第二百七十九話 疚しい関係ではないが疚しい事はめっちゃしてる件
ザンゲツはロウザの姿を確認するなり、恭しい動作で頭を下げた。
「これはロウザ様。お久しぶりで御座います。こちらからお出迎えできず誠に申し訳ありませんでした。遅ればせながら、長旅よりのご帰還を嬉しく存じます」
「久方ぶりだなザンゲツ。息災の様で何よりだ。こちらこそ折りを見て道場に足を運ぶ予定ではあったが、後回しになってすまなかったな」
「それはいいとして」と。どこから言及すれば惑いながら、ロウザは未だに正座を維持しているミカゲを見やる。
「……どんな状況なのだ、これは」
「家を飛び出した馬鹿娘が久しく帰ってきたと、門下の一人から知らせがありましてな。久方ぶりに顔を見てやろうと思っていたら、慣れぬ着飾りに浮かれ切っておりまして、少しばかり喝を入れていたところです」
頭を上げたザンゲツは、耳が垂れたまま意気消沈している娘を一瞥する。
『少しばかり』と称するには、ミカゲの憔悴っぷりが半端ではない。他人にも、そして誰より己に厳しいはずの彼女が、あんなにぺしょぺしょになっているところはもしかしたら初めて拝むかもしれない。
「お久しぶりです、父上。このゲツヤ、ただいま戻りました」
「うむ。精進を怠っておらぬ様で何よりだ」
ゲツヤが深々と礼をすると、ザンゲツも満足げに頷いた。が、流石に妹の様子が気がかりではあるようで兄はチラチラとそちらの方を見やっていた。
「それで──」
と、ザンゲツの刃の如き鮮烈な視線が俺を射抜く。それなりの修羅場を潜ってきたおかげで飲み込まれはしなかったが、身体中の産毛が逆立ち肌が泡立つ。
「ユキナ──だったか。我が不肖の娘を誑かしてくれた狼藉は」
「いや、誑かしては──なんでその辺りをご存知で?」
人聞きの悪さはさておいて、俺とミカゲの間柄については彼女の両親に伝わってはいないはず。少なくともロウザはその辺りはまだ話していないと。しかも俺の名前まで。
「あそこにいらっしゃるお嬢さん方からお聞きした。それはもう、快く語って頂いた」
道場の壁に目を向けると、アイナは慌てて首を横にブンブン振ってるし、リードは気まずげに目を逸らしているわ、キュネイは片目を閉じ両手を合わせて『ごめんね』とテヘペロしていた。『快く』の下りは嘘らしいが、彼女たちが口を割ってしまったのは事実の様だ。無関係なマユリはオロオロしっぱなしでる。
そりゃぁこんな威圧感の塊みたいなおっさんに迫られたら、喋らずにはいられないよ。俺だって無理だ。彼女たちを責める気には慣れなかった。さりとて、別に疚しい気持ちは微塵もないので責められる謂れはない。
『夜の疚しい行為はめっちゃしてるけどな』
下手なチャチャを入れないでくれグラム。念話での会話が俺やゲツヤ以外には伝わらないと頭では分かっていても、万が一に父親の耳に入ったらと思うとかなり心臓に悪い。
冷や汗が頬を伝っていると、ザンゲツの表情がますます重圧を増す。
「将軍様より賜った栄えある嫁入りを蹴飛ばし、あまつさえ書置き一つで家を飛び出した挙句、旅の先でどこぞの馬の骨ともしれぬ小僧と不純を交わすなどと──御先祖になんと顔向けすれば良いのだ」
口にしていて内なる激情が抑え切れないのか、怒気を含んだ眼差しをミカゲに向ける。俯いているミカゲと視線は合わなかったが、肌で感じたのか情けない声で肩を振るわせた。
父親からしてみれば、家出した娘が男を連れて戻ってきたも同然である。剣術や婚約の話を抜きにしてもそりゃぁ冷静ではいられないだろう。
しばしそうしていたかと思うと、ザンゲツは深く息を吐き出した。
胸中の怒りに区切りがついたのか、辺りに撒き散らされていた威圧が薄れる。
ようやくまともに話せるのかと思ったところで、ザンゲツは徐に踵を返し壁に向けて歩き出した。その先には修練に使う為の木で出来た模造剣が吊るされている。
「ロウザ様これは……」
「ああ、だろうな」
全く分からない阿吽で言葉を交わすロウザとゲツヤが、俺と同じく全く状況についていけないレリクスを無理やり引っ張り、そそくさと俺から離れていった。
「ほら、ミカゲ。立ちなさい」
「は、母上?」
ツクヨの方もいつの間にかミカゲの側に寄り添うと、穏やかな顔つきに反して有無言わさない勢いで立たせてやはり壁際に連れていく。
『私から言える事は一つだ。……健闘を祈る』
『あー、なるほどねぇ。まぁ頑張れ相棒』
だからなんなんだよ!?
誰も彼も何も教えてくれずに、俺は混乱する。
そうこうしているうちにザンゲツが再び俺の前にやってきた。
しかもどうしてか、両手には模造剣──いわゆるカタナを模した『木刀』がそれぞれ握られていた。ザンゲツはそのうちの片方を無造作に放り投げてきて、俺はほぼ反射的に受け取ってしまう。
頭に幾つもの疑問符を浮かべながら、木刀の柄を握ってみる。模造には違いないが、見た目よりも重量はあり作りもしっかりしている。全力で殴ったら骨の一本くらいは──。
なんてぼんやり考えていると、不意に肌がヒリついた。
幾度となく味わってきた、野生の厄獣と不意にでくわした時の、唐突に訪れる戦闘の先触れ。
気が付けば、木刀を振り被るザンゲツが目前に迫っていた。
──ガンッッッ!!!!
「いっつぅぅぅっっっ!」
構えも何もあったもんじゃない。しゃにむに木刀を振るってザンゲツの木刀を迎え撃っただけ。柄を握る手とそれを支える腕にとんでもない衝撃が伝わってくる。
「……なるほど、ただの腑抜けではないか」
俺が痛みに顔を顰めているというのに、そいつを味合わせてくれた張本人は涼しい顔だ。
「いきなり──何しやがる!!」
「っ!?」
俺は聖人でなければ清く正しい勇者でもない。いきなり殴り掛かられて落ち着けるほど人間は出来ておらず、腹の奥から込み上げてくる怒りに任せて木刀を振り抜きザンゲツを弾き飛ばした。そのまま壁に叩きつけてやるつもりでいたが、力が伝わり切るより早くに行き先が霧散する感覚。結果として、ザンゲツはそれよりも遥かに手前に着地した。途中で上手い具合に力の向きを流されたのだ。
『いいぞ、やったれ相棒!』
ノリノリで後押しする黒槍の念話を受けながら、俺は木刀を構え直すザンゲツへと肉薄する。前後の事情がどうのこうのなんて考えるのは後回しだ。相手がやる気であるならば、こちらは迎え撃つまでだ。
──この辺りで、ザンゲツがミカゲの父親である事やそのほか諸々については完全に頭から吹き飛んでいた。いや、分かってはいたが、それよりも先に向けられる『敵意』への反撃が最優先となっていた。
「ランガ様に勝るとも劣らぬ剛力。その上で切り替えが早い。我が門下生も、ここまで素直には割り切れんな」
ザンゲツが何やら呟いてるが、俺は構わずに体ごとぶつかるつもりで木刀を振るった。




