人身の供花
背後にある研究室の出口が、重く感じる。
私――佐藤 琉狐は机を挟み、男と向かい合っていた。
「……だからさ、サトウ。やめとけ、とは言わない。言わないけど」
坂西徹教授――通称、バンザイ教授は、椅子にもたれたまま、わざとらしく片眉を上げた。いつもなら「うわ、またキメ顔」と内心で笑うところなのに、今日は笑えない。
「印瞳の研究は危ない。そうですよね。」
「そう。あれは多分、揉み消される。というか、揉み消す側が“慣れてる”匂いがする」
教授は机の上の資料を指でトントン叩く。私が持ち込んだ新聞の切り抜きと、怪異と守り神に関する古い論文や文献のコピー。それと、ネットの怪しげなまとめ記事をプリントアウトしたもの。
世界の端っこで起きた火事みたいに、誰もが知っているのに誰も触れない事故。印瞳家の事故。
「内容が深刻すぎる。大学としても、うちの研究室としても、正面からやるには弱い」
弱い。教授はそう言って笑った。自嘲っぽく、でもどこか軽く見せる笑い方。
「……私もね」
その一言が、変に刺さった。教授はいつも、なんでも出来そうな顔をする。なのに「弱い」と口にした瞬間だけ、少しだけ普通の大人に見えた。
「じゃあ、私は――」
言いかけて、言葉が喉で詰まる。私が何を言いたいか、教授は分かっている顔をしていた。止められるのも分かっていた。けれど先に、教授が口を開いた。
「個人的にやるなら、止めはしない」
「……え」
「ただし、研究室の看板は貸さない。大学の権威は盾にならない。逆に、矢が刺さりやすくなる」
教授は指先で空中に線を引くような仕草をしてから、急に視線を逸らし、窓の外を見た。言い訳みたいな沈黙。けれど、その沈黙の中で、教授は妙に小さく続けた。
「君の前で、何度か……独り言くらいは呟くだろうし」
独り言。それは、助け舟を出すって意味だ。テレビドラマの見すぎだが、優しさが身に染みる。
「……興味が無いと言ったら、嘘になる」
私は思わず顔を上げた。教授は、いつもの“カッコつけ”の角度で顎を引いている。たぶん、教授の照れ隠しだ。
「はい! がんばります!」
「……すすめたわけじゃないからなー」
私は頭を下げ、資料を抱え直して研究室を出た。
◆◆◇◇
帰り道、冬の風が耳の裏を切るみたいに冷たい。マフラーに顔を埋めながら、私は考える。
(この都市で調べられることは、調べ尽くした……と思う)
図書館の郷土資料。古い宗教史。事故当時の行政資料。大学が契約している新聞アーカイブ。SNSの断片。陰謀論の板。どれも、材料にはなるけれど、まだ弱い。
(次は……フィールドワーク、かな)
言葉にすると少しだけ現実味が出て、胃がきゅっと縮む。現地踏査。現場に行く。関係者に会う。聞く。嫌われるかもしれない。怖がられるかもしれない。
スマホを開くと、また例のまとめ記事が目に入る。
『印瞳家事故、“何かの儀式”?――生き残りがいる?』
『都市部に関係者? 政府、反社会的勢力、宗教団体との繋がり』
指が勝手にスクロールする。読めば読むほど、情報は増えるのに輪郭が薄くなる。真実が遠ざかる感覚。
(……いや。都市にも関係者がいるかもしれない)
私は足を止めて、駅前の雑踏を見た。人が多いほど、何かが紛れやすい。どこかで誰かが、知っているのに黙っているかもしれない。
(もっと準備を重ねてからにしなきゃ)
自分に言い聞かせて、スマホを閉じた。指先が冷えている。
そのまま吸い込まれるように、私はいつものカフェへ向かった。気づけば足が覚えている。そこなら、呼吸ができる気がした。
⸻
カフェ「こまいぬの耳」は、駅前の喧騒から一本外れた通りにある。ガラス越しに見えるランプの橙色が、冬の夕方に似合う。
ドアベルをガーンと鳴らす勢いで入る。
「おっ、ルコちゃん! いらっしゃーい!」
カウンターから顔を出したのは藤澤和――フジサワさんだ。エプロン姿で、髪はちょっと跳ねている。いつも通り、妙に元気。
「いつもの?」
「はい!お願いします」
「了解! 今日も研究? えらいねえ」
軽口のくせに、ちゃんと“私が疲れてる”ことを見抜く口調。私は少しだけ肩の力が抜けた。
「……まあ、はい!煮詰まってます!」
「うんうん、いい香りがしてきたんじゃない?お料理と一緒だよ。」
フジサワさんは意味深にウィンクして、コーヒー豆を挽き始めた。相変わらず、キザくて軽くて、でも妙にあったかい。
その時、店の奥――スタッフルームのドアが開いた。
出てきたのは見慣れない男の子。
背が高い。細い。黒いハイネックにエプロンを靡かせている。髪は少し長め。視線が鋭いのに、どこか眠そう。年齢は……私より上? すごく、雰囲気が大人びている。
(イケメンだぁ……!)
