94_夢よりも夢のような現実(フェリクス視点)
俺──フェリクス・レーウェンフックは、たった今、人生を変える出来事にあった。
いや、恐らくこれは俺の人生を変えるなどとスケールの小さい話ではなく、世界が変わる瞬間だったのではないだろうか。
そう思うほどの奇跡。まるで幸せをこの世界というキャンバスを使い直接描き出したかのような美しい光景。すっかり場が落ち着き、屋敷の応接室にいてさえなお、竪琴の踊るような音色が耳から離れない。
温かく眩い光の粒が、全身を包み込んだあの瞬間、一瞬今が本当に現実なのか自信がなくなった。
それほど夢のような時間だったのだ。
俺自身の変化としてはとにかく身体が軽い。驚くほどに、気分がいい。
けれど、それ以上に、心が今まで感じたことのないほど、解放感に溢れていた。
正直、まだ完全に事態を飲み込めてはいないのだ。
だって、そうだろう?誰が想像できるだろうか。生まれた時からずっと体の中に、暮らす土地にあり続け、解けることなどないのだと思っていた呪い。その呪いが、ある日突然消え去るなどと。思い描いたことがないとは言えない。しかし、あまりにも非現実的すぎて、夢のまた夢の願いだった。
夢だと思っているうちは、それは叶わない。叶わないから、それでも手を伸ばしたくなってしまうから、だから夢なのだ。
それが、今、叶った。
夢に見たよりも、何倍も美しく、幸せな形でだ。
この呪いがなければ、ルシルの手を傷つけることなく、その手に触れることができるのに。
そう思ったことはあったが、まさかそのルシルが、俺を引っ張り上げるような形で、この夢を叶えてくれるとは思わなかった。
「いや、この呪い自体が、ルシルの前世──リリーベルと関りがあったんだったか」
話ははるか遠く、リリーベルだったルシルが前の生を終えた経緯にまで及んだ。大賢者殿がまさか彼女の前世の最後の飼い主だったとは。まあ、飼い主といえど、むしろリリーベルが子供だった大賢者殿の保護者のようなものだったらしいが。
だから彼女はあれほど大賢者殿を気にかけていたのか。それを聞いて俺は納得した。心優しく、愛に溢れたルシルが、長い時が経ち自らの在り方が変わったからと、そんな大事な存在を慈しまずにいられるわけがないのだから。
「フェリクス様?どうかされました?」
俺の呟きを拾って、アリーチェを介抱していたルシルが不思議そうに首を傾げる。
「いや、なんでもないんだ」
アリーチェの気持ちも分かる。まさか自分が『お姉様』などと慕うルシルが、強く憧れていた『運命の英雄』と深く関わっていた存在であり、運命の英雄をその存在たらしめていたと言っても過言ではない聖獣の生まれ変わりなどと、それこそ予想もつかない真実だ。
「ふふ……」
あまりに驚くことばかりで、もはや笑えて来る。けれど、決して嫌な気分ではない。
俺の中にあった呪いが、ルシルと繋がっていた。彼女の最後を思えば胸が潰れそうなほど苦しくなるが、俺は呪われていたおかげでルシルと出会えたようなものだ。
呪われていたのが、俺で良かった。他の者が呪いに苦しまずに済んで良かったなどと、殊勝な気持ちからなどではなく、呪われていたのが俺以外だったなら、ひょっとすると運命は違い、ルシルと深く繋がりを持つことになったのはその俺以外だったかもしれないと気付き、ゾッとしたのだ。
そもそもルシルがこのレーウェンフックにやってきたのは、『呪われ辺境伯』と呼ばれ、恐れられ嫌われた俺との婚約を罰として命じられたからだったしな。そう考えると、あれほど腹立たしく思っていたバーナード殿下にも感謝の気持ちが湧いてくるというものだ。はは、我ながら現金だな。
だけど、そう、俺は今、感謝していた。良いものも悪いものも区別なく、ルシルと出会わせてくれた全ての存在、要因に向けて。
まさかこれほど苦しめられた呪いの存在に、感謝する日が来ようとは。
大賢者殿は、アリーチェを心配するルシルを、どこか呆れたような目で見守っている。
「そりゃそうなるよ、ルシル」などと呟きながら。
しかし、そのある種の鈍感さが彼女の良さでもあるのだから、どうしようもないよな。
大賢者殿を見ながら、俺は考える。彼は特別な存在だ。しかし、『魔力がなくなっている』と言っていた。恐らく、長い時間を生きた反動なのか、言葉を選ばずに言うならば、今の大賢者殿は『大賢者』ではなくなり、『普通の人間』となったのだろう。それにしても大賢者、大賢者と我ながらややこしいな。エリオス殿、でいいだろうか。
普通の人間となったエリオス殿は、恐らく曖昧な存在になる。この時代の人間としての存在を保証していたのは、大賢者としての特別な地位だったのだ。
「ルシル、エリオス殿、ちょっといいだろうか。相談があるんだ」
「なんでしょう?」
「僕も?」
ひょっとすると、当人にとっては迷惑でしかないかもしれない。しかし、これを提案できるのは、この場で俺だけだ。
「エリオス殿を、正式にレーウェンフックの一員として迎えたいと思うのだが、どうだろうか。その、エリオス殿自身が、嫌でなければだが」
