第七章 歩き始める冬【3】
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「……おん…………紫苑!」
「ん……」
どんどんという何かを叩くような音と同時に大声で何度も名前を呼ばれて、ゆっくりと目を開けて顔を上げる。
一瞬視界に入った物が何なのかわからず戸惑い、すぐにそれが何か思い出して血の気が引いた。
目の前にあるのは久しぶりに見た、もう見る事は無いだろうと思っていたパソコン。
液晶画面の縁には仕事について書かれた付箋が数枚張られている。
使っている内にいつの間にか手元を見ずに打てるようになったキーボードは、もう以前のスピードでは打てないだろう。
私の手はもうすっかり筆に慣れてしまったのだから。
今腰掛けている椅子も、突っ伏していた机も、キーボードの横にある犬のシルエットが描かれたコーヒーカップも……すべて私が元の世界で使っていたものと同じだ。
一年近く目にしていない上に完全に捨てたつもりだったせいで薄れていた記憶は、実際に見る事でどんどん蘇り、リアルになってくる。
ここはこの世界に来る前に過ごしていたマンションの一室、一人ぼっちだった頃の私の唯一の居場所だった家だ。
頭の中が一気に混乱し、慌てて周囲を見回す。
「蓮? 柊? コンちゃん?」
おそるおそる絞り出した声は自分でもわかるほどに力が無く、ひどく情けない。
部屋の中は耳が痛いほどに静まり返っており、先ほどまで聞こえていたはずの名前を呼ぶ声と何かを叩く音は聞こえない。
……あの声、すごく嫌な感じだった。
最近私の名前を呼ぶのは蓮か柊、もしくはお客様や町の人で、皆笑顔で会話できる人達ばかり。
彼らとの会話は楽しくて、先ほどの声のような聞いただけで憂鬱になるような声の持ち主はいない。
そっと椅子から立ち上がる。
部屋の中をどれだけ見回しても何も変わらない。
「夢?」
……どちらが?
ぞわっ、と全身に鳥肌が立つ。
得体のしれない不安と恐怖、そうだ、私は今すごく怖いと思っている。
「蓮?」
あの赤い目を細めた色気のある笑みは、最近では呆れ交じりだったり楽しそうだったりで、彼がふざけている時以外はあまり見ない。
同じ屋根の下で暮らし、扉を開ければ当たり前のようにいる彼の姿はどこにもない。
「柊?」
生真面目な彼は最近よく笑うようになった。
楽しそうに、幸せそうに笑って、以前よりもずっと多くの話をしてくれる。
蓮ほどでなくとも頻繁に家に出入りしているはずの彼の姿も、もちろんない。
「コンちゃん?」
呼べばすぐに足元に走って来て足にぐりぐりと頭を擦り付けてくるあの温もりも、今は無い。
足元が寂しい、膝の上が嫌に軽い。
「あっちが、夢……?」
呆然と呟いてしまって泣きそうになる、口にしたのは自分なのに。
そんなはずはない、だって彼らは確かに私の前にいて、私はずっと幸せで。
異世界なんてありえない、でも確かに私は異世界で暮らしているのだ。
「……嫌、嫌だ、みんな、どこ?」
震える手を胸の前でぎゅっと握りしめ、必死に足を動かして部屋から出るためにドアの方へ歩を進める。
このドアの向こうがいつもの店でありますように、と願う私の必死さを嘲笑うように、ドアの先は私の記憶通りのリビングだった。
薄暗い部屋、閉じたカーテンの向こうも元の世界なのだろうか。
開ける勇気は今のところない。
「やだ、蓮、柊……」
あの幸せな時間を知ってしまった今、人との関わりを避けて何もかも諦めて生きていた元の生活に戻るなんて耐えられない。
二人が、大切な親友達のいない世界なんてもう想像すらしたくない。
たくさん交わした約束のすべてが守れないどころか無かったものだなんて、考えたくもない。
どうしたらいのかわからず立ち尽くしていると、どん、という目が覚めた時に聞いていたものと同じ音が背後から響いた。
勢いよく振り返ったその先にあるドア、その向こうからどんどんと連続して聞こえてくるその音。
たしかあのドアを開けると玄関のはず……なんだろう、嫌な予感が止まらない。
静かに、呼吸の音にすら気を遣いながら玄関に繋がる扉を開ける。
あの世界に帰りたい、けれど不思議とこの音が帰宅の手掛かりになるとは思えない、むしろ嫌なものに感じてしまう。
音が大きくなる、玄関の扉は揺れており、向こうから叩かれて音が出ている事がわかった。