心の声が、私の中でだけ妙に大きく響いた。最悪。恥ずかしい。でも止められない。
フジサワさんが私の顔を見て、ニヤッとした。やめてほしい、そういうの。
「よしよし。ヨスガ、休憩入れ。ちょうどいい。ルコちゃんと歴史トークしてきな」
「……えっ?」
彼――ヨスガさん、というらしい――は、露骨に嫌そうな顔をした。というか、断る理由を探している顔。
けれどフジサワさんは、笑いながら背中を押す。
「大丈夫。会話はコーヒーよりカロリー低いから」
「意味が分からないですよ」
フジサワに硬かった表情を砕かれながら、ヨスガさんは私の向かいの席へ来た。座る動作が静かで、目を引く。若干覗くぎこちなさでさえも魅力的に感じた。
私は慌てて姿勢を正す。
「えっと……はじめまして」
「……どうも」
声が低い。冷たいわけじゃない。ただ、距離がある。
フジサワさんがコーヒーを置いて、わざとらしく二人の間に視線を行ったり来たりさせた。
「じゃ、ごゆっくり。あ、ヨスガ、ルコちゃん困らせんなよ」
「困らせる気は……」
言いかけて、ヨスガは黙った。私の目を見たからだと思う。私の目がきっと、輝いていた。最悪。
フジサワさんは満足そうにカウンターへ戻っていった。
◆◆◇◇
――ヨスガの胸の奥で、嫌な思考が蠢いた。
(この子は、生贄の候補にするには、命を使うには、若すぎる。…けど、あまり我儘はいっていられない)
舌の上に苦いものが転がるような感覚。噛み潰したくて、でも噛み潰せない。
(……良くない)
分かっているのに、浮かぶ。浮かぶこと自体が、もう汚れている。
◆◆◇◇
――数日前。
モクヒが、妙に明るい声で言った。
「生贄はどうやって見つけますか? こちらで候補を出してもいいですよ。たとえば私の言うことをよく聞く嫌な人たち。彼らの言うことを何でも聞く子たちがいまして……」
ヨスガは返事をしなかった。返事が出来なかった。
酷くおぞましい顔をしている自覚がある。
モクヒはそれを見て、言葉を失い、慌てて手を振った。
「す、すすすすみませんっ! 嫌でしたか……! ええと、どうしましょうか……」
その小さな狼狽が、ヨスガの胸を余計に痛くした。
(確定なのか?)
生贄でキョウカが治る、と。狗神が言った、と。モクヒはそう伝えるだけ。保証はない。根拠も曖昧だ。不確定なことに、罪のない人を巻き込みたくない。
けれど、他に方法がないのも分かっている。
(穏やかに、何もせず…短い余生を過ごす)
その考えは、優しさの形をしている。だから怖い。諦めが混ざっている。
モクヒは沈黙した。理解できない、よく分からないといった顔。彼にはこれが、効率の悪さに見えるのだろう。
そこへ、リンドウが口を挟んだ。
「なら、両方叶えればいい」
淡々とした声。
「穏やかに過ごしながら、情報を集められる場所。そこで人と接しながら、生贄を選ぶ。もし、生贄を選ぶのが嫌なら、そこで辞めればいい。少し時間を置いて、どちらかの覚悟を固めればいい」
その提案は、諦めないために必要な逃げ道。そう感じた彼はそうする。と小さく頷き、「少し休みたい」と言って席を立った。
残されたモクヒが、ぽつりと言った。
「……そういうものなんですね」
リンドウは少し目を細めた。
「意外でした。彼には人の心などないのかと」
「そんなことはないです。彼は私を助けてくれました。だから、恩を返したいのに……」
「彼にとっては、十分返せているのではありませんか。」
リンドウの言葉に、モクヒは困ったように笑った。
「人の心って難しいですねぇ〜……」
⸻
カフェの席。目の前のルコは、笑うと目と口の端が溶けるように近づく、無防備な人間の顔。
ヨスガは、リンドウに言われた言葉を思い出した。
(威厳に、柔和さを足せ)
息を整え、取り繕う。
「……僕はヨスガ。少し前からここで働いてます。よろしく」
自然と、下の名前だけ名乗っていた。ここで苗字を名乗るのは危ない。聞かれたらよくある苗字を名乗ろう。
「……」
「ルコさん、でしたっけ」
こんな沈黙は苦手だ。
「うあぁっ、はいっ! そうです! ルコですっ! 大学生やってます!」
ヨスガは思わず目を瞬かせた。
(……面白い)
簡単な会話が続いた。絵の話。大学の話。ヨスガがルコより年下だと知ったときの、ルコの驚き。
(佐藤 琉狐。20歳。矢勝大学文学部民俗学科3年生。交友関係は広く、浅い。家族構成は父、母、弟の四人家族。独特な笑い方や話し方。エピソードを聞くに、周囲から随分と愛されている印象を受ける。)
ヨスガは微笑み、ルコの話を聞きながら情報を整理していく。
…僕は上手く雑談出来ているだろうか。コップの水に目を落とし、上目遣いにルコを見る。
(イケメンだな〜、あ、なんかいい香りする!絵もかけちゃうのやばい!今度見せてもらお〜、その年でスマホを最近使い始めたとか可愛すぎる!教えてあげられるかなあ〜)
(…大丈夫そうだな。)
ご機嫌なルコの様子を見るに、楽しく話せているようだ。
◆◆◇◇
話を進めるうち、ルコが、ふっと真面目な顔になった。
「私、最近……趣味で調査を始めたんです」
「調査?」
「はい。印瞳家の事故ってご存知ですか?私、前からあの一族について調べてたんです。」
店内の音が一段遠のく。カップを置く音、ミルの