第百九十八話 白狐の悩み
「…………………」
傭兵組合の建物内には、傭兵に貸し出される鍛錬用の施設がいくつかある。新人が組んだばかりの仲間と息を合わせるための調整を行ったり、あるいは上位の傭兵が己の調子を確かめるために。
この場を訪れたミカゲは後者であった。
広々とした鍛錬場を貸し切り、その中央に膝を畳み込み、目を瞑り呼吸を穏やかにして正座している。傍に刀を置く様子はひどく落ち着いた所作ではあったが、空気は張り詰めており、何人たりとも入ることを拒むような雰囲気であった。
正面にあるのは、剣の切れ味を試すために用いられる巻藁が三つ。ちょうど人の背丈に近い高さで作られたそれら前に、ミカゲは意識を研ぎ澄ませる。
「────ッッッ!」
漂っていた緊張が最大限にまで張り詰めた瞬間、傍に置いた刀の鞘を掴み、踏み込みながら抜刀。一呼吸よりも早い間で煌めいた銀光は三回。
「…………ふぅぅぅぅ」
胸中に溜まった熱の籠った息をゆっくり吐き出し、残心の後に納刀。かちりと剣が収まり切る音にわずかに遅れて、巻藁が半ばから断ち切られ床に落ちる。
しかし──ミカゲの表情は優れなかった。
「…………くっ」
険しい視線の先には、巻藁三本の内の一本。ほぼ半ば以上は断ち切られながらも、ほの皮一枚で繋がっており、上半分がぶら下がっている状態であった。
「未熟もここまで来ると直視し難いか」
苦虫をすり潰したようにボヤきながら、ミカゲは再度刀を振るう。今度こそ巻藁は完全に断ち切られるが、今のは単なる八つ当たりに近い。
──ミカゲは今、悩みを抱えていた。
主君と仰ぐユキナの成長は著しい。純粋な戦闘力では一級にも匹敵すると言われている二級傭兵のリードに真正面から打ち勝てる程にまでに至った。
おそらく、半ば正気を失いかけてはいたが、リードも最後の一線だけはどうにか踏みとどまっているように感じられた。だが、たとえそうであろうともまぐれで勝てる相手ではない。彼が歩み高みに上り詰めていく姿を身近で見られることに喜びすら抱く日々だ。
その着実なる歩みが続くほど、ミカゲの中には焦燥に近い感情が芽生え出していた。ユキナに依存し、自身の歩みが止まっているのではないかと、
切っ掛けは、ユーバレストでの一件。マフィア同士の抗争に巻き込まれた最終局面で、ユキナとリードが激突したあの一戦である。
リードが暴走しユキナに襲いかかった際、ミカゲは一瞬の油断から負傷し、戦線離脱を余儀なくされる。おかげで最も大事な場面で、無様を晒し主に気遣われる始末だ。
元は味方陣営であり、そこに油断がなかったとは言い難い。けれども、相手が誰であろうとも油断を挟んだ時点でもはや未熟とミカゲは断じていた。
足に負った傷は、キュネイの治療によって傷跡すら残さずに完治している。けれども、ミカゲの内面では未だにジクジクと鈍い痛みを放っていた。
この鈍い痛みには、覚えがあった。久しく感じていなかったもの。
脳裏に去来のするのは、蓋をしていた忌まわしい記憶だ。
「案外、振り切れていないものですね。自分でも驚きです」
ユキナを主人と仰ぎ、配下となってからは、ミカゲの人生においてこれほどまでに有意義な日々を過ごしたことはない。故に、半ば忘れかけていた。けれども、何かの拍子で漏れ出すのはやはり、良くも悪くも自身にとっては忘れ難いのであろう。
かつてミカゲは武家の一族に生まれ、剣を捨てて女であることを強いられた。彼女はそれが嫌になり、勇者の仲間となり名を上げる為にアークスにやってきた。
だが運命は数奇なものだ。いつしか彼女は不意に出会ったユキナに未来の英雄を見定め、その剣となることを選んだ。そして彼は、女としても剣士としても、ミカゲの全てを余さずに求めて迎え入れてくれた。そのこと自体に後悔したことはない。
ここだけの話ではあるが『女』として己は今も満たされている自信はある。その点においては、キュネイやアイナにも──そしてリードにも劣っていないはずだ。
最近はキュネイに色々教わりつつ勉強中だ。
しかしながら、キュネイは医師として常に仲間達を気遣ってくれている。彼女の治療技術や回復魔法がなければ、ユキナもミカゲも今こうして自由に動き回り傭兵として活動する事はできなかっただろう。
アイナにしたってそうだ。王族としての教養は、降格されても変わらず健在だ。客観的に状況を分析する判断能力や、国家の情勢を把握し事態を見抜く知識量。加えて、傭兵として全線に出ても何ら見劣りのない攻撃魔法の使い手だ。
そして、新たにユキナの女になり仲間に加わったリード。今は悪徳商人を移送中のため隣国に赴いてはいるが、後にアークスに来てユキナたちと合流する予定だ。
やはりここで特筆すべきはその指揮能力。彼女はリード傭兵団の長として部下を率いており、当人の単体戦闘力もさることながら集団戦もこなす。もしユキナが今後、人手を多く要する依頼や戦闘に関わるようなことがあれば、最も頼りになるのはリードとその手勢だろう。
他の三人は女としてだけではなく、他にも何かしらの要素を持ってユキナを支えている。
だが、果たして己の『剣』はそれに足るものであるのか。
ミカゲはこれまで己が自負していた剣に迷いを抱いていた。迷いが切先を惑わし、太刀筋を歪める。その結果が、中途半端に切れていた巻藁だ。
「まさしく剣士として中途半端ということか。今の私を見たらあの人は何というだろうな」
ここではない、遠くの地にいるであろう人物を思い浮かべ、ミカゲは小さく溜息を零した。




