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間章 特別を一つを過去にして(柊視点)


「さて……」


 今日の仕事をすべて終えた事を確認し、最後に書き終えた書類を片付けて立ち上がる。

 自身の荷物と共に土産の団子を風呂敷に包んで持ち上げて、甘味屋で次に来た時には何を食べようかと真剣に悩んでいた紫苑の顔を思い出して笑ってしまう。

 彼女が悩んでいた内の一つである団子、土産ですと渡せば喜んでくれるはずだ。

 紫苑の家に向かおうと部屋を出て、どこか浮ついた気分で廊下を進み城の厨の前を通りがかる。

 同時に厨の中に見慣れた背中を二つ見つけ、ぴたりと足が止まった。


「……何をしておいでで?」

「げ、柊!」

「あ、はは、ちょっとお腹空いちゃって」


 私の声に反応して振り返った二人の気まずそうな顔を見て、眉間に皺が寄ったのが自分でもわかる。

 苦笑いする料理人たちの前には城主夫婦が揃っており、二人の手には料理人たちから貰ったであろう田楽豆腐があった。


「何度も申し上げておりますが、空腹を感じたなら誰かに命じて持って来させてください。二人揃って厨につまみ食いに来るなんて……」

「いやあ、ちょっと申し訳なくてな」

「そうそう」

「そうですか。では決して何か出来立ての美味しい物が食べたい、なんて理由ではないと?」

『…………』


 無言になって静かに目を逸らす二人を見てため息を吐く。

 窮屈なのが苦手な二人は時折こうして自由に動き回る。

 もう料理人たちも慣れたもので緊張はしていないし、なんだったら二人が食べに来そうな雰囲気を察して多めに用意していることもあるくらいだが……それでも城主夫婦がくれば料理の手を止めざるを得ない。

