電子書籍配信記念02:ルーク・クラークはわからない
一つ前に投稿しました、『電子書籍配信記念01:アリスの手紙』の続きです。
アリスに何かしたのかと聞いた時、久しぶりにベアトリス嬢の顔を見たルークは、間違いなく失態を犯したのだと理解した。
そうだ、彼女は最初に約束している。
ルークがかつての主を裏切るならば、アリスは見逃すと言っていたことを。
「根拠もなく疑い、証拠もなく問い詰めてくる。
実に浅はかな思考ですこと。
どこかの誰かさんにそっくりだわ」
呆れた様子を隠そうともせずに言われ、恥ずかしさから視線を逸らしそうになるのを踏み留まる。
見たくないのだと逃げてはならない。正しくあらねばならない。
ルーク・クラークはそう決めたのだから。
「恋に溺れる者はいつだって愚かね。
でもアリス・ホワイトに元気が無いとなれば、すぐに私が原因ではないかと思う癖は直した方がいいと思うけど」
優雅な手つきでカップが音もなく戻された。
「いくらサージェントが比較的穏やかな性質を持っていたとしても、それは過去の話。
今の私達は不要なものを排除するのに躊躇うことはないわ。
それはクラーク家が伯爵となろうとも変わらない」
今やルークの生家であるクラーク子爵家は、以前と変わらず騎士団長となったことから伯爵位を賜った。
前回と違うのはサージェント侯爵家に連なることから、留学にあたってはベアトリスの護衛も兼ねていることか。
ただし、一昨年の秋に唐突に護衛は不要だと言われ、お陰でアリスと過ごす時間が増えたが。
だとしても一時的な主も同然だ。
そんな彼女に疑惑の矛先を向けたのだ。しかも何の確証もなく。
過去の確執があるとはいえ、騎士を目指す者として恥ずべき態度だと、自然と俯きがちになる。
「無礼なことを問うたこと、謝罪いたします」
ベアトリス嬢は過去の出来事から、不貞と謂れなき罪を嫌う。
アルフレッド殿下によって起こされた冤罪で、ルークによって侯爵家に火を放たれたのだ。
当然のことだろう。
「そもそも貴方がするべきことは、私に疑惑を向けることではなく、婚約者から悩み事一つすら相談されない不甲斐なさを反省するべきではないかしら?」
更には至極もっともな正論がルークの折れた心を抉る。
こういったところは本当に容赦がない。
「とにかく私は何もしていないわ。
大体、選択している授業も違うから、今ではほとんど会うことはないの。
彼女は研究仲間との討論に忙しいし、私も婚約者と過ごす時間が必要だから」
表情が変わることもなく薄く笑みを作ったままの唇が辛辣な言葉を口遊むが、それでも言われるだけで済んでいるので随分と寛大な処置だろう。
再度の非礼を詫び、押しかけた昼食の場を辞した。
* * *
「実際のところ、どうなんだ?」
横に座っていたのに挨拶もされず、割と空気と化していたテオドールが尋ねてくる。
「テオも私が何かしたと思っているの?」
「まさか。そうじゃなくて、原因を知っているのかな?ってこと」
肩をすくめながら返事をするテオドールを横目に、ベアトリスは澄ました顔ではあるものの、焼き菓子へと手を伸ばすのを諦めた。
ただでさえ昼休憩に邪魔が入ったことで、ゆっくりできる時間が短くなってしまったのに。どうやらテオドールまでもがベアトリスの至福の時間を邪魔したいらしい。
焼き菓子は後でクラスメイトと食べることにして、紙袋に入れてもらうよう頼む。
それからテオドールに向き直った。
「そうね、彼女が落ち込む理由なんて少ないわ。
研究で躓いたのでなければ、家族のことでしょう」
ホワイト家の状況はベアトリスも把握している。
とは言っても、家族との手紙で数回確認した程度だったが。
留学してから初夏を二度過ごした頃、近所の青年がパン屋を手伝い始めたことは知らされていた。
バーリー侯爵による差配ではないかと一応調べ、全くの無関係であることも確認済だ。
そして、家も無ければ一時的な仕事にしか就いていなかった三男坊が妻子の為に安定した仕事を望むことだって、それをアリス・ホワイトの両親が受け入れることだって簡単に想像できた話である。
それもこれも、いつまでも帰らぬ娘がパン屋を継ぐ気など無いのだと察し、娘の将来の邪魔にならないようにという親心からに他ならない。
「家族と距離があることに気がついて、疎外感の中で感傷に浸っているところかしら」
「え、今更?」
テオドールが呆れた様子で当たり前のことを口にしたが、その当たり前がアリス・ホワイトには難しかったのだろう。
「家族とのことを考えるのは、無意識に避けていたのでしょうね。
長く帰らなくても薄情な娘だとは思われていない筈だと信じることができても、自分が帰らないことで起きることなんて少しも考えなかった。
賢いはずの彼女が今の結果に思い至れなかったのは、単に現実逃避をしていただけの話よ」
アリスにしてみればアルフレッド殿下と再会するのを避けていただけだったのだが。
