side wolf-3 ──第二百三十六話 大博徒
(相変わらずしんどいな、この『空間』は)
周りの全てが動きを止めた中、ロウザは内心に呟きながら歩を進める。その一歩一歩は酷く緩徐であり、重苦しいものである。
──ロウザの持つ蒼錫杖が使う『氷結』は、秘めたる真の能力の副産物。蒼錫杖の真の姿は、その内部に仕込まれた一振りの刀だ。
その本質は『停滞』。
能力を最大限にまで発揮すれば、仕込み刀を振るうロウザを除いた全ての存在の『時』を停止させることができるのだ。
もっとも、この停滞は一度発動させれば強力無比であるが相応の制約を要する。
まず、『真名』を解放するまでは自在に停滞できる存在は、空気やそこに含まれている水分に限られている。普段操っている『氷結』とはすなわち、空気中に含まれる水分の動きを停止しているに過ぎない。
また、他の生物の体内に含まれている水分も対象外。でなければ、ユキナを大氷海に閉じ込めた時点で決着が付いていた。
そして真名を解き放ち、仕込み刀を引き抜くには非常に高い精神集中が求められる。
最後に──時が停滞した空間の中では、非常に動きが制限される。
実のところ、時の停滞は実際のところは極限の『遅延状態』に留まっている。完全に時を止めれば、それこそロウザすら完全に硬直、硬直した空気の中で動けなくなってしまうからだ。
そして逆の視点から見れば、ロウザは神速を超えた域の速度で移動していることになる。となれば当然、とてつもない空気抵抗に晒されているのと同じだ。
今のロウザは、泥沼の底で重苦しい泥を掻き分けながら動いている状態に近く、呼吸することもままならない。
多くの制約がありながら、たとえそうであっても真名を解放した際の『停滞』は無敵に近い。相手が認識できない速度で動き、相手が気づく前に必殺に手が届くのだから。
ロウザはユキナの目の前に立つと、仕込み刀を水平に構え、鋒を鎧に覆われていない腹部に添える。
(刻滅──解除!)
ロウザが心の裡で強く叫ぶと、世界に色が戻り刻が巡り出す。極限の遅延世界での移動の影響で、彼の周囲で激しく風が巻き起こった。
おそらくユキナにとっては、ロウザが瞬間移動したような認識のはずだ。
時の流れを元に戻したのは、遅延世界の中では──ロウザの視点ではあるが──物質の強度がとてつもなく高まる。それこそロウザが使っている氷結を身をもって味わっているようなものだ。それ故に、攻撃の瞬間は刻滅を解除する必要があるのだ。
突如として現れた姿にユキナは驚愕しているが、こうなってしまえばどうしようもない。
「御免ッ!」
心苦しさを抱きながらもその感情に蓋をし、ロウザはユキナの腹部を仕込み刀で深々と刺し貫いた。
「ガッ!?」
もはや何が起こったのか判別不能に近いはずだ。腹に生じた激痛と熱に、ユキナは眼を見開きながら黒槍を取りこぼした。戦いを遠目から見ている観客の傭兵たちも、状況に理解が及んでおらず、先ほどの喧騒から打って変わってどよめきが広がっている。
──この一連の流れは、ロウザの読みの内であった。
おおよその図は、この決闘が始まるよりも先に描いていた。それを実戦が始まってから調整を行い、機を伺い勝負に出た。
全ては描いた通りに進捗し結末を迎えたが、ロウザにとってはまさしく薄氷の上を進むが如く困難な道のりであった。どこか一つでも手違いが起これば、この瞬間に敗北を喫していたのは彼であっただろう。
だが、それもこれで終わり。
ロウザは刀を引き抜こうとし──その腕を掴む手があった。
「ったく、ようやく捕まえた……」
「な──は──ハァッ!?」
腕を掴んでいたのは、他ならぬユキナ。
ロウザは驚愕のあまり、反射的に刀を捻ろうと手首を動かす。腹部を刺されたまま刃が回転すれば、内臓が引き千切られて確実な致命傷に至る。
