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間章 狐の欲しいもの【蓮視点】

 ぬくぬくと暖かな炬燵の中で手をすり合わせ、居心地の良さに少しだけ眠気を感じる。

 このまま眠ってしまうのも良いな、なんて思いながら炬燵を挟んで正面に座る紫苑の顔を見つめた。

 みかんを剥くために手元に視線を向けている彼女は、俺が見ている事には気づいていないようだ。

 結構な勢いで雪が降っているためか店に客の姿はなく、紫苑も今日は早々に閉めるつもりらしい。

 雪が積もった状態で戦うと大怪我を負いかねず、俺も最近はなかなか戦いに行けずにいる。

 こればかりは毎年の事なので仕方がないし、春になればまた戦う時間は増やせるだろう。

 すでに復活の兆しが見えているので去年よりもずっと精神的に余裕がある。

 春に紫苑と出会って、気を遣わずに付き合える友になって、あっという間に冬になった。

 炬燵から片手を出して少しだけ彼女の方へ伸ばしてみる、指先が少し冷たい。

 俺が伸ばした手が視界に入った紫苑は少し不思議そうにした後、どこか面倒そうに俺の手に新しいみかんを載せた。

 彼女の少し垂れた目からは、みかんくらい自分で剥けと言っているのが伝わってくる。

 剥き終えたみかんをよこせという意味ではなかったのだが、それを言うつもりはないので大人しく渡されたみかんの皮を剝く事にした。

 渡された際に触れた指先は、予想通り一切意識される事はない。

 ここで『ただお前の手を握りたかっただけだ』と言ったとしても、笑い飛ばされて終わるだろう。

 たとえ強引に手を握ったところでいつものおふざけとしかとられないのは目に見えている。

 友人としてのやり取りが楽しいのもあってふざけて迫っていたのが完全に裏目に出ているが、今はこれでいい。

 ……そう、友だと思っている。

 気を許せて、一緒にいると落ち着く相手で、大切な友だと。

 ただ、いつの間にかその感情の隣に恋慕の情が生まれていたというだけだ。

 恋愛をする気が無いと言い切った彼女だからこそここまで親しくなったというのに、今は自分に恋愛感情が向けられないのが面白くない。

 手を伸ばしていたのが俺でなく藤也とかいう男だったら笑顔で握り返したのかもしれない、そう考えただけで嫌な気分になる。

 ……最初の頃は何とも思っていなかった。

 初めて出会った日に月を見上げながら『藤也』と名前を呼んでいた時も、会いたいと呟いていた時も、むしろ自分に迫ってこない事に安心していたはずだ。

 そこから毎日それなりの時間を共に過ごすようになって、この家の居心地が良くなって、いつのまにか紫苑と過ごすのが日常になって。

 その間も時折藤也と名前を呼ぶ姿を見かけてはいたが、特に嫌だと思った事はなかった。

 それを初めて面白くないと思ったのは、柊がすべてを吐き出した時に彼女の想いを聞いた日だ。

 今までの来訪者が俺たちに向けていたような恋慕の宿った目を藤也という男に向ける様子に、そして彼女の口から直に聞くその男への想いに……なぜか酷く衝撃を受けた。

 絶対に結ばれる事が無いとは言っていたが、本当にそんなことはありえるのだろうか。

 紫苑の家族については聞いているが、それでも想い合っているのならばすべてを捨てて二人で逃げながら暮らすという手だってあるだろう。

 お互いに負担にはなるだろうが、それでも絶対に結ばれないわけではない。

 紫苑は結婚式についても妙に詳しかったし、もしかしたらそいつと結婚の予定があったんじゃないのか?

 どこか悶々としながらも日々を過ごしていたある日の夜、子狐に何かを見せている紫苑の声を障子越しに聞いた。


『……これが、私の大好きな人だよ。今日は夢に出てきてくれるといいんだけど』


 顔は見えなかったが、それでもこその声にはしっかり愛しさが混ざっていて、それが妙に不愉快で。


『私があなた方に恋愛感情を抱く可能性は欠片も、本当に、まったくもってありませんので問題ないかと』


 同時に思い出した紫苑が俺に向かって言った声との温度差に苦しさを覚えた。

 そしてあの日、紫苑への見合い話が目の前で進められていく様子に焦る自分に気が付いて、ようやく想いをしっかりと自覚したのだが……。

 混乱しながらもいつものように叩いた軽口が誰にも違和感を覚えられなかったのは救いだったが、紫苑にとって一番近い異性であろう俺や柊との見合い話ですら受け入れないときっぱり明言された事が嫌な気分に拍車をかけた。

