何故か伝える気にならなかった。
その4年後に、
「わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは何故わたしは……!?」
と、狂ったように、自責と歯噛みをしながら考え続けることになるのだけど、この時点では遠い先の話だ。
……前にも述べた通り、わたしはあの男に軽い愛着と敬意を描いていた。
だから瀕死の彼を助けたし、介抱も当たり前のようにした。
あくまでもこっそりと、である。
そういう行動にわたしを導いたのは、つまるところ斑転という因果に対する敬意だったと思う。
ただわたしはあの男と淫崩を斑転という同じくくりにすることを、淫崩が嫌がると思っていた。
つまり淫崩は斑転ではなく淫崩として、見て欲しいと思っていると思っていた。
それはわたしが淫崩に駆他ではなく多濡奇として、友達であって欲しいと思っていたように。
そんな感じで、わたしは奈崩を助けるようになった。
といってもそれは、いつもではない。
ごくたまに夜中の通路で見かけたらするくらいの、ささやかな気まぐれだった。
それでも、わたしの中で彼に対する意識が変化をしたのは事実だ。
出来れば認めたくない。
現在のわたしは、あの男に拒否感を覚える。
それは生理的に。
けれどその頃は今と違っていた。
わたしの目はそれとなく、保育所の景色、子供たちの群れの中にあの男の姿を探すようになっていた。
前日の戦闘の有無を彼の状態から確認したかったし、傷がひどいようなら手当をしようとも思う。
そして、そういう時は、実際にした。
夜中の通路で奈崩を見かける時、あの男はいつも瀕死だったし、沈黙も変わらない。
でも彼の沈黙に不満はなかった。
助けたいから助けるだけで、お礼の言葉が欲しいから助けるほど、わたしは欲しがりな村人ではない。
そもそも弱い奈崩からの礼など、何の意味もなかった。
普通のヒトからしたら、こういう言い方は角が立つように思われるかもしれない。
しかしわたしが育った村では、弱者に価値は無く、強者こそ至高なのだ。
強者とは滑らかに命を摘む資質を有する者である。
こういう価値観を、幼少から叩き込まれ続けたので、幼いわたしは素直に、強いわたしには価値があり、弱い奈崩には、斑転であること以外の価値はない、と思っていた。
価値のないものを助けたいと思う思考回路は、説明が難しいが、無理やり例えるのなら、雪の地蔵に笠をかけてあげる感覚だろうか。
笠をかけるという行為に対価は要らない。
地蔵という尊厳があり、尊厳に敬意を払うということで、すでに対価を得ているからだ。
わたしにとって奈崩は地蔵以下だった。
だから、言葉も何も要らない。
加えて斑転は戦闘の因果で、駆他は殺戮の因果だ。
戦闘と殺戮なら殺戮の方が優れている。
……こういう強者の余裕が弱者を傷つけ、凶者に変えることに、幼く浅はかなわたしが思い至ることはなかった。
それに、斑転という因果への敬意も絶対ではない。
つまり、あの男への肩入れが淫崩の耳に入ったら、こういう自己満足的行為はやめようと、強く思っていた。
けれど、保育所の底辺階層は、わたしの報復を恐れたのか、そういう噂を立てることもなかった。
つまり、彼らは口をつぐみ続ける。
誰かが噂をたてて、愚かだったわたしを止めてくれれば良かったのに、と保育所を出てからも、ずっと思い続けた。
正直、今でも心のどこかで、そう思っている。
けれどそれも、強者として君臨する態度をとり続けたわたしが招いた、因果だ。
江戸の頃、村人の誰かが、パスカルの
「人は考える葦である」
という名言に対抗して
「村人は血と因果をまき散らす狂人である」
と言った事がある。
そしてわたしはこのフレーズに、ぐうの音も出ない。
わたしと奈崩がまき散らした因果が、淫崩を殺したからだ。
でも、そんな未来などまるっきり思い至らない子供だったわたしは、ゆっくりだけれども確実に強くなっていく奈崩を、心から応援していた。
彼の齢が13にもなるころには、夜の通路で潰されかけることは滅多になくなり、衰弱しながらも引き分けにも、もちこめるようになる。
14になってからは、相変わらず衰弱しながらも、上手くいった時には相手を潰せるようにもなっていた。
そういう場面に居合わせた時は、わたしは
― がんばれ。 ―
と心音で呟きながら、通路のはしに避けてそのままトイレに行っていた。
だから、洗い物をしていた時、隣で淫崩が
「奈崩、潰そう」
と言った時、わたしは唖然とした。
唖然とし過ぎて、スポンジに、ハンドソープをつけてしまう。
それも大量に。