それに、もしルークと一緒に帰るなんてことをしたら、理由など後付けで彼が殺害される可能性を心配してだ。
けれど、失われた未来にあったことを語るには、相手に同じ記憶がないと酷く難しい。
だから勉強や研究といった名目で帰省を避けていただろうし、それによっていらぬ親心が動かされただけの話である。
留学先で優秀であることを証明した今後は、帝国に縛られて帰ることができなくなる。
この数年間、帝国からのいらぬ干渉を避けるために適当な点数を取っていたベアトリスと違い、ここで生きていくことを考えていた二人は常に成績は上位であろうと必死だった。
そして一昨年にアリス・ホワイトが学園外の学生向け学術研究発表会に提出した論文によって、皇帝陛下が直々に出資した研究所に鳴り物入りで就業することが決まっている。
しかも論文の内容を帝国内で成功させれば相応の地位、準男爵位が与えられるというのだ。
「あの論文を発表した以上、帝国はアリス・ホワイトという希少な存在を籠の中に押し込めるでしょう」
「あれねえ」
言い淀んだテオドールは冷めかけた珈琲を一気に飲み干した。
どうやら言いかけた言葉ごと流し込むつもりらしい。
「なんにせよ、二人がちゃんと話し合わないのなら、また昼食の時間に突撃してきそうな気がするけど」
「そうなのよね」
ベアトリスは溜息をつく。
今のように昼食の時間ならまだいい。
思い詰めた挙句に分別もつかなくなり、クラスメイト達と集まる中に来られるのはよろしくない。
あの二人は帝国がスカウトした優秀な人材なのだ。
敵対関係まではいかなくとも、彼らを害しているのではという疑いを持たれたくはない。
さっさと二人で解決してくれるのが望ましいが、アリスが過去を知っているのだということをルークに言えない以上、語れることは限られている。
それに家に帰るつもりのない薄情な娘が、両親の選択に口を出すことなど論外だ。
結局のところ、根本的な解決は難しいまま、わだかまりや不安といった気持ちを抱いて生きていくしかない。
アリス・ホワイトはわかっていたはずだし、ルークだって全てが罰であると理解するべきなのに、それを他者に責任転嫁しているのを自覚してもらうしかない。
互いの専門性によって選択する授業も変わり、会わない時間の方が随分と長い。
彼らには彼らの友人がおり、ベアトリスにはベアトリスに必要な友人がいる。
「ルーク・クラークを取り巻く状況はどうなの?」
ベアトリスが聞けば、テオドールは僅かに苦笑するに留めた。
どうやらこちらも余りよろしくはないらしい。
「今年卒業する騎士科の中で、一番の注目の的であるのは確かだね。
騎士団に入れることが決まっているのよりも、あの天才アリス・ホワイトの恋人だって部分が大きいけど」
「それもそうね」
帝国の規模に合わせて毎年採用される騎士の数もそれなりのため、他国からの留学生が入団すること自体は珍しくない。
「あの論文が発表された当初はアリス・ホワイトと縁を持ちたい目的の奴が大勢声をかけていたけど、さっきみたいに正しいと思うことには突き進む感じを見て止めたかな。
関わるには少しばかりリスクが高いと、観察に切り替えたね。
俺も面倒臭いし、ベアトリスに問題を持ち込まれないように静観する側。まあ、クラスも違うからもあるけど」
どうやらベアトリス以外にも同じような態度を取っているようだった。
「以前もあんな感じだったのか?」
テオドールの問いに首を横に振って否定する。
「以前は言われるままに行動するだけの、従順な番犬みたいだったわ。
間違っていると思っても、正すどころか拒否すらできない感じの。
けど、それではいけないと思った反動が今かしら。
まったく極端な思考よね」
灰色であることを止め、白と黒しかない態度は生きにくいだろう。
「正義感が強いというよりは正しさに凝り固まっている、まさにお堅い野郎だっていうのが一般的な評価かな。
あれで帝国の騎士団内で生き抜けるのか、他人事ながら心配になるよ」
帝国は実力主義であるが、その実力は剣の腕を指すだけではない。
城内や王都の巡回、夜会警備等で対峙することになる、トラブル処理だって必要となる。
あまりにもルールを逸脱した行為は咎められるが、臨機応変な判断と柔軟な対応も求められる能力の一つだ。
結局のところ騎士道精神が表面的に求められても、清廉でいられるはずもないのだから。
別にベアトリスは正しくあれなんて求めてもいない。
過去を悔いる余り、今度こそ正しくあろうと正義感だけにしがみついているのはルークだけで、そして痛い目を見るのもルーク本人である。
運が良ければ、上手に駒を動かすことのできる上司に当たるだろう。
本人が自覚しているかどうかは知らないが、別にベアトリスが何かしてあげる義理などない。
見逃すことと、世話を焼くことは同義ではないのだから。
そろそろ移動しようと言って、立ち上がったテオドールが手を差し出す。
すっかり男性の手になったそこに自身の華奢な指先を添えて、ベアトリスも立ち上がった。