 それだけ彼女にとってこの世界での恋愛事は受け入れがたい事なのだろう。

 見合い話を持ち掛けられた事で元の世界での恋を思い出したらしい彼女は二日間部屋から出てこなかった。

 一瞬見かけた顔が悲壮感に溢れていた上に店に立つ様子も目に見えて本調子でなかったので、城で柊に声をかけて彼女の好きそうな物を見繕ってもらったのだが、どうやら正解だったようだ。

 ともかくちゃんと笑ってくれるようになって良かった。

 そうして己の想いは自覚したものの、紫苑が恋愛というものを強く拒絶している事もあって特に目立って動いてはいない。

 俺が異性として意識されていないだけだというならばさっさと動いたが、あいつが根本から恋愛を受け入れないならば話は別だった。

 俺が恋愛感情を向けられず安心して過ごしていた日々のように、紫苑も恋愛の無いこの世界の日常を安心して過ごしている。

 自分が穏やかに過ごせていたのに、それを彼女から取り上げるのは違うだろう。

 だが藤也とかいう男に対しては恋愛感情を向けているのだから、恋仲になるのが不可能というわけではないはずだ。

 彼女の日常を脅かさずに一歩踏み出すには、今まで以上に友として近づく必要がある。

 彼女の人生に俺が必要だと思わせて、そこから恋仲になってくれと言えばいい。

 今の俺ではまだ足りない、紫苑にとって俺が恋人になっても無害だと思われる距離にまで行かなければならない、しかし彼女から警戒されてもいけない。

 恋愛事でここまで頭を悩ませたのは初めてだが、彼女と過ごす時間が多いのは俺と柊だけだし焦らずに行こう。

 そう油断していたところで、柊から紫苑の生まれた世界との道が一時的に開くという話を聞いた。

 冗談じゃない、一切態度に出さずじわじわと距離を詰めるという手段は、紫苑がこの世界に居る事が前提だ。

 柊から話を聞いてすぐに紫苑が来てしまったのでうやむやのまま話は流れたが、道が開く日は刻一刻と近づいてきている。

 俺だけが知っていたなら黙っていただろう、初めて惚れ込んだ女を手の届かない場所へ自ら逃がすなんてお人好しな事はもうできない。

 訳のわからない石のせいで、突然自分の意思とは一切関係なくすべてを失った。

 ふと気が付けば周囲は壊れた町並みが広がり、向けられるのは恐怖の混じった視線ばかり。

 馬鹿みたいに笑い合って過ごしていた妖怪仲間は一人もおらず、穏やかな生活も家族もそれまでの人間関係も、そして自我すらも理不尽に奪われた後だった。

 それらは一つ足りとも元通りになってはいない、だからこそもう何一つとして失うつもりはない。

 多少の罪悪感を押し殺してでも、紫苑には帰宅可能になると知らせずに道が閉じる日まで過ごしたかった。

 だが柊がいる、あいつが紫苑に伝えない理由はないだろう。

 しかし焦る俺の心情とは裏腹に、柊は今日まで一度も道が開く事を紫苑に告げていない。


「……厄介だ」

「何が? 剥きやすいみかんだと思うけど」

「みかんじゃねえよ」


 つい口から零れてしまった言葉に反応した紫苑の呑気な返答に気が抜ける。

 どうやら今の彼女の頭の中は藤也という男ではなく、みかんで埋まっているようだった。


「明日は休みだろう、何か作業の予定はあるのか」

「特には。道具はある程度在庫が出来たし、最近は雪でお客様が来ない時間が多いからその間に終わっちゃうんだよね」

「なら城下町の甘味屋に行こうぜ。あそこの汁粉が飲みたい。まだ町に行ってないんだろう?」

「特に城の近くまで行く用事が無いからね。でもお汁粉は食べたい」

「なら決まりだな。ついでに見たい店があるなら付き合うぞ。俺もお前がいた方が店に入りやすい」


 これでまた一つ追加だ、と口角が上がった。

 今の俺では恋仲になってくれと言っても叶わないし、むしろ紫苑が元の世界に帰る理由を作ってしまう可能性の方が高い。

 今はまだ友人としての言葉の方が彼女を留める力になるはずだ。

 もしも道が繋がったと知った時に引き止められる可能性が高くなるように、彼女の未練になるような約束を交わしていく。

 明日出掛けようとか鍋をしようとか、間近で小さな約束だけでは足りない。

