沙叉との戦い
俺は目をそらした。
そらす事しかできなかった。
そして思い出した。
ああ、幸せだったんだな、俺は、と思った。
話したい、とか、目を合わせたいとか、そういう欲求が幸せだった。
気恥ずかしさに負けてきた日々が幸せだった。
だから、いいんだ。
もう、いい。感謝を伝える事は、もうできない。
でも、いいんだ。
多濡奇は立ち上がって、どっかへ歩いていった。
多分手洗い場だろう。
そして、食堂と保健室に忍び込み、回復薬を持って来るんだ。
……ははは。
ウケルな、俺。介抱されたいのか。いや、理屈じゃねえ。
同じ場所にいたい。同じ空気を吸いたい。それだけだ。
でも、もう、無邪気に、浸ることはできねえ。
そうだ。
あいつは保育所の餓鬼だが、俺はもう戦士なんだ。
俺はよろめきながら、立ち上がった。
弾みに、折れた肋骨が肺をかき回して、食道を血が昇ってくる。
が、飲み込む。
ふらふらになりながら、部屋に戻り、回復薬を飲みながら、気を失った。
夏が終って鈴虫が鳴き始めた夜だ。
保育士の女が俺を訪ねてきた。
「届きました」
「そうか」
大仏にカツラ被せたみたいな顔した沙叉は、俺を見下ろして言った。
俺は見上げて、少し笑った。
免疫不全ウィルスが届いたってことだ。
どんな痛みが俺を襲うのか、分からねえ。
未知のウィルスだ。
正直怖え。
が、怖すぎたからか?
俺は笑った。
沙叉も微笑んだ。
11年前、そういやこいつに、雪の外に出されたんだったな。
こいつは、静かで暗い女だ。
菌のアンプル関係は、こいつが手配してくれる。
ずっと世話になってきた。
何かのはずみで、こいつに歳を訊いた事がある。
「女性に歳を尋ねてはいけませんよ」
マットウな答えが返ってきたが、俺はよく分からなかった。
それが顔にでたんだろう。
「歳を訊かれた女性は、暗くなってしまうのです」
俺はびっくりした。
いつも暗いのが、沙叉だと思っていたからだ。
今は、暗くないのか? と訊いたら、はい、明るい心持ちです、と答えられた。
すげえ暗い声だったが、俺はカワイソウになって、突っ込むのはやめておいた。
そんな事を思い出しながら、沙叉と通路を歩き、保健室まで降りた。
奴は、アンプル保管庫から、一本取り出す。
代わり映えのしない、赤。
ああ、赤だ、って感じの暗い赤。
血が入ってるんだろう。
俺は奴の前の椅子に座り、台に腕をおいた。
肘の内側の静脈を、見せる。
沙叉は、注射器にアンプルの中身を入れて、俺を見た。
「眠りの部屋が、用意されております」
「特別タイグウだな」
俺は吐き捨てるように言った。
眠りの部屋。
殺り合いで再起不能、植物人間になった奴が、安置される場所だ。
あんまり使われる事はねえ。
大概、昏睡とか、曖昧な決着にはなんねえからだ。
沙叉は俺の皮膚をアルコールをしみ込ませた脱脂綿で拭き、それから、注射針の先をいれた。
なんでもねえ痛み。
アンプルの血液が、血管の中に押し出される。
「……来た、のか」
「入りましたからね」
「……静かな奴、だな」
俺は拍子抜けした。
そして、次の瞬間、気絶した。
夢を見ていた。
密林。猿。蝙蝠。アジアの高原。
そうか。
それが、お前の故郷か。
それから、全身が痒くなった。
肺がカビた。
全身にいぼが生える。
それは足首から始まる。
俺はイソギンチャクみたいになって、悶え苦しんだ。
1時間。
2時間。
12時間。
1日。
1週間。
1ヶ月。
1週間。
1日。
12時間。
2時間。
時計は進む。そして戻る。そして進む。
……それが夢か、現実か、わからねえ。
色んな場所が出血した。
肛門から血も流れた。
愛、という言葉が頭を反響する。
血は愛。
赤は愛。
性は愛。
愛は赤。
「そうだな。お前は正しい。赤は、赤だ」
俺は呟いて、それから、脳をウィルスに喰われた。
……目が覚める。
眠りの部屋は真っ暗だった。
俺は起き上がる。
……こいつは、俺を選んだのか?
