15 鍋はビールで乾杯②
ぐつぐつと煮える寄せ鍋から湯気が上がる。その蒸気と共に部屋の中に美味しそうな香りが広がり、胡桃の鼻腔をくすぐる。
半覚醒の胡桃が、いい匂いだなぁ~と感じた瞬間に「はっ!」と声を漏らし、跳ね上がった。
まさか調理中に眠ってしまったのか⁉ 火事になる‼ と激しく胸がざわついた。
急にガバリと起き上がった胡桃を見て、琢磨が真顔で声をかける。
「おっ! 起きたか」
「あ、あ、あ、申し訳ありません」
「ん? 何がだ?」
「私、火をかけたまま眠ってしまったのかも……」
「いいや、それはない。俺が帰って来たときは食材はテーブルの上に置いたままだったから」
「す、すみません。帰ってきた部長にご挨拶もせず、夕飯も作らず怠けてしまいました」
「ははっ、気にすることはないだろう。今日は鍋にするつもりだったんだろう」
「ええ、そのつもりで買い物をしたのですが……」
彼女は面目なさげに俯く。それに気づいた琢磨が明るい声を出した。
「ちょうどできたから、おいで。早く食べよう」
「食事の支度をサボッてしまった居候が、ご一緒してもよろしいのですか?」
その言葉に、やれやれと苦笑する琢磨は冷蔵庫へ缶ビールを2本取りに行く。
「別に疲れているときまで無理に食事を作ろうとしなくていいだろう。白浜のように手の込んだものは作れないが、俺だって料理はできるから」
「ですが……」
「ほらほらいいから、つべこべ言わずに座れ」
「は、はい!」
まどろっこしいやり取りに業を煮やした琢磨が、ソファーから立ち上がらない胡桃を強引に呼ぶため、彼女は急いで移動した。
琢磨が作った鍋を見て、胡桃が感嘆の声を出す。
「わぁ~、美味しそうですね」
「白浜の買い物が鍋の材料で助かったよ」
「部長も鍋の気分でしたか?」
「鍋は誰が作ってもうまいからな。失敗せずに済んだよ」
「はは、部長でも、失敗するかもって気にするんですね」
「そりゃそうだろう。何でもできるわけじゃないからな」
「あっ、部長のグラスにビールを入れますね」
そう言った胡桃が缶ビールからグラスにビールを注いだ。
すると、まだビールが半分残ったその缶を胡桃から受け取った琢磨が、胡桃のグラスにもビールを満たす。
琥珀色のビールが満たされ、2人とも満足そうな顔をする。
「今日も1日、お疲れさん」
胡桃が「はい」と返答すれば、互いのグラスをぶつけビールを口に含む。ぷふぁ〜と息を吐く琢磨が目を細めた。
「うまいな。家で誰かと一緒に飲むのは、いいもんだな」
「以前は奥さんと晩酌をされていたんじゃないんですか?」
「ないな。彼女はお酒が飲めなかったから」
「そうでしたか」と返す胡桃に、琢磨が優しい表情で尋ねた。
「今日の白浜は相当頑張っていたから、疲れただろう」
「はい! それは、それは、地獄のような特訓でした」
「そこまでか?」
大袈裟だなと笑うと、琢磨は自分で作った寄せ鍋を頬張った。
「みんなの前で喋らされて、魂がどこかに飛んでいってしまいました」
「物怖じしない田中は、遠慮なく質問してくるからな」
胡桃も、箸でつかんだ具材にふぅーふぅーと息をかけると美味しそうに頬張り、目を輝かせた。
「影山部長! これ、とっても美味しいですね」
「そうだな」と言った琢磨は、そのまま話を続け、一方の胡桃は再びビールのグラスを握る。
「まあ、今日のことで少しは自信になっただろう」
「は? 他人事だと思って適当なことを言ってくれて」
「他人事じゃなくて、部下の話だからな」
「部長のように、なんでもさらっとこなせる人に私の苦労はわからないんですよ」
急に口調の変わった胡桃の様子に驚き、まさかと思いながら顔を向けると、胡桃の目が座っていた。
(信じられん。ビールをグラス1杯飲んだだけで、もう酔ってんのか?)
これ以上飲ませるのは、やめておこうと決意する琢磨の顔が引きつっている。
「前々から感じていたが、白浜の作る資料は部内の中で一番わかりやすいんだ」
「そんなの関係ないじゃないですか」
「それをみんなに知ってもらいたかったんだよ」
「ふ~ん。それならそうと、先に言ってくれたらよかったのに。私はアドリブが1番苦手なんですよ!」
「とはいっても、事前に準備したことを喋るだけでは、いつまでたっても白浜の男性恐怖症が治るとは思えないからな。荒療治が必要なんだろう」
琢磨がにへへと笑う。
「それは部長とこうして暮らしているだけで十分に荒療治ですよ」
「いや、それだけでは足りないだろう。訓練には多角的な負荷が必要だからな」
「部長のように器用な人は多角的にこなせるでしょうが、私みたいに不器用な人間は、大人の階段は1段ずつじゃないとオーバーヒートを起こすんですよ!」
当たり散らすように言う胡桃を見て、琢磨が声を上げて笑った。
その姿にぷんっと拗ねる胡桃が口を尖らせる。
「会議で意見を言うくらい、普通にできなきゃ困るからな」
「そうじゃなくて宮丸さんが……」
「宮丸となんかあったのか?」
「部長が急に私に資料作りなんてさせるから、いろいろ質問されたんです」
「宮丸は聞き出し上手だから、どうせあしらうのに苦労したんだろう。だからって、俺に当たり散らすな。この酔っぱらいめ!」
「すぐに馬鹿にするから、部長なんてもう知らない」
「悪い悪い」
「もう、許しませんよ~だ」
大きな声で怒る胡桃を見て、それまで笑っていた琢磨だが、思い出したように胡桃に尋ねた。
「そういえば忘れていたが、結婚式に着て行く服は用意したのか? 今週の日曜日だろう」
「ああ~、すっかり忘れていました」
「土曜日に準備をしとけよ」
「え~、もうこうなったら、仕事で着ているスーツでは駄目ですか?」
「ははっ、やめておいた方がいいと思うぞ」
「どうしてですか?」
「ホテルの従業員だと思われて、やたらと話しかけられるかもな」
「そんなことを想像しただけで、ますます行きたくないんですが……」
呆けるように天井を見上げる胡桃の姿を琢磨が見つめる。
「今回頑張ったから、白浜のドレスを買ってやるよ」
「だ、駄目ですよ。影山部長に買っていただくわけにはいきませんよ」
「俺としても、直属の部下が、いかにも仕事という格好で結婚披露宴に参加しているのも困るしな」
「で、でも〜」
「無駄な遠慮はするな。男と外出することに慣れておかないと、取り引き先を訪問するときに困るぞ」
「影山部長……いいんですか?」
「今週の土曜日の予定は空けておけよ」
嬉しそうに頷く胡桃と優しい笑顔を見せる2人の夕食の時間が過ぎていった──。
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