 吉方参りも春の花見も夏の花火も、先の大きな約束も含めて、彼女の未練が少しでも増えるように。


「蓮はどこか行きたいお店はあるの?」

「呉服屋だな。もう少し厚い生地で仕立てないと冬が越せん」

「いっそしっぽが全部戻ってくればいいのにね。来年の夏には減ってほしいって言いながらぐったりしてそうだけど」

「毎年夏になる度に着脱式にならないかと思っているが」

「あー……、まあ冬の間はあった方が良いでしょ。明日は雪大丈夫かな」

「明日には一度止みそうだが、また何日か降り続く日が来たら屋根の雪を下ろす必要があるな」

「毎回蓮がやってくれるからありがたいよ」

「最近は毎食作ってもらってるからな。食った分くらいは働くさ」

「いや、本当に助かってるよ。前に私がやったら屋根から落ちるって言ったけど、まず大雪が積もった屋根にどう上がったらいいのかすらわからなかったし。ご飯くらいいくらでも作らせていただきます」

「ならついでに来年以降の冬の暖と夏の涼しさも提供してくれ」

「もちろん。あ、じゃあ明日の夜はまた鍋にしようか。冷え込むのはわかりきってるし」

「なら城下町で材料も買うか」


 少しずつ少しずつ、相手に気付かれないように、恋慕の感情は欠片も表には出さず近づいて、約束を増やしていく。

 狩りでもしているような気分だが、この駆け引きすらもどこか楽しんでいる自分がいる。

 紫苑が確実にこの世界に残るまでは、そして多少なりとも俺が相手ならば恋をしてもいいかと思えるくらいに近づくまでは、捕まえるわけにはいかない狩りだ。

 友と言う関係も手放すつもりはない、これも俺にとっては絶対に手放したくない大切なもので、そこに恋人という関係も追加したいだけなのだから。


「あ、今日は柊は来ないって。部下の人から伝言受け取ったんだ。何か緊急の仕事が入ったみたい」

「組紐の受け取りにすら来られなかったのか。あいつも慌ただしいな」

「基本的に忙しいよね。前に倒れたのをきっかけにずいぶん減らしたって言ってたけど、それでも常に仕事は抱えてる気がする」

「基本真面目だからな」


 そう、根が生真面目な柊の事だ、いつかは紫苑に道が繋がった事を告げるだろう。

 柊の心情など本人にしかわからないが、それでも最近城主夫婦を見るあいつの目から複雑な感情が消え始めた事くらいはわかる。

 そして今も帰宅可能になると紫苑に伝えていない事を考えれば、この先俺たちの関係が変化していくのは目に見えていた。

 ……あいつも含めた三人での穏やかな空気も嫌いじゃない、どれも手放すつもりなど無い。

 だからこそ今の内に出来る事はなるべくやっておきたい、どれだけ難しくとも欲しいものをすべて手中に収めるために。


「柊が好きなお菓子でも買っておこうかな。後は鍋の材料だね、蓮は何入れたい?」

「この間は魚だったから明日は肉にしようぜ」

「最後はうどんと雑炊どっちにしようか」

「悩みどころだな、この間はどっちだったか」

「え? あれ、どっちだったっけ? 最近鍋が多いから記憶が……」

「俺も思い出せん」


 明日の鍋について考えながら、炬燵から出てきた子狐が紫苑に膝に載せろと訴えているのを見つめる。

 膝に上がって目を閉じる子狐を羨ましいと思っているあたり、だいぶ彼女に入れ込んでいるようだ。

 俺も同じ狐の妖怪なんだが……そんな事を思いながらも、俺の気持ちの変化には一切気付いていない紫苑と友としてのゆるい会話を続けてひっそりと笑う。

 この友として過ごす時間すら、俺にとっては宝のようなものだ。

 だからまだ気づかなくていい、まだ何も気にせずに、こうして馬鹿みたいに平穏な時間を共に過ごしてくれればそれでいい。

 この先道が塞がって、そうして彼女が気が付いた時には逃げるという選択肢が出ない程に、そして恋慕の情に嫌悪感を覚えないほどに近づいてみせる。

 欲を言えば、その間に少しでも彼女がこの世界での恋愛事に前向きになってくれるといいのだが。

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