第30話 ドアマット幼女の遭難
「わ、わ、痛っ、あ、」
どんどん転がります。ヘンリーを呼ばないとと思っても、転がっているので大きな声が出せません。
小枝が頬を掠めます。コートが引っかかってビリっと破れてしまいました。背中に当たる石が痛いです。
最後にまたふっと身体が浮いて、段差を落ちて、ようやく止まりました。
「いたっ、痛たたた、痛っ」
身体中が痛いです。足首と手首を捻ってしまったようで、動かすとズキズキと鋭い痛みが走ります。
「あっ、でも、初雪ニンジンは握っていますね。良かった……!」
肩掛けカバンも無事でした。少し離れた場所に転がっています。
「たくさん転がってしまいました……」
見上げても、元いた場所が見えません。後ろには、大きな川が流れています。
「川に落ちなくて、良かった……!」
ゴウゴウと音を立てて流れる急流です。この寒さで川に落ちて流されてしまったら、助かる気がしません。
痛む方の足を使わないようにして肩掛けカバンを拾い、初雪草の地下茎を仕舞ってから背負います。
「植物図鑑は、見当たりませんね……。帽子も落としてしまいました」
ヘンリーは、まだ穴を掘っているのでしょうか?
「ヘンリー、ヘンリー! こっち、こっちです! ヘンリー!」
何度呼んでも、『わふっ!』って返事が返って来ません。ヘンリーは耳も良いはずなのに。
「どうしましょう……」
しばらく休んでみましたが、足の痛みは良くなりません。むしろ、だんだんと腫れて、痛みが増しているように感じます。
「この急斜面を登るなんて、無理です……」
そもそもヘンリーは、まだこの斜面の上にいるのでしょうか。わたしが見当たらなくなって、探しに行ったり、帰ってしまったりしたら……。
今いる場所がどこなのか、どちらの方向に牧場があるのか。わたしは、まるでわかっていないのです。
「どうしたら……」
不安が押し寄せて来ます。ただ、『斜面を転がり落ちてしまった』だけと思っていましたが、事態はもっと深刻なのかも知れません。
落ち着いて、落ちついて……!
こういう時は上手くいくパターンを、一番から順番に考えてみると良いらしいです。ピートくんが言ってました。
一番良いのは、ヘンリーがわたしの声に気づいてくれることです。川の流れる音に負けずに、ヘンリーにわたしの声を届けることです。
次は歩けるようになることでしょうか? 足が痛くなければ、この斜面を登れるでしょうか?
「とりあえず、冷やしてみましょう」
患部を冷やして固定するのが効果的だと、走馬灯の知識にもありました。
肩掛けカバンからハンカチを取り出し、川の水で濡らして、痛む箇所を包んでみました。ひんやりとして気持ちいいです。熱を持って腫れています。
あとは……。遭難したら動かない方が良いらしいです。まあ、足が痛くて、動けないんですけどね……。
「ヘンリー! ヘンリー! わたしはここです! ヘンリー!」
ハンカチが温くなったら、川の水ですすぎ、また足首を包みます。そして、ヘンリーを呼びます。
ピートくん……。あとは、どうしたら良いんでしょう?
* * *
どのくらい時間が過ぎたのでしょう。だんだんと、気力が萎えてゆきます。
ヘンリーはもう、穴を掘るのに飽きて、牧場に帰ってしまったのかも知れませんね。
「へん、りー……」
喉が枯れて、声が出なくなって来ました。こんなのはあの夜以来です。
「ふふ。あの時、ダグラスさんがくれたはちみつ飴、甘くて美味しかったなぁ……」
日が翳って寒さが増して来ました。夕暮れが近いのかも知れません。
体力が尽きたのか、眠くなって来ました。幼女は燃費が悪くて困りますね……。歯がガチガチと鳴っているのも、どこか他人事のように感じます。
「こんなところで、寝たら、ダメなのに……」
瞼が重いです。もう、全部投げ出して、眠ってしまいたい。
だってもう、無理だもの……。
川の音が、だんだん遠くなってゆきます。さっきまであんなにうるさかったのに……。不思議ですね。
風の音も、小鳥の声も、聞こえません。
代わりに、雪が降る前の、あのしんとした静けさが辺りを包んでいます。
寒いのも、痛いのも、もうよくわかりません。身体の感覚が薄れていくのが、少しだけ怖いです。
ダグラスさん……。
呼んだつもりなのに、声が出ていないみたいです。喉の奥から、空気だけが漏れました。
白い光が、ふわりと浮かんで、目の前で消えました。しばらくすると、また浮かんで、消える。ホタルでしょうか?
でも変です。ホタルが飛ぶのは夏のはじめの頃です。他にも、光る虫がいるのでしょうか?
追いかけようとして、手を伸ばしたのに――。
あれ……? 手が、動きません。
今度は視界の端で、光がちらちらと瞬きました。まぶしい光が、どんどん広がってゆきます。まるで、夢の扉が開くみたいに。
この光景は見たことがあります。
ああ、また……。
走馬灯が……、回るのですね……。




