第29話 実家
落合さんとお母さん――なぜか二人は互いのことを知っていた。名前まで、当然のように呼び合っていた。
私はただ、混乱の中で立ち尽くすしかなかった。
「すぐ近くに車を停めてあるから行くわよ」
「う、うん……」
結局、その場では詳しい話を聞くことはできなかった。私たちはお母さんの案内で車に乗り込み、後部座席に落合さんと一緒に座った。
感動の再会ではあったけど、そのあとの私の頭の中はぐるぐると混乱しっぱなしで、目の前の状況についていけていなかった。
荷物はトランクに入れてもらい、車が走り出す。
車窓から見える函館の景色は、思っていたよりも変わっていなかった。
高層ビルといえば、ビジネスホテルばかり。
北海道の中では函館は有名な観光地だが、実際の街並みはどこかのんびりとした田舎の空気が漂っていた。
駅から少し離れると、山の全体像が見えてきた。
函館山――百万ドルの夜景として有名なその場所。私も子供の頃、何度も頂上まで登った思い出がある。
昼間はロープウェイで、夜になると車道が開放されて車でも登れる。友達の車で夜景を見に行ったこともあった。
でも、もうその友人たちとは連絡も取っていない。
地元の人間は結婚が早い。二十代前半で結婚するのも珍しくない。
久しく見ていないSNSには、子供と一緒の写真がアップされている。
その子供たちも、今ではもう小学生になっているのかもしれない。
「……先輩? どうかしました?」
「ううん。戻ってきたら、なんか色々と思い出しちゃってさ」
本当は落合さんとお母さんの接点について聞きたかった。でも、それは今じゃない気がして、言葉には出さなかった。
なんとなく、お母さんがいない場所でこっそり聞きたい、そんな気がしていた。
落合さんは、相変わらず何も語らない。
東京にいた時から、私のことを知っているような仕草や言葉が度々あった。
でも彼女は、一度もその理由を教えてくれず、私自身で思い出すようにと言った。
なら、この帰省の間に――全部を知るチャンスがあるかもしれない。
「ですよね。久しぶりって言ってましたもんね」
「…………バカ」
「ええぇっ!? いきなりの罵倒!? 先輩のいじわる〜っ」
「うるさい」
何も教えてくれない彼女に、少しイラついた私はぶっきらぼうな態度で返した。
「ふふ。あなたたち、本当に仲がいいのねぇ」
そりゃそうだ。今は同じ家に暮らしているし、落合さんは私のことを恋愛対象として見ている。否が応でも、近い距離にはなる。
ただ――その事実を、私はまだお母さんに話していない。しばらく話すつもりもない。
「――そういえば、こんなお家だったね」
車が止まったのは、二階建ての懐かしい一軒家だった。
庭には小石が敷かれ、車を入れるスペースになっている。
東京の家とはまるで違う、北海道らしい造り。寒冷地特有の二重玄関――玄関フードが目に入る。
冬の風や雪の吹き込みを防ぐために、北海道では多くの家に採用されている構造だ。
雪の日には、このスペースで足や衣服についた雪を落とし、玄関の中を汚さずに済む。昔からの工夫が詰まった、懐かしい構造だった。
家の中に入ると、古い木の香りが鼻をくすぐった。
長い時間を経た家特有の匂い。玄関は二重構造とはいえ、冷気は完全には防ぎきれず、結構寒い。
荷物を一旦玄関に置いて、私たちはリビングへ。
お母さんが温かいお茶を淹れてくれた。
「温まる〜〜っ」
「だね」
部屋の中央では石油ストーブが稼働していて、徐々に空気を暖かくしてくれていた。
小さい頃は、ストーブの前でずっとぬくぬくしていて、「背中が焼けるよ」と何度も注意された記憶がある。
実家は煙突付きの構造で、ストーブから伸びた配管が屋根の上の煙突へと続いている。最近では見かけなくなったが、北海道の古い家では今でも見られる光景だ。
「二人はこれから、どこか行く予定でもあるの?」
時刻は午後三時を少し過ぎたころ。
この季節の函館は日が落ちるのが早く、四時を過ぎればもう薄暗くなる。
「ちょっと出かけて、すぐ戻ってくる予定。だからご飯、お願いしてもいい?」
「もちろん。六時半には帰ってくるのよ」
「はーい」
お母さんとのやり取りは、本当に久しぶりだった。
でも、顔を合わせると、意外にも自然に言葉が出てきて、やっぱり親子なんだと実感する。
実家での食事はいつも早い。田舎なんてこんなものだろう。
