婬魔の女
こくりと自分の喉が鳴るのに気付くほど緊張していた。眼前の生き物が可愛らしい子猫ならこうはなるまいと思いつつ、一歩、また一歩とグルルと唸るドラゴンへと近付いていった。ちらりと後方に立つ魔王の相貌を覗くと、大丈夫だとでもいいそうな優しげな顔で此方を見ていた。私はまた視線を眼前のドラコンへと向けると覚悟を決めて自分の利き手を硬質な鱗へと伸ばした。私の指先をスンスンと嗅ぐドラコンは、私のことを危険かそうでないかを判断しているように思えた。このままその大きな口が開かないことを願いながらそのままされるままにしていると、ドラコンの方に動きがあった。
「・・・ディールに気に入られたようだ」
「そう、なのですか?」
ディールと呼ばれたドラコンが、伸ばした手に頭を擦り付けて目を閉じてゴロゴロと甘えたような鳴き声をあげる。硬い鱗の感触を手のひらに感じながら彼の言葉に困惑していると、此方からも撫でろと催促するように鼻先でぐいっと押されたので、犬や猫と同じように首の付け根あたりを軽く掻いてやると、気持ちが良いのかさらに押し付けてきた。
「ああ、そのディールはドラコンの中でも特別でな。魔力の質を見るのか我以外にはあまりなつかないのだ」
私はその言葉にぎょっとなり目の前のドラゴンを凝視する。大丈夫だと言うから頑張って手を伸ばした存在が、実はかなり危険であったからだ。いや、分かってはいたのだけれど、魔王にしかなつかない存在を私に押し付けたのだと知れば、やはり良い気持ちにはならなかった。むっとする私の気持ちを察したのか、ドラゴンは私のお腹に頭を擦り付けて慰めてくれた。その姿を見ると、すっと湧き上がった苛立ちも少し鎮火した。
「ディール?私と仲良くしてくれますか?」
段々と愛着が湧いてきた私は、太い首に腕を回して目線を合わせて問う。すると少しだけ高い声で一声鳴く。ぎゅっと一度だけ回した腕の力を強くすると、私はドラゴンから離れる。
「余程気に入ったようだ。我でさえあのような甘えた姿は見たことがない。そなたを完全に主と認めたようだ」
「そうだったらいいのですけれど・・・でも、可愛いですね」
太い尻尾をゆらゆら揺らしながら厩舎の中へ消えたドラゴンを見送ると、魔王と私は城へ戻るために歩き出した。
「一通りは見て回ったが、なにか聞きたいことがあればその都度我に聞くといい」
「ありがとうごさまいます」
なんとなく二人の距離が近くなった気がする。まあ気がするだけなのは、私があのドラゴンのことでまた少し怒っているのがあるからだけれど、横ではそんな心の機敏など知らぬ魔王がとても幸せそうに微笑んでいる。だからそんな顔を見てしまうと小さなことで腹を立てている私の方が馬鹿らしくなって、そして私の前でだけころころ表情を変える彼にくすりと笑ってしまう。本当に近いうちに完全にほだされてしまうのではないかと自分で心配になる。
「陛下」
年齢を重ねた渋めの声が背後から聞こえ振り向くと、最初に此方に来たときに色々と説明をしてくれたヴァンパイア族のマイヤーズ・ヴァルファーが佇んでいた。
「マイヤーズ・・・」
「王妃様とご歓談中申し訳ありません。しかしお耳に入れておいた方が宜しいかと思いまして」
魔王の表情が歪んだのを瞬時に判断し、それに適した言葉を選ぶところはさすが彼の右腕であり宰相を務めるだけはあると感心する。
「くだらぬことなら・・・解っておろうな」
「・・・陛下お一人のことでしたら取るに足らぬことやもしれませんが・・・」
言葉を濁してヴァルファーは魔王から私へと視線を移す。ということはその話に私が関わってくるということなのだろう。それも多分に。
「婬魔族のフレイラ・アーチェが陛下にお目通り願いたいと城に押し掛けております」
婬魔族のフレイラ・アーチェ・・・私はそれを確かに聞き取るとちらりと魔王の表情を盗み見る。その時の彼の顔は、無表情であった。特になにも考えてはいないのか、それとも無表情の裏で様々な感情が入り乱れているのか、たった一日しか一緒にいない私には分からなかった。