 本人達も邪魔になるのはわかっているので頻繁に来るわけでは無いし、来るのは料理人の手が空く時間、そして長居もしないと決めてはいるようだ。


「他国からお客様がいらしている時は絶対にやめてくださいね」

「それはさすがにわかっているさ」


 他国のお客人の前で城主夫婦が厨でつまみ食いなどしていたら目も当てられない。

 私と会話しながらも追加の田楽を貰っている城主夫婦を呆れた目で見つめつつ、料理人に軽く謝罪しておく。

 大丈夫ですと笑う料理人たちはいつもならば微笑ましそうに二人を見つめているのだが、今日はどこか安堵した表情で楓を見つめていた。

 それも当然か、と楓の顔色をうかがい、いつも通りの元気さに自分も胸を撫で下ろす。


「その様子なら、体調は大丈夫そうですね」

「うん、心配かけてごめんね。もう普通に元気」


 数日前、彼女は突然眩暈を起こし、立てない程の頭痛と吐き気を訴えてそのまま倒れてしまった。

 幸いすぐに体調は回復したし、医師からももう問題無いと言われている。

 それでも普段元気な彼女が突然倒れたので、ここ数日は皆心配していたのだ。

 二人がここに来たのは、もう大丈夫だと元気な姿を見せるためでもあるのだろう。

 とはいえ、注意しなければならない立場の自分がなにも言わず見逃す事は出来ないのだが。

この辺りは本人達も城の人間も理解している事なので、私も遠慮なく小言を口にする。

……日常が戻ったのだと、もう心配が無いのだと皆が実感するためにも、いつも通りに。


「なんだ、また城主様のつまみ食いか」

「おお、蓮。お前も食うか?」

「いらん、俺はもう帰る」


 ちょうど厨の前を通りかかったらしい蓮が城主夫婦のつまみ食いを見て渋い顔をしている。

 彼もどうせ私と行き先は同じだろう、以前は城にいるのが気まずいからと帰ってこなかったが、今は紫苑の家にいたいからと城に帰ってこない。

 いや、彼の言葉通り蓮の帰る家はすでにあちらなのだろう。

 紫苑の家の離れにだけ出入りしていたはずの蓮は最近はもう日中は母屋の方にいる事が多く、紫苑もそれを気にせずに受け入れている。

……以前の蓮は何日も連続して、それこそ命を削るような勢いで戦いに行き、誰に止められようとやめようとしなかった。

 妖怪復活を組み紐で早め、蓮が何も気にせずに帰れる居場所を作った紫苑は、彼の命も救ったという事になる。


「…………」

「どうした柊? 何かあったか?」

「いえ、なんでもありません」


 三人で行動する事が増えた今、日々はとても楽しく充実している。

 一度盛大に弱みを吐き出してしまった事もあって自分を繕う必要も無い。

人の、それも女性の家だというのに、まるで自宅のように寛げているのは自分でも意外に思うけれど。


「蓮はまた紫苑さんの家に行くの?」

「ああ。仕事が終わったからもう帰る」

「蓮も変わったよねー、蓮がこんなに人に懐く日が来るなんてびっくり」

「別にいいだろ」

「え……」

「なんだその意外そうな顔は」

「え、だって、前の蓮なら『懐くってなんだ? また狐扱いか?』とか言いそうだったし」

「つまり俺をからかおうとした、と」

「目論見はずれちゃったなあ」


 蓮の意味深に細められた目を慣れた様子で適当に流す楓を、楽しそうに城主が見ている。

 一人きりになった蓮を気遣い、しかし気遣った結果よけいに蓮が孤立していくのを歯がゆい思いで見ていた彼は、蓮が紫苑と仲良くやっていると聞くのが嬉しいのだろう。

 そう、喜ばしい事だ。

 紫苑がいなければきっと、蓮が孤立していた時間はもっと長かったのだから。

 ……良い事のはずなんだ。


「柊も最近はほぼ毎日通ってるよなあ。俺にとっては蓮が懐いてるよりもそちらの方が驚きだ。ずいぶん居心地良さそうにしているし、お前に安らげる場所が出来たみたいで良かったよ」

「……そうですね」


 確かに、自室にいる時よりも紫苑の家にいる時の方がのんびり出来ている。

 決して近い距離では無いのに毎日のように通い詰めて……遠い場所まで行く労力よりもずっと、あの家に行く楽しみの方が大きい。


「でもいいなあ、私もその紫苑さんに会いたい。とろんと垂れた目と口元のホクロが色っぽい美人なお姉さん」

「なんだその人物像は……」

「え? お城で話してる男の人が結構いるから覚えちゃった。『あのとろんとした目で見つめられるのがたまらなくて買い物の時に長居してしまう、話すとさっぱりしているのもまた良い!』って盛り上がってる人たちもいたし『紫苑さんの世界にいる想い人とやらはあの目に恋慕の情が浮かんだ状態で見つめられていたのか、羨ましい!』とか悔しそうにしてる人もいたよ」

「城ですごい会話をしてるやつがいるな……まあ、俺も直接会った事は無いが、部下たちが話しているから外見の特徴は知っているぞ。もし見合い話を受け入れるようになったら教えてほしい、と仲介役の人間に頼んでる奴も見た」

「私も。見合いを断られてしまった、って残念そうにしてる人見た事ある」


 やめてくれ、と叫びそうになって、そんな自分に驚いてすぐに口に手を当てた。

 今自分は何を……誰に向かって言おうとした?

 黙ってくれ、と楓に言いそうになってしまった自分が信じられず、頭の中が混乱する。

 楓の話を、その声を聞くのが好きだった。

その声を遮るなんて、遮りたいと思うなんて絶対にありえない。

 最近感じる様になった複雑な感情が腹の底でぐるぐると回っている。

 混乱する頭は上手く言葉を発することが出来ず、代わりに動かした視線は不機嫌そうな表情で楓達の会話を見つめる蓮の姿を捕らえ……そしてまた一つ、よくわからない感情が湧き上がる。