「え……」
「まあ!」
ルシルは嬉しそうに目を輝かせ、エリオス殿の瞳は戸惑いに揺れた。
そもそもエリオス殿はレーウェンフックの生まれだったわけだが、そのレーウェンフックに忌むべき存在として売られ、生贄として飼われるなどという暗い時間を過ごしたわけだ。今更レーウェンフックになどなりたくないかもしれない。
しかし、どう考えてもこれが一番なのではないかと思えた。全ての事情を知るのはここにいる者たちだけであるわけだし。恐らく彼はルシルの側にいたいに違いないし、ルシルも彼を一人にはしないだろう。だが、俺もルシルが出て行くなど、万が一にも考えられない。
どこか迷うような、ためらうようなエリオス殿に、俺はもう一言付け加える。
「その場合、俺の両親の養子として迎えたい。俺の弟としてだ。どうだろうか」
もう一度問いかけると、エリオス殿は目を見開いて俺を見た。
レーウェンフックに戻るのがエリオス殿にとって最善であることは彼にも分かっているはずだ。それでも、ためらう理由があることは、俺にも分かる。
本当は現辺境伯である俺の養子に迎えるのが一番である。しかし、その場合、ルシルがエリオス殿の側にいるために、あまんじて俺の妻という立場に収まる可能性が高くなるのではないだろうか。
──嫌だよな。義理とはいえ、愛する人の息子になるなど。
俺だっていやだ。ルシルがそんな理由で手に入るなど、とてもじゃないけれどごめんだ。おまけにやっかいな恋敵が息子として一番近くにいることになるなどいやすぎる。
(俺は正々堂々と、ルシルに愛を乞いたい。……まあ、マイナスからのスタートで、なかなか難しいのは分かっているが)
以前カインが言っていた言葉を改めて思い出す。
『お前はいつか今日のことを後悔するよ』
ああ、そうだな。もう後悔しっぱなしだ。だけど、過去はもう取り返しがつかない。いつだって今から始めるしかないから。
やがて、エリオス殿が目を潤ませ、おずおずと口を開いた。
「…………いいの?」
「もちろんだ」
ルシルが顔を綻ばせ、俺の側により、手を握ってきた。
ずっと触れたかったその手が、ためらいなく俺の手に温もりを移す。
「ありがとうございます、フェリクス様!!ああ、なんてこと!今日は本当にとってもいい日だわ!」
手の温もりと、間近で自分に向けられる可愛い笑顔に、思わず顔に熱が集まるのを感じる。俺の顔は今、隠しようもなく赤くなっているのではないだろうか?
だけれど、少しずつでも、気持ちを伝えていかねば、伝わるものも伝わらない。
「……エリオス殿は間違いなく血縁であるわけだしな。それに君が大事に思う人は、俺にとっても大事な人だ。お、俺は、ルシルを、あ、愛しているからな」
拒絶される覚悟もしていたが、俺の言葉に一瞬キョトンとしたルシルは、すぐに満面の笑みに変わった。
こ、これは、好感触なのではないか……!?
「私もフェリクス様のこと、大事に思っていますわ!愛しています!」
「っ!!!る、るしる」
一瞬で天国が見えた。が。
「うふふ!それに、エリオスも、アリーチェ様も、マオウルドットもカイン様も、ジャックもマーズもミシェルもみんなみんな愛しているわ!もちろんランじいもサラも、他のみんなも!このレーウェンフックには私の大事な存在がたくさんで、愛する皆に愛してもらえて、私、幸せです!」
…………あ、そういう…………。
いくら夢よりも夢のような現実を手に入れからと言って、現実は夢のようには甘くないようだ。いや、俺は何を言っているんだ。
ポンと肩を叩かれる。振り向くと、哀れみを浮かべたカインが頷いていた。
人化した三人やサラたちに囲まれたルシルをよそに、こっそりとエリオスが近づいてくる。
「あのね、ルシルは前世、愛されまくった猫なわけ。つまり深く深く愛されることに慣れているし、過剰な愛情表現を受けることが普通になっちゃっているから、ちょっとやそっとじゃ伝わらないよ。これから苦労するね、お兄ちゃん」
おい、半笑いで哀れんでくるのはやめろ。
エリオスはさらに続ける。
「僕はやっとこれから大人になれそうだからさ。呪いに苦しませてしまったお詫びと、ルシルのお願いを聞いて全身に傷を受けて、僕をレーウェンフックに受け入れてくれるお礼に、僕が大人になるまでは、ちょっとくらいなら応援してあげる。どうせ今の子供の僕じゃ、難しいしね。ルシルが幸せになれるなら、それが一番だし。だけど、その時にまだルシルを振り向かせることができていなかったら、その時は遠慮しないから」
ニッコリと笑うエリオス。
「…………ありがとう」
そう言うしかなかった。
まあ、いい。最初に間違えた分、これは俺に相応しい試練だろう。
まさか想いを通じ合わせることができるかどうか、どころか、想いを伝えられるかどうかから始まるとは思わなかったが。
それでも、ルシルが幸せそうに笑っているから。今はこれで十分幸せだと思う。
…………ゆっくり頑張ろう。




