異世界の友人達【7】
けれどこれは紛れもなく、お酒が無ければ一生胸に秘めたままだったであろう彼の本音だ。
隠したままにするつもりで、それでもこらえきれない気持ちのせいで、祝言が現実味を帯びてくる城内にいたくなくて……そうして無意識に私の家へ来る時間が増えていたのだろう。
そしてきっと蓮が私に気を使っていたのは、私が元の世界にいた恋人や好きな人と離れて一生会えない状態になったと思ったからだ。
……冷や汗が止まらない、どうしよう。
涙をこぼし続ける柊と、申し訳なさそうにうつむく蓮。
この空気で「藤也さんは書物の中に登場する実際に存在しない人物なんです」なんて言えるわけがない。
藤也さんのことは本気の本気で大好きで特別に愛してはいるけれど、この感覚が一般には受け入れられにくいというのもわかっている。
誰もが物語の中の人物に本気で恋をするわけではない。
言葉を失っている私を見て気まずそうにしている蓮だが、私は別の意味で気まずくてしょうがなかった。
でも柊のことを何とか元気づけてあげたい気持ちはある。
実際に存在はしなくとも、現実では無くても、私が藤也さんの事を想っているのは事実だ。
「……私は」
目を閉じてみる。
紙面の向こう側、ずっと追って来た大好きな人の笑顔はいともたやすく頭の中に浮かんだ。
現実の恋がいらないから無理やり藤也さんに恋をした訳では無い。
前を向こうとして、けれど消える事のない家族というものに縛られていた私が偶然開いた一冊の本。
何となく読み進めて、紙面上の彼の言葉に救われて、私自身が少しずつ変わっていって……そうしていつの間にか恋に落ちていただけで、それが現実に存在する相手では無かったというだけだ。
私の恋と柊の恋は根本的には違うものだろう。
でも“好き”という気持ちが湧き上がるのは、それが止まらないのは……きっと似た感覚であるはず。
「私と藤也さんは、元の世界にいたとしても絶対に結ばれることはないから、柊とは少し状況が違うけど」
ゆっくりと目を開けてそう言った私に、息を飲んだ蓮と、顔を上げた柊の視線が向けられる。
そもそも私は藤也さんと離れ離れにはなっていない。
だって向こうの世界でも、彼とは紙面越しにしか会えなかったのだから。
むしろ家族がいなくなったことで悩みがすべて無くなって、とても気持ちよく読めるようになったくらいだ。
時折紙の本や彼のグッズが恋しくなりはするけれど。
「私の家庭環境が良くないっていう話はしたでしょう? 藤也さんと出会わなければ、今みたいに前を向いて生きていこうって思っている私はいなかった。きっと全部諦めて、言われるがまま家のために結婚させられていたかもね」
言葉にすればより現実的に湧きあがる想い。
現実に彼が存在しなくても、普通の恋とは違っていても、藤也さんのことを考えると幸せな気分になる。
たくさんたくさん支えてもらって、奮い立たせてもらって、今の私が此処にいるのだから。
「だから私が私である以上、離れても藤也さんのことは好きだし、幸せになって欲しいって思う。忘れるとすればそれこそ時間が必要だし、今急いで忘れようとも思わない」
「……その人が他の、自分以外の誰かと結ばれたとしてもですか?」
柊の問いかけに少し悩んで、頭の中で想像してみる。
彼の相手役の女性キャラが出て来て、漫画の中で藤也さんと恋人同士として幸せそうにしていて、お互いに強い絆で結ばれていたとしたら。
「私は元々結ばれる事がない、って割り切っているところがあるからかもしれないけど。幸せに笑ってくれていたら嬉しい。まあ、面白くないとは思うだろうけど。でも、その人が藤也さんを幸せにしてくれて、藤也さんもその人を好きで幸せにしたいって思っているんだったら……嬉しい、かな」
私の人生を変えてくれた人、紙面上で不幸になっているよりはずっとそっちの方が良いと断言できる。
二人並んでいる姿が描かれるたびに複雑な気持ちにはなるけれど。
しかしこれは私の感情で、柊のように現実として目の前に広がっている光景ではない。
私の恋は実際に相手から拒絶されることもなければ、現実の人間関係にも一切影響しないのだから。
私が柊に出来る事は何だろう?
彼が一気に楽になるような魔法の言葉など、私は持ち合わせてはいない。
……柊はどちらかといえば私と似た考え方をする人だと思う。
勘を働かせ即決で行動し成功させる蓮とは違い、自分の中で最終的な目的を決めて、そこに行くために一から十までを順番に考えてから最善の行動を取る人。
しかし彼は今、自分の感情を整理できておらず最終的な目的地が見えていない。
柊は内に溜めこみすぎるタイプだ。
だからこそ初対面の時のように倒れるようなことになるし、こうやって耐えられなくなってくる。
私が協力できるのは、彼の感情を整理して目的地を定める手伝いをすることだろうか?