「でも本当に会いたいんだよね。ブーケのお礼も直接言いたいし、たれ目と口元の黒子が色っぽいお姉さんすごく好きなの」

「俺よりか?」

「まあ、ある意味そうかも」

「え、冗談……だよな?」

「んー」

「おいおい、今まではもちろん俺の方が好きだと即答だっただろうが」


 黙り込んだ自分とむすっとした蓮を置いて、城主夫婦の惚気のような会話は続いていく。

 今までは呆れながらもどこか苦しさを覚えていたその惚気より、先ほどの会話を聞いていた時の苦しさの方が大きい。

 目の前で城主に特別な笑みを向ける楓のように、紫苑も元の世界で藤也という男に笑いかけていたのだろうか。

 ……恋慕の情が宿った目をして、その男を見ていたのだろうか。

 時間と共にじわじわと冷静になる頭の中で不快感が増していく。

こっそり吐き出したため息を隠すように周囲に視線を向けると、楓と楽しそうに話す城主の表情に少しの嫉妬が混ざっている事に気付いた。

ほとんど冗談だったとはいえ、楓が自分ではない存在を自分よりも好きといった事に嫉妬したのだろう。

友の表情に呆れたのと同時に、その表情と自分の中の感情がぴたりと重なる。

 あ、と口から零れた声はうまく音にならず、口元を押さえていた手の中に消えた。

 最近感じていた複雑な思いも、紫苑の家に行きたいと思う気持ちも、彼女の笑顔を思い出して嬉しくなる心も。 


「そう、か……」


 なんだ、そうか……そうなのか。

 混乱していた頭の中が一気に晴れていく、目の前が今までよりも明るく見える。

 まるで長い間歩いていた霧の中から抜け出したような気分だ。

 そうだ、先ほどの自分は楓の声や言葉を遮りたかったのではなく、その内容を聞きたくなかったのだ。

 自分も今、城主と似た感情を持っている。

 自分ではない誰かが紫苑の事を魅力的だと話しているのが気に食わないし、その話題を聞きたくない。

 紫苑との見合いを希望している男がいるのも不快だし、彼女と自分の間に割り込まれたくない。

 誰かと恋仲になって寄り添い合い、その男に特別な表情を見せる紫苑の姿を想像したくない。

紫苑に頼まれて彼女の見合い話を断る時、彼女に想い人がいると口にするのを躊躇した。

甘味屋で蓮と二人でいた紫苑を見た時に複雑な気分になった。

 ……これが嫉妬という感情だと、自分は知っている。

想い人だった楓が友と仲睦まじく寄り添う姿を見て、散々感じた想いだ。

 紫苑に帰宅の道について話そうと思っても、結局話せずに終わる理由がようやくわかった。

 私はただ、彼女が自分の手の届かない所に行くのが嫌だったのか。

 気付いてしまえば単純な事で、むしろ最近紫苑の事ばかり考えていた自分にもっと早く気づけと呆れてしまう。

 ただ、散々泣いて、紫苑にも蓮にも迷惑をかけて、そうして楓への恋を過去にしたいのだと気づいたあの日の自分の願いは、思いのほか早く叶う事になったようだ。


「柊? どうした?」

「具合でも悪いの?」


 口元を押さえて黙り込んだ自分を見て、二人の友が心配そうに声をかけてくる。

融通の利かない自分を変えてくれた、大切な親友たち。


 ……そうだやっとだ、やっと言える。