ゆっくりと踏み出した足元で、廊下がぎしりと音を立てる。
なぜか大きく響いて聞こえたその音は扉の向こうの誰かにも聞こえたのか、扉を叩く音がさらに強く早くなった。
「紫苑! いるんでしょう? 迎えに来たわよ、開けなさい!」
ひゅっ、と息を呑んで体が硬直する。
もう忘れていた声、忘れたままでいたかった声。
元の世界の最後の日に電話越しに聞いた、もう二度と会いたくない親という存在の声。
「見合いって言ったでしょう! 早く開けなさい!」
ドアを叩く音、強い口調の叫ぶような声。
嫌だ、夢だ、こっちが夢だ。
そうでなければ、私は……。
「嫌……」
「紫苑、紫苑!」
「帰りたい」
「聞いているの!」
「嫌よ、帰る」
「紫苑!」
「帰りたい! 帰るの!」
「紫苑! おい、紫苑!」
扉の向こうから聞こえてくる嫌な声を遮るように何度も帰るのだと叫ぶ。
視界が涙で歪むが、私の願いはただ一つ、あの世界に帰る事だけ。
私の名前を呼ぶ高い声がいつの間にか低い声になっている事に気付いた瞬間、目の前の光景が一気に変化した。
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はっ、と息を吸い込んだと同時に、視界に映る光景は見慣れた顔になっていた。
驚いた様子で見開かれた赤い目が見えて、それが誰のものなのかすぐにわかって、酷く安堵したと同時に涙が零れる。
「……蓮」
彼の名前を、たった二文字の名前を呼んだだけなのに異様に喉が痛い。
私の上半身を抱き起こしたような体勢で私の顔をのぞき込んでいた蓮の険しい表情に、少しの安堵が混ざる。
「夢……?」
そうか、夢だ。
今私がいるのは自宅でもない知らない部屋だったけれど、あのマンションでも幼い頃過ごした家でもない。
目の前には先ほどまで必死に名前を呼んで探していた彼がいる。
どうやら眠っていたらしく、私の下半身は布団の中だった。
あの世界に戻されたのはやはり夢だったようだ。
実感したと同時に心配そうに細められた蓮の赤い目を見て、帰って来られた、と小さく呟いた。
「紫苑?」
低い声で名前を呼ばれる事がこんなに安心出来る事だとは知らなかった。
酷く重い体に必死に力を込めて手を伸ばし、蓮の首に腕を巻き付けるようにして抱き着く。
「お、おい」
「良かった」
思わず呟いた声が蓮の声に被さるように響く。
「良かった、こっちの世界だ……」
一拍おいて、先ほどまで背中を支えてくれていた蓮の手がもう一度私の背中に添えられ、軽く抱きしめられる。
ぽんぽんとあやされるように軽く頭を叩かれ、肺に貯まっていた重い空気をすべて出す勢いでため息を吐いた。
「っ、げほっ!」
同時に喉に感じた痛みに咳き込む。
慌てて私から体を少し離した蓮が、再度私の顔をのぞき込んでくる。
「大丈夫か? すぐに医者を呼んでくる」
私をゆっくりと布団に戻しながら離れて行く蓮の体温に不安がまた増してくる。
離れて行く彼を引き止めようと手を伸ばした瞬間、部屋の襖が勢い良く開いた。
「どうしました、声が響いて……紫苑!」
普段の彼ならば絶対にやらないであろう勢いで襖を開けて顔をのぞかせた柊は、私を見て驚いてからほっと安堵の息を吐いた。
足早に近寄ってくる柊を見て、さらに増す安心感。
先ほどまでずっと探していた二人が目の前に揃っている。
「今目覚めたところだがまだ咳き込んでいる。医者は今城の方だな? 急いで連れてくるから紫苑の事は頼んだ」
「ええ」
蓮と入れ替わるようにすぐ近くに柊が私の隣に座りこむ。
蓮は話している時間も惜しいと言わんばかりの勢いで、部屋の入り口では無く窓から飛び出していった。
「大丈夫ですか?」
先ほどまでの蓮と同じように私をのぞき込む眼鏡越しの柊の目を見て、そっと彼の服を掴む。
驚かせてしまったらしく柊は少し目を見開いたが、すぐに優しく微笑んだ。
「どうかしましたか?」
「嫌な、夢を見ただけ」
「……そうですか」
服を握った手がすぐに柊の手に包まれる。
険しい道を歩く時に差し出される事が多い手の暖かさは、今も変わらない。
「毒消しを使ったとはいえ三日寝込む程の毒ですから、悪夢を見たのかもしれませんね」
「三日?」
「ええ。あなたが店で倒れてから三日経っています」
気持ちは落ち着いてきたが、別の意味で混乱してくる。