認めたのか?
思った瞬間、俺はまた、ぶっ倒れた。
物の先が膨らんで、精が出て、肛門からも出血した。
よだれを垂らして、また気絶した。
愛、という言葉が頭を反響する。
血は愛。
赤は愛。
性は愛。
愛は赤。
「そうだな。お前は正しい。赤は、赤だ」
俺は呟いて、それから、脳をウィルスに喰われた。
……この繰り返しだ。
つまり、保健室ではすぐに気絶した。
眠りの部屋では、一度起き上がってから、またぶっ倒れて、気絶した。
気絶の時間が減っていく、つうのは、こいつが俺に馴れていくってことだ。
そう、問題は。俺の体力が、気力がもつかってことだが。
つまり、正気が保てるかって問題だったんだが。
結局クリアして、こいつは舎弟になった。
血は愛。
赤は愛。
性は愛。
愛は赤。
こいつのうたい文句だ。
湿っぽい台詞だ。
俺にぴったりだ。
正気が飛びそうな俺を、常に引き戻してくれる。
なんせ、俺は、あいつを愛しているから、こんなことに首突っ込んでるんだ。
励ましたいのか、気を狂わせて潰したいのか、よく分かんねえが、おそらく両方だろう。
俺は、耐え切り、正気を保ちきって、こいつは俺に屈服した。
ふらふらの体で起き上がり、眠りの部屋から出て、普通棟に戻ろうとする。
沙叉が仁王立ちしていた。
白の装束に、身をつつんでいる。ああ、あれだ。死装束ってやつだ。
もともとでけえ女だが、こんなの着てるせいか、いつもより、でかく見える。
俺は、笑った。
そういや、誰かに笑うのは、これで3人目だな。
「よくぞ、起きてくださいました」
「……俺は、どれくらい寝ていた?」
「7時間」
「短いな。もっと、永遠だった」
大仏顔の女は、口角を上げた。
「時間は、そういうものです。長い程短く、短いほど長い。奈崩君。貴方を因果に導いたのが、私にとっては昨日のよう……」
境間に、俺は、保育士を殺していいか、訊いた。
淫崩に多濡奇を襲わせる、保育士。
まあ、こいつの業務はアンプル管理だ。俺にも、淫崩にも、どちらにも近い。
つまり、順当だ。
くっそ。
感づいてたが、こんなとこで迷うべきじゃねえが。
くっそ。
だが、まあ、仕方ねえ。
俺は、あいつのために、全てを犠牲にする。
こいつも、その1つだ。
「覚悟はできましたか?」
「……ああ。とっくにできてる。つうかよお。訊く暇あったら、襲ってこいよ」
俺は、頭をかきながら、そう言った。
沙叉は笑った。
「貴方は優しい斑転です。わたしは、沙叉。44歳の、夜叉の子孫です」
「そうか」
次ぎの瞬間。沙叉がぎょろしと目を見開いた。
夜叉の形相。
でっけえ牙。
膨れ上がる肉体。
夜の嵐みてえな圧迫。
肉体強化型の因果か。
くそ。
これじゃ、弱いもの苛めじゃねえか。
だが、俺は……。
俺は動かない。
-迷わない。-
沙叉は、両手をがばっと広げて、俺に飛び掛ってきた。
その腕が俺の1m前まできて、掴もうとした時。
そう、奴が掴もうとした時だ。
捉まれたら、俺はブリキのおもちゃみたいに、ねじ切られる。
やつの腕が、俺の首に動きながら、いそぎんちゃくに変わった。
いや、いぼだ。
夢で、この舎弟を屈服させる夢で。
いやってほど見た、いぼだ。
……空気感染。
射程は1mか。
それは、沙叉の全身に広がる。
目も鼻も口も額も顎も、首も、装束からはだけた胸も、脛も、全てを白いぶよぶよに変える。
やつは、俺に変えられながら、首に抱きついてきた。
柔らかい抱擁を感じた。
もうその時には、沙叉は死んでいた。
俺は一歩も動かずに、奴を殺した。
「……世話んなったな、沙叉」
俺の口がそう喋った。
他人がしゃべるみてえだった。