「いえ、大丈夫です」


 二人の目をまっすぐに見て、心に浮かぶ安堵と喜びに泣きたくなって、けれど顔には自然に笑みが浮かんだ。


「二人とも、婚姻おめでとうございます」

「は? 今更か?」

「え、なんで今?」


 絞り出すように出した声が少し震えた。

 一気に重荷を下ろしたようで、逆に大切な荷物が増えたような気分でもある。

 ずっと、心から祝福したかった。

 楓への想いを過去にして、大切な友同士の婚姻に、表面上だけの言葉ではなく心からおめでとうと言いたかった。

 二人が自分にとって大切な存在だからこそ、心から祝福できないのが苦しくて悔しい。

 誰よりも祝福したいのに、誰よりも祝福出来ていない自分が大嫌いで情けなくて。

ようやく願いを果たすことが出来た。


「……思ったより早かったか」


 私の言葉に軽く混乱している城主夫婦の傍で、少し苦い表情で蓮が私を見ていた。

 蓮もきっと私と同じ想いを紫苑に抱いている、それも私よりもずっと早く自覚して、動き出している。

 どうやら私はまた遅れを取ってしまったようだが、もう動かなかった事を後悔するつもりはない。

 きっと彼と考えている事は同じだ、別にお互いを排除したいわけでは無く、ただ紫苑と別の関係になりたいだけ。

 不思議な気分だ、恋敵に勝ちたい気持ちと同時に、三人で過ごす時間も手放したくない気持ちが存在しているだなんて。

 それがわがままな事だとわかってはいるけれど、妥協するつもりもない。

 前の恋とはまるで違う新しい恋は、またしても壁が多い恋だけれど。

 ここで本気で努力しなければ、もしも紫苑が蓮を選んだ時にまた私は深い後悔をするだろう。

失ってから嘆き続けるよりも、欲しい物を手に入れるために努力する方がずっといい事を自分はもう知っている。

 しかし紫苑と恋仲になりたいのならばもちろん蓮は大きな壁だが、それよりもずっと強大な壁がある。

 藤也という男の事、そもそも紫苑が恋愛事を拒絶している事。

 紫苑が恋愛事に興味が無い事は救いだったはずなのに、今はそれが大きな壁となって立ちふさがっている。

そして何よりも大きな壁は、彼女に私達の手が届かない別の世界に帰る手段があるということだ。

 帰られてしまえばもう何一つとして叶わない。

 だが帰宅手段があるという事は絶対に彼女に伝えなければならない事だ。

 たとえこの先彼女が恋愛事に前向きになったとしても、道について黙っていた事を知られたら恋愛対象どころか友人としての信頼すら失ってしまうだろう。

 それに帰宅手段があるという事を伝えたとしても、突然帰られる事はまず無いはずだ。

 もしも私や蓮の想いを紫苑が知ったとしてもそれは変わらないはずで……たとえそれが彼女にとって不快なものだったとしても、私たちの言葉を何一つ聞かず、もしくは黙って自分の世界に帰ってしまうような仲ではない。

 ただ黙って帰る事は無くとも、私達と話し合ってくれたとしても、それでも彼女が帰る選択をする可能性はいくらでもある。

蓮が堂々と紫苑を口説いていないのも、最近妙に紫苑に約束を取り付けているのも、彼女が帰る可能性を少しでも下げたいからだろう。

 さて、どうするべきか……。

 