そうだ、私、店でいきなり息が出来なくなって、それで……。
「私、どうなってっ、けほッ」
「落ち着いて下さい、ちゃんと説明しますからあまり話さないで。今蓮が医者を迎えに行っていますから」
勢いよく声を出そうとしたせいかまた喉に痛みが走り、咳き込んでしまう。
慌てた様子の柊に制止されて、彼の顔を見る。
「あの日、あなたが店に行ってからしばらく蓮と話していたのですが、お昼前になって突然部屋の障子が外から突き破られまして」
「障子が? あ、もしかしてコンちゃん?」
「ええ。いつもは隙間を使って上手く開けるか鳴いて開けてくれと訴えるかですし、普段出さないような声で鳴いていたのでこれはただ事では無いなと。もっとも私がそう気づいた時には蓮は飛び出しておりましたが」
耳が良い蓮の事だ。
コンちゃんの態度で何かあったと気づいて周囲の音を聞き、店の異変に気付いたのだろう。
私は苦しくてのたうち回っていたし、あの女性も大きな声を上げていたから何かあったのは明白だ。
「蓮の後を追って店に駆け込んでみれば、意識を失ったあなたが蓮に抱えられている上に、城の人間は近くで混乱して震えているしで。いったい何事かと思いました。蓮がいくら大声で呼びかけてもあなたは目を覚ましませんし。ただ、あなたの様子が楓が倒れた時とまったく同じでしたので、店の解毒薬の一番良い物を使って解毒したのです。勝手に使ってしまってすみません」
「ううん、ありがとう」
柊が使ってくれなければ今頃死んでいたかもしれない。
しかし店の一番いい解毒薬はかなり強力だったはず……。
「毒は直ぐに消えましたが、解毒薬が強力過ぎたようでして。しばらく目が覚めなかったのはその薬の副作用だそうです」
「なるほど」
あの薬は体の造りが違う妖怪にもよく効くので、戦う力すらない私には効き目が強すぎるのだろう。
悪夢を見たのもその影響かもしれないが、その薬のおかげで生きているのだから感謝しかない。
「とはいえ傷ついた喉はまだ治っていないようですし、三日眠り続けていたので体も痛いはずです。しばらくは安静ですよ」
「そっか……コンちゃんは?」
「店にいますよ。日中はずっと店の前に座ってあなたの帰りを待っています。連れてこようとしたのですが店の前から動く事を嫌がりまして。どうやら家主であるあなたがいないので代わりに店を守っているつもりのようです」
「コンちゃんが……帰ったらいっぱい謝って褒めてあげないと」
「ええ、そうですね」
はあ、とため息を吐くと感じる喉の痛み。
けれどこの痛みがここが現実であると教えてくれる。
「……良かった、本当に。こっちの世界で」
「……それは、どういう」
思わず呟いた言葉を聞いた柊が少し眉根を寄せて、そう私に聞き返した時だった。
勢い良く窓が開き、人を一人肩に担いだ蓮が部屋に入ってくる。
担がれた人は蓮に下ろされたもののふらついているし、服装も乱れていた。
腕にしっかりと抱えられた鞄からしてこの人が医者なのだろうが、顔が青い。
……この人こそ医者に診てもらった方が良いのではないだろうか?
「蓮、あなたまた人間を肩に抱えて運びましたね! それも相当な速さで!」
「こっちの方が歩くより早い」
柊の引きつった表情での言葉は一切気にせず、蓮は私の顔を見て安堵している。
……私は心配してもらった事や医者を連れてきてくれた事にお礼を言えばいいのだろうか、それとも柊と一緒にやめるように言い聞かせるべきなのだろうか。
しかしふらついていた医者は深呼吸を一つすると何事も無かったかのようにきりっとした顔になり、こちらへ歩み寄ってくる。
「ふむ、目が覚めたのならばもう大丈夫でしょうが……一通り診察させてくださいね」
「はい、よろしくお願いします」
言うが早いが、医者はあっという間に二人を外に追い出し、てきぱきと私の診察を始めた。
仮にも妖怪の長である蓮と地位の高い柊を有無を言わさず追い出す様子は、妙に手馴れている。
……この人くらい強くないと城で医者は勤められないのかもしれない。
そんな事を思いながら素直に医者の診察を受ける事にした。
知りたい事や話したい事がたくさんあるし、診察が終わったら蓮と柊と話してみよう。
あの女性の事や私や楓さんの症状について……そして私の考えが正しいのならば、私が生まれた世界に続く道についても聞かなければ。