「しまった!?」とロウザは焦りを抱くが、それは要らぬ心配であった。
なぜなら刀は、岩に突き刺さったかのようにびくとも動かなかったからだ。
ハッとなり改めてユキナの顔を見るロウザ。
腹を刃で貫かれ、口端から血を溢し激痛に顔を歪めながらも、浮かび上がっていたのは会心の笑みであった。
この時になって、ロウザはようやく思い至る。
自身の読みが越えられたのだと。
──side wolf fin
実際にロウザが何をしてくるのか、具体的に察知していたわけではない。
あるのはただの予感と──覚悟だった。
黒槍然り、蛇腹剣も然り。意思を持った武具というのは、必ず切り札を宿している。であれば当然、蒼錫杖にもあると考える。
まず最初に目に映るのは『氷結』であったが、俺にはどうにも違和感があった。だとすると、俺が初めてゲツヤに槍を向けた時、割って入ったロウザの『速さ』に説明がつかない。グラムの認識からしても、まるでどこからか突然現れたかのような動きだったという。
つまり、ロウザは俺やグラムの認識を超えるほどの『速さ』を持っているということになる。それこそが蒼錫杖の持つ真の切り札だ。
決闘が決まってからの今日までの間、俺はグラムや仲間たちとその結論を導き出し対策を練っていたのだ。
そうして散々に考えに考えた挙句に、出た結論がこの形である。
「ありがとよ。首や心臓を狙われてたらその時点で終わってたよ」
「まさか……黒刃お前はっ!?」
ここに来て、ロウザも俺の『読み』に気がついたようだ。
──おそらくではあるが、決闘であり真剣勝負でありながらも、ロウザは俺の命を奪るつもりは毛頭ないはず。
なぜなら、決闘に勝利した後はミカゲを連れてサンモトに戻る必要がある。であれば、俺を殺してしまえばミカゲに恨みを抱かれる。少なくともロウザのことを決して許しはしないだろう。それでは、腹心の部下という形にはなり得ない。
だからロウザは俺を殺さずにいながら、明確な勝利という形でこの決闘を終える必要がある。
首や心臓を狙えば、下手すると治療が間に合わない恐れがあるが、であれば狙うのは腹。
ロウザが最後の札を──蒼錫杖の真価を発揮する瞬間は、聖痕の共鳴で察知できる。
あとは文字通り腹を括り、歯を食いしばって耐えるだけだ。
──ボキンッ!
「ガァッ!」
腹筋を限界まで搾り上げて腹に刺さっている仕込み刀を固定し、その柄を握っている腕も掴み万力のように締め上げて圧し折る。腕を握り潰される激痛に呻きながら、刀から手を離さないのはさすがとしか言いようがない。
ただ、これで詰みには違いない。
俺は空いている側の手でロウザの胸ぐらを掴んだ。
「悪い。お前がどれだけ重たい事情を背負ってようが、俺の女は譲れねぇんだわ」
ゴガンッッッッッッ!!
上体を逸らし、引き寄せる勢いも加えて勢いよく頭突きをロウザに叩き込んだ。
……………………………。
「……どの口で」
ポツリと、ロウザが言葉を漏らす。
「どの口で博打が嫌いだとのたまったのだ、この大嘘つきめ」
至近距離で、俺とロウザの視線が交錯する。俺に対する怒り、自身に対する甘さ、勝負に負けた悔しさ、大願へと至れぬ憤り。
一秒にも満たない時間でありながら、瞳に宿る光に万感の思いが込められているのだけは痛いほどに伝わってきた。
そして、その光も急速に失われていく。
「お前こそ……自身の命すら賭ける『大博徒』では……ない……か……」
白目を剥き、崩れ落ちる間際に悪態を吐いた口端は、愉快げに吊り上がっていた。
床に倒れ伏したロウザを見据えながら、俺は拳を固めた腕を振り上げた。
この決闘における勝者がいずれなのか、誰からでもわかるように高らかに。
僅かな間を置き、爆発的な歓声が場を包み込んだ。