 城を出て紫苑の家へ向かう道中、私も蓮も特に変わらずいつも通りだった。

 お互いにわいわい騒ぐ性格でもないし、なんとなくお互いが考えている事もわかるので紫苑の事に対して何か触れるわけでもない。

 途中で強くなってきた雪に急かされるように歩を早め、たどり着いた見慣れた店の扉を開けようとした時だった。


「おい」

「何か?」

「紫苑の帰宅手段についてだ。あいつには後少し黙っていてくれ」

「それは……」

「いつかは伝えなければならない、って言うんだろ? 言うなとは言っていない。俺が頼んだところでお前は確実に紫苑に教えるだろうからな」


 ちらりとこちらに視線を向けた蓮の表情は、彼にしては珍しくどこか自信の無いものだった。

 基本的に余裕のある表情の彼を羨ましく思ったこともある身としては、驚きでしかない。


「紫苑が考える時間を考慮したとしても、まだ少し猶予はあるはずだ。後少しだけ俺に時間をくれ」


 そう言うが早いが、彼は店の扉に手をかけてすぐに開いてしまう。

 私が何かを言う前に、すぐに聞き慣れた声が店内から響いてきた。


「いらっしゃいま……あ、二人ともいらっしゃい」


 勘定台の向こうに座る紫苑は、いつも通りに笑顔で出迎えてくれる。

 客のいない店内は静かで何もかもいつも通り、しかし扉を開けたまま蓮と二人で並んで固まってしまう。

 とろんとした垂れた目が自分達へ向けられている。

 笑う口元の黒子になぜか目が吸い寄せられて、一瞬言葉を発するのを忘れた。

 いや、特に何も変わらない、いつもの紫苑なのだが。


「……何やってるの?」

「え、すみません、ちょっと……」


 固まる自分達を見て不思議そうにしている紫苑に何とかそう返して、店内に足を踏み入れる。

 城の人間が話す紫苑の事の大半が、彼女の瞳について触れていたからだろう。

 つい意識してしまった。

 隣にいた蓮が小さく唸りながら首を振って、そのまま慣れた様子で勘定台の向こうに上がり込む。

 彼もまた同じ事を思い出して変に意識したのだろう。

 静かに深呼吸してみれば、いつも通りの落ち着く店内だ。

 高揚していた気持ちが少しずつ穏やかになっていくのを感じて、なんだかおかしくなった。

 このゆったりと気楽に過ごせる雰囲気が好きなのだ。


「二人はもう仕事は終わり?」

「ええ、今日は早めに終わりましたので」

「朝から戦いに行ったが、雪が多すぎたからな。深入りせずに戻ってきた」


 寒い寒いと言いながら炬燵に潜り込む蓮と、外の天気を見て一瞬顔をしかめる紫苑。


「一気に降り出しましたね」

「ぎりぎり間に合ったな。帰って早々に風呂に行く羽目になるところだった」


 先ほどまで歩いてきた道は降り注ぐ雪で真っ白に染まり、風も出始めて吹雪のようになっている。

 空模様からして、今日はもう回復しそうにない。


「これはもう、今日はお客様は来られないかな。店じまいの準備始めちゃうから二人は休んでて」


 そう言った紫苑が立ち上がり店内を歩き回るのを見つつ、炬燵に潜り込む蓮の正面に座る形で自分も炬燵へ足を入れた。

 以前似た状況の時に手伝おうとしたが、これは自分の仕事だからと断られてしまい、今は三人とも仕事に関してはそれぞれで線引きしている。

 入口以外の障子を閉めている紫苑を何となく目で追ってしまい、自覚したばかりの想いが強まっていく。

 不思議と焦りの気持ちはない、今まで通りの日常に一つ気持ちが追加されただけ、という気分だ。


「紫苑、この間の甘味屋の団子を買ってきましたよ」

「やった! じゃあちょっとお茶にしようか」

「前に買った昆布は無いのか?」

「そこの棚に入ってるよ」

「蓮、団子を載せる皿も出してください」

「はいよ」


 蓮が手慣れた様子で出した皿を手に取り、土産の団子を載せていく。

 ご機嫌になって店じまいの手を早める紫苑が想像通りの笑顔だったのが嬉しい。

 作業を終えて合流した紫苑も混ざり、三人分の声しか響かない店内で美味い甘味を味わう幸福感。

 少しだけ景色が違って見えるのはきっと、想いを自覚したからという理由だけではない。


「紫苑」


 そうだ、この自覚したばかりの気持ちよりも先に、彼女に伝えなければならない事がある。

 名前を呼んだことで私の方を見た紫苑の目をまっすぐに見返した。


「ありがとうございました」

「え、何が?」


 彼女がこうして友になってくれた事で……新しい恋をさせてくれた事で。


「ようやく、おめでとうと心から言えたので」


 一瞬悩んだらしい彼女が私の言葉の意味に気付いて、優しく笑う。

 彼女と、そして蓮が強引に私の本音を引き出してくれなければ、私は今も解決策どころか自分がどうしたいのかすらわからないまま、あの重い気持ちを抱えていただろう。


「……そっか、良かったね。おめでとう」

「はい」


 ふわりと笑う紫苑の向こう側で、蓮の口元も少し緩んでいる。

 私が紫苑への想いを自覚したのは蓮にとって良い事ではないだろうに、彼は私が心から祝福の言葉を伝えられた事を喜んでくれているようだ。

 ……良い友に恵まれたと思う。

 だからこそ負けるつもりもなければ、今の関係を壊すつもりもない。

 この穏やかな空間はそのままに、一つだけ新しい関係を追加したい。

 多少慎重になる必要はあるだろうが、慎重すぎても何もできずに終わってしまう。

 それだけは何としてでも避けたい。

 せめて紫苑が今この世界での恋についてどの程度の拒否感を持っているのか、私が相手だった場合はどうなのか程度の目星は付けておきたかった。

 紫苑、と再度彼女の名を呼ぶ。

 笑顔のままこちらを見た紫苑に向かってゆっくりと口を開いた。


「もしも私が新しく恋をしたと言ったら応援してくれますか? それとも、嫉妬してくれますか?」


 ちょっとしたお遊びのような問いかけのつもりだった。

 蓮ほど頻繁にではないが、私と紫苑の間でもふざけ合って変な会話をする事はあったし、私が少し高揚した状態である事も紫苑は理解しているだろう。

 恋愛事に絡めたふざけ合いは初めてだが、この状態で紫苑が少しでも拒否感を見せるか、それとも冗談として流すか、多少は意識してもらえるのか、彼女の反応次第でこの先どうするかを考えよう……そんな軽い気持ちだった。