うちでは七時前に夕食を取るのが普通だった。
「落合さん、じゃあ二階の部屋行こっか」
「はいっ!」
お茶を飲み終えた私たちは、荷物を抱えて階段を上った。
久しぶりに見る、私の部屋。
お母さんが掃除してくれたのだろう。綺麗に整っていた。
だけど、やはり古い家の匂いが残っている。ちょっとした埃や木材の匂いだ。
「わぁ…………」
落合さんの反応が、どこか感慨深そうで引っかかる。
まさか……以前ここに来たことがある? でも私は覚えていない。
「落合さんは敷布団になるけど、大丈夫?」
「もっちろんです!」
「カビ臭いかもしれないけど」
「使う前からそういうこと言わないでくださいよ〜」
「昔からうちって、古臭い匂いのする布団使ってるからさ。でも、それも悪くないよ」
東京の家では絶対に感じない、どこか懐かしく、少しだけ安心する匂い。
和室ではないが、年季の入ったフローリングと部屋全体がそう感じさせるのだ。
部屋の隅に荷物を置いて、少しだけ横になることにした。
新幹線で四時間――ずっと座っていたせいで体も少し疲れている。
落合さんと一緒に、敷かれたカーペットの上でほんの三十分ほど、仮眠を取った。
◇ ◇ ◇
ザクッ、ザクッ――。
雪を踏む音が、静かな町に響いていた。
函館は北海道の中でも雪が少ない方だ。それでも積もる時は積もる。
盆地のような地域と比べたらまだマシだし、気温もマイナス十度程度で収まる。これも北海道民ならではの感覚かもしれない。
ただ、東京と違うのは景色に雪があるかどうか。
それだけで、どこか心が温かくなる気がする。これは、私だけの感覚かもしれないけれど。
私と落合さんは、腕を組んで並びながら、目的地に向かって歩いていた。
雪で足元が滑りやすい上に、落合さんがずっと絡みついてくるから、歩くペースは遅い。でも、二十分ほどで到着した。
町を走る路面電車。その通り沿いに目指していた場所はあった。
「中には……入れないみたいですね」
「うん。やっぱり、年末だから閉まってるか」
そこは、私が通っていた中高一貫校。
今は校門が固く閉ざされ、校舎の中を見ることはできなかった。
「校舎、ちょっと見てみたかったんだけどな」
「時期的に仕方ないです。また来ましょう」
今日は諦めることにして、また年が明けたら改めて来ようと思い背を向けた。
さらに二十分ほど歩いて、次の目的地へ。
五稜郭公園――他よりも少し遅いゴールデンウィークの時期に桜が咲き誇る名所で、今は雪化粧に包まれていた。
そして公園を見下ろすように五稜郭タワーも近くにそびえ立っている。
観光客の姿もちらほら見え、静かな中にも賑わいが感じられる。
中に入ることもできるけど、目的はそれではない。
外から眺めて懐かしい空気を感じたかっただけ。
「ラッキーピエロだ」
落合さんがぽつりとつぶやいた。
帰り道、家に向かって歩く途中、ご当地グルメで有名なそのお店が二軒も見えた。
函館を代表するローカルチェーンで、ハンバーガー、カレー、オムライスなど、その他様々なメニューも人気。
どの味も唯一無二で、昔から地元民に愛されている店だ。
「明日以降、行ってみよう。今日はまだ一時間くらいあるし……おすすめのお店、寄ってみようか……あ、でも営業してるかな」
「先輩のおすすめ……!? やってるといいですね!」
今日は十二月二十九日。お店が年末休業に入る直前のタイミングだ。
期待と不安を胸に歩いていると、細い階段が見えてきた。
その二階にある、目当てのお店は……まだ営業していた。
ドアを開けると、カランカランとベルが鳴る。
紅茶と茶葉の優しい香りが、すっと鼻を抜けた。
「あぁ……いい匂い」
「んん〜っ。癒されますねっ」
そこは紅茶専門店。
高校の頃、友達に誘われて行って以来、常連になった場所だ。
大学時代の帰省中にも、何度か訪れていた。
「あれ、橘さんですか? お久しぶりですね〜」
「えっ……岡島さん……覚えてくれてたんですね」
「もちろんですよ〜。さ、どうぞお好き席へ座ってください」
短い白髪に髭の背の高い優しそうなマスター――岡島さん。
紅茶教室も開いていて、地元の主婦たちからも親しまれている。
そんな彼が、私のことをちゃんと覚えてくれていた。
数年ぶりなのに。思わず胸の奥が温かくなった。
私と落合さんは、十席ほどの小さな店内で、窓際の席に腰を下ろした。