「……柊は、どうしたいの?」
「私、ですか?」
「うん。気持ちを捨てなければならないって言ってたけど、本当は? しなければならない、じゃなくて柊自身はどうしたいの?」
お酒の力で素直になっている今、本音を引き出してどうしたいのかを知るのにはちょうど良いはず。
念のため一度蓮の方を見て、口だけを動かして問題があったら止めてくれるように頼んでおく。
戸惑ったように頷いた蓮の仕草を確認してから柊の方を見た。
「楓さんに、想いを伝えたい?」
「……いいえ、困らせたくありません」
「なら城主様には?」
「そちらもです。私が今更気持ちを告げたところで、彼らの幸せに亀裂を入れるだけです」
「そういう周りのことを一切考えないで、柊自身がどうしたいか、って聞いたらどう?」
「それでも、告げたくはありません。二人の幸せな姿が私のせいで少しでも壊れたとしたら、私は私を一生許せない」
揺らいでいた瞳は変わらず涙を流し続けているが、少し冷静になったように見える。
返答に時間が掛かることに変わりはないが、先ほどとは違って考え込んでいるので頭は働いているようだ。
「じゃあ、その楓さんへの気持ちはもういらない? 全部捨てて無かったことにしたいの?」
「いいえ。私は彼女を知る前の私よりも、今の私の生き方を気に入っているのです。彼女のおかげで変わることが出来たのにその間に感じた事をすべて忘れるなんて……ですがこれは持っていてはいけない感情で、これがある限り二人に顔向けは出来ません。捨てたくはないです、でも捨てなければいけないんです」
「感情なんてどうにもならないものの筆頭だし、好きだからって言って嫌がらせをしているとかならともかく、二人に知られないように胸に秘めているくらいは良いと思うけど」
「ですが……」
「同じ人を好きになる、ってそれなりに起こる事でしょう? 本人に知られた場合はお互いに気まずくはなるだろうけど。こういう言いかたはちょっとあれだけど、知られていないなら二人にとっては無いのと一緒だよ」
「伝えてもいない感情に罪悪感を覚える必要なんてないだろ。そもそもあいつを想っていたのはお前だけじゃない。妖怪の暴走に関わっていた奴の中にも何人かいたし、そいつらだって気持ちに折り合いをつけただけで好意を捨てた訳じゃないだろうが。お互いに失恋だな、なんて話していたのを見かけたことだってあるぞ。お前だけが気持ちを捨てたところで、他の連中の胸中には楓への好意は残ったままだ」
ゲームと違って選択肢もルートも無い状態でそこまで好かれるのはすごいな、と素直に思う。
突然連れて来られた知らない世界で沢山の友人を作り、世界中を巻き込むような事件を解決して、心から愛した人と結ばれ自分の生きる場所を確立する……楓さんはいったいどんな人なのか、一度見てみたいものだ。
「ねえ柊、捨てなくてもいいとしたら、どうしたい?」
「捨て、なくても……」
一度黙った柊は悩むように下を向き、しばらくして顔を上げた。
わずかだが彼の瞳には力が戻ってきているように思える。
「過去に、したいです。あの人をこんなにも好きだったんだ、と。心から二人を祝福して、自分の恋を思い出話として笑い話にできるくらいに。忘れるのではなく、消化したい。持ったまま過去にして、笑って先へと進みたいです」
「……そっか。楓さんのこと、話すのは苦じゃない?」
「はい。この想いが許されなくても、私にとっては彼女との日々は宝のようなものです。宝の話をすることを楽しく思っても、苦痛だとは思いません」
「……じゃあ、聞きたいな。柊とその楓さんのお話」
私を見つめた柊の瞳が少しの間の後一度閉じられ、ゆっくりと開いた。
涙は止まり、どこか遠くを見るような瞳で穏やかに話し出した言葉にじっと聞き入る。
一番最初の、それこそ今では当たり前になった来訪者という単語すらまだ存在していなかった時に出会ったこと、初めは疑ってかかっていたのを今では申し訳なく思っていること、じわじわと信用を得ていく彼女の努力を眩しく感じたこと、いつの間にか友人になっていたこと……想いを自覚した日のこと。
内にずっと秘めていた想いを整理するように、思い出を振り返るように優しい言葉が紡がれていく。
ゲームで見たことのある流れ、けれど当事者から聞くとそれはぜんぜん違っていて、当たり前のように私が知らない出来事ばかりだ。
時折蓮が話に加わったり、他の攻略キャラクターだった人たちの話になったり、今までよりもずっと現実で起こったことなのだと深く実感させられながらも夜が更けていく。
そうして話を聞いている内に窓の外は白み、ずっと主体で話していた柊の言葉は途切れ途切れになって、静かに音を失った。
酒やつまみを避けておいたちゃぶ台の上に突っ伏すように倒れこんだ柊を見て、蓮と視線を交わす。
「寝た?」
「ああ」
ぐぐっ、と背を伸ばした蓮を見て、同じように伸びをする。
強張っていた関節が軽い音を立てた。
「悪かったな、付き合わせて」