彼女の変化は顕著だった。


一拍おいて私の言葉を理解して、彼女の表情が一瞬で変わる。

想定していたどの反応とも違う、見た事のない表情の変化に彼女と共に自分まで固まってしまう。

 蓮の息を呑む音がかすかに聞こえ、一瞬静まり返る店内。


「……柊、いくら何でも浮かれすぎだろ」

「す、みません、少し高揚しているようです」


 蓮が助け船の様に発した言葉は少し掠れて、いつもの余裕は欠片も感じられない。

 自分も何とか言葉を絞り出して、彼の言葉にのせてもらって先ほどの言葉が冗談だったのだと強調する。

 固まっていた紫苑もいつもの軽い会話を聞いた事で、普段の表情に戻った。


「びっくりした。蓮が柊に化けてるのかと思ったよ」

「なんで俺なんだ。他人に化けるなんて俺は出来ないし、そもそもここにいるだろうが」

「いや、本当にびっくりしちゃって。蓮ならやりかねないかと」


 笑う紫苑に無理をしている様子は見られず、本当にいつも通りの彼女だ……すこし不気味に感じるほどに、いつも通りの。

 とりあえず笑ってくれた事に安堵しつつも、先ほどの彼女の表情を思い出す。


「……紫苑、組紐を頼みたいのですが、良いですか?」

「良いよ。どの効果のにする?」

「いえ。刀用の物ではなく個人で使う装飾用なのですが、色の組み合わせを選ばせていただければと」

「効果が何も無い紐でいいの?」

「ええ」

「了解。ちょっと見本が家の方にあるから今取ってくるね」

「すみません、ありがとうございます」


 見本用の糸を新しい物と入れ替えると言っていたので、今見本が家の方にあるのは知っている。

 想定通り家の方へ向かった彼女の背を見送り、店と家を繋ぐ扉が閉められてから少し待って小さく息を吐きだす。


「……一気に行き過ぎだろ」

「これから先どう動くか決めようと思っただけです。変に消極的になるつもりはありませんから。それに、あれは想定外です」

「だろうな、俺も驚いた」

「すみません、助け舟を出していただいて」

「紫苑をあのままに出来ないだろ。しかし、少し嫌な顔をするかおふざけだと思って笑うかのどっちかかと思ったんだがな」


 あの時の彼女の表情は拒否でも笑顔でもない。

 一気に笑顔を無くした表情が脳内にこびりついている。


 泣きそうにも見えたあの表情は悲しみからではない……あれは『恐怖』だ。


「恐れられたのは私だと思いますか?」

「違うだろうな。その後の態度から見てもお前の存在を怖がったわけじゃない。それにあの表情には俺も心当たりがある」

「心当たり?」

「紫苑は俺が冗談で口説き文句を言った時はおふざけ扱いで流すが、少しでも本気を織り交ぜると一瞬妙な表情になる。違和感は覚えていたが、あれはさっきの表情の前段階だな。本気の恋愛感情を察して恐れた、って感じだろう。それも無意識に」

「では相手の問題ではなく恋愛というものを恐れている、という事でしょうか……正直、意識してもらうきっかけにでもなればと思いましたし、多少強気で行くつもりだったのですが、あれは無理ですね。拒絶だけならばともかく、恐怖を感じて怯える彼女を無視して想いを伝える気はありません」

「……楓相手の消極的だったお前はどこに行ったんだよ。だが俺も強引には行けなくなっちまった」


 相手が私たちであろうとも恋愛事は無理、と拒否されているだけならば、多少強引には行くつもりだった。

 この先、彼女が藤也という男の事を過去に出来た日に、新しい恋に前向きになった日に、少しでも私の事を恋愛対象として意識してもらえるように。

 だが彼女が恋愛事を拒否しているのではなく、恐れているのならば話は別だ。


「露骨に紫苑を口説いている客に対しても一切気付いた様子が無く流していましたし、決して鈍いわけでは無い彼女が恋愛事にだけはまったく気づかないのを不思議に思っていましたが、ようやく理由がわかりました」

「鈍いわけじゃなく気づきたくないんだな、あれは。自分が恋愛感情を向けられるのも誰かに向けるのも怖い。だから無意識の内に無かった事にしてるんだろ」

「尚更、藤也という男性の事が気になりますね」


 彼女の恐怖の対象にならずに恋愛の対象に入る条件とはいったい何なのだろう?

拒否感だけならいくらでも手段はあったかもしれないが、怖がられるとなるとどう動いていいかもわからない。


「そもそも具体的に恋愛事の何が怖いんだ? あいつが顔に出るほど怯えているところなんて見た事が無かったぞ」

「そこを知らないと強気に動けそうにありませんね。意識してもらう前に恐怖の対象になりそうです……いえ、意識自体はしてくれているようですが」

「は?」

「男性として意識されていなければ、他の人間相手の時のように流されて終わりだったでしょう。私が先ほど嫉妬してくれるかと問いかけた時もあなたが本気で口説いた時も、流さずに怯えているのですから。少なくとも私たちは彼女の恋愛対象には入っているのだと思いますよ。入っているからこそ、自分が私達と恋仲になったところを想像してしまって恐れたのでしょう」

「……ますますどう動いていいかわからなくなっちまった」


 意識して欲しいが意識されると怖がられてしまう、本当にどうしたものか。

 少なくとも彼女が恋愛事に対して恐怖を感じる理由を探る必要はあるだろう。

 そのまま蓮と少し会話を続けていると紫苑の足音が聞こえ、二人揃って口を閉じる。

 何事も無かったかのように急須から自分の湯呑に茶を注いだ。


「お待たせ。あ、柊、私もお茶欲しい。まだ急須の中身ある?」

「ええ、まだありますよ」


 紫苑の顔には先ほどの恐怖の感情は欠片もない。

 その事に安堵しつつ、彼女の湯呑にも茶を注ぐ。


「紐は何色使う?」

「二色ですかね。眼鏡に付けるものが欲しいのであまり派手で無いほうが」


 組紐が欲しかったのは本当だ。

 以前は色々と買って付け替えて楽しんでいたのだが、楓に貰ってからは変えられず、二人が結ばれた後も未練がましくずっと付けたままだった。


「そっか、替えの紐も何本か作る?」

「そうですね、ですがまずは一本お願いしても良いですか?」


 楓に貰ったこの組紐の事は以前紫苑に話していたので、こうして付け替えるという選択が出来た事を彼女も喜んでくれているようだ。

この紐を貰う前のように、色々と付け替えて楽しむのもいいかもしれない。

 今付けているこの紐も、これからは友に貰ったものの一つとしてその日の気分で気軽に付け替えられるだろう。

 それがとても嬉しくて、自分が楓への恋心を完全に過去に出来た事を実感する。


「紫苑、今回の色はあなたにお任せしても?」

「え、良いけど。自分で選ばなくていいの」

「はい、大切な一本目ですから。あなたに選んでほしいです」

「……そう? そこまで言われたら責任もって柊に似合う組み合わせを選ばないと」


 私の言葉に戸惑いは覚えつつも特に恐れる様子は無く、冗談交じりの返答をしてきた紫苑を見て、やはりこの程度の言葉ならば紫苑にとっては恐怖ではないようだと確信する。

 すべてが駄目なわけでは無くてよかった。

 見本の糸を見比べる紫苑の向こうで蓮が呆れた表情でこちらを見ているが、別に良いでしょう、と視線だけで返しておく。

 もう怖がらせるつもりはないが、一切動かないつもりはない。

 明確な言葉ではなく、それこそこちらがもどかしく感じる程度の言葉遊びならば、紫苑は恐れない。

 彼女が恋愛事に前向きになった時に、そういえば迫られていたのか、と意識してもらえる程度には主張しておかなくては。

そのためにも、いずれやってくる彼女の世界へ続く道が開く日に、どうか彼女がこちらを選んでくれるようにと祈らずにはいられない。

 黙っていられる期間は長くはない、それまでに少しでも元の世界よりもこの世界の方が良いと思ってもらわなければ。

 以前紫苑はこの世界に来られてよかったと、向こうの世界に未練はないと、そう言っていた。

しかしいざ二つの世界を天秤にかけた時に、彼女がこちらを選んでくれるかはわからない。

向こうの世界には彼女にとっては唯一の想い人がいるのだから。


「そういえばこの団子、新しい味を売り始めたそうですよ」

「人気過ぎて売っているところすら見ていないと聞いたが」

「ええ。今日私が行った時にはもうありませんでした」

「それ聞いたら食べたくなるんだけど」

「あれば買ってくるが、まず店先に並んでないからな」

「しばらくすれば落ち着くでしょうし、少し待った方が確実ではありそうですね」

「……どっちか次の休み空いてたらぜんざい食べにいかない?」

「別に構わないが、今度は少し早めの時間に行くか。その方が夕食を気にせずに食えるだろ」

「運が良ければ食べに行った時に団子もあるかもしれませんしね。次に店が休みの日に行きますか」

「大雪じゃない事を祈っておかないと」


 雑談しながらもいくつかの糸を並べては別の糸を手に取って並べ直して、と繰り返す紫苑を見つめる。

 数日後、少なくとも甘味処に行く日には視界の隅で新しい色の紐が揺れているだろう。

このなんてことの無い穏やかな時間が嬉しくて、新しい恋への幸福感で静かに笑った。


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