「良いよ、少しでも柊の力になれたんだったら」
「こいつは人に説得されるよりも自分の頭の中で整理した方がいい答えが出せる奴だからな。助かった」
「なら良いけど。時間が無いって言ってたのは?」
「そろそろ限界だったってことだ。こいつが一番知られたくない城主や楓も何かあったのか気にし始めていたからな。内に秘めすぎなんだよ」
呆れたように柊を見つめる蓮だが、何やかんやと言いつつもこういう場を設けたのは彼だ。
悪友のような関係だということもあるが、蓮が放っておけないくらいに柊が追い詰められていたのかもしれない。
「でもこれどうしよう? 柊って今日もこれから仕事?」
「いや、今日は休みだ。だから急いで決行したんだが」
「じゃあ寝かしておいても良いか。布団出してくる。蓮も今から一睡もせずに戦場ってわけにもいかないでしょう? 寝ていけば?」
「……おいおい、そんな気軽に男を泊めていいのか?」
「今更あなたたちが私に何をするって? それも柊の話を聞いた後で疑うも何もあったもんじゃないでしょうに。蓮こそ来訪者の恋愛事が嫌なら泊るのは避けた方が良いんじゃない?」
「……今更、お前が俺たちに何をするって言うんだ?」
私と同じ様な言葉を返してきた蓮と吹き出すように笑ってから、彼に片付けを頼んで予備の布団を取りに行く事にした。
襖さえ閉めてしまえば簡単に部屋が区切れるのは日本家屋の良いところだと思う。
布団を取って戻って来れば部屋の中は綺麗に片付いており、ちゃぶ台に突っ伏して眠り続ける柊と食器を台所へ持って行ってくれたらしい蓮だけになっていた。
私から布団を受け取った蓮がそれを敷いて、柊を持ち上げてぽいっと布団に投げ出す。
「ちょっと、起きちゃう」
「この酒が入った時はある程度寝ないと起きないぞ。それよりもお前、店は?」
「運のいい事に今日は休み。だから私も仮眠取って来る」
「そうか、俺もしばらく寝させてもらう」
「はいはい、おやすみ」
「あ、ああ、おやすみ…………なあ、紫苑」
「なに?」
私の挨拶に少し目を見開いた蓮が、部屋を出てふすまを締めようとしたところで声を掛けて来る。
一瞬瞳を泳がした彼は、少しの間言葉を探しているようだった。
「変に話をさせるようになっちまって、すまなかった」
「え、ああ……別に良いよ。私も柊と一緒で、あの人の事を話すのは苦じゃないから」
またその話か、と居た堪れなくなるが、詳しく説明するわけにもいかないだろう。
もうここまで来たらこの設定で行くしかない、とこの世界の人たちと藤也さんには心の中でひたすら謝っておく。
「……どんな奴なんだ。その藤也って奴は」
思い掛けない質問に一瞬言葉に詰まる。
布団の上で胡坐をかいた状態の蓮がじっとこちらを見ているのが少し居心地悪い。
「最初は、理想のお兄ちゃんみたいな人だと思ったよ」
跡取りとして私と差別化されて育っていた実の兄のせいで、兄には良い思い出が無かった私。
そんな私にとって漫画の主人公の兄でもあった藤也さんの様子は新鮮で、こんな人がお兄ちゃんだったらよかったのに、なんて思ったものだ。
「色々追い詰められていた、というか諦めていた私にとって、藤也さんの言葉は自分を見つめ直して前を向けるような台詞ばかりだったね。あの人のおかげで私は今、私自身のことを好きだと思えるの」
「……そうか、恋愛事なんざよくわからんが、こうやって話を聞くと柊のこともお前のことも少し羨ましく思えるな」
「蓮も妖怪が復活したら好きな人ができるんじゃない? 人間が相手でも好きになることはあり得るかもしれないけど」
「どうだろうな。しばらくは気軽に一人で良い。恋人なんて存在に縛られて、こうしてここで穏やかに過ごす時間を手放すのは惜しいからな」
「そう。ならしばらくは楽しく飲めそうだね」
「……ああ、そうだな」
もう一度おやすみを告げてふすまを締め、自分の部屋へと向かう。
外はもう明るく、今から眠ったとしても十分な睡眠はとれないけれど。
美容のために、といつもしっかり取っている睡眠時間だが、たまにはこういう日があっても良いだろう。
起きて二人を見送ったらお風呂に入って、ゆっくりとした休日を過ごそう。
ささっと着替えて布団の上に横になる。
寝る前にスマホを起動すれば、待ち受け画面には大好きな人の顔。
「……現実の恋はあんな風に悩むのね」
愛しいから苦しいのだと全身で訴えかけてくる柊の様子を思い出す。
蓮も恋愛事はよくわからないと言っていたが、私にも現実の恋はきっとわからない。
「おやすみ、藤也さん」
スマホを枕元に置いて目を閉じればすぐに睡魔が襲って来た。
瞼の裏に浮かぶ顔は漫画でいつも見るように微笑んでいる。
私が現実での恋を知る日は来ないだろう……だから今日の柊のように心の底から叫ぶような恋も経験することはない。
それが私にとって幸せな恋の形だ。
急速に暗闇へと落ちていくような心地の良い感覚に身を任せる。
意識が落ちる寸前、少しだけ心に靄が掛かった様な気がした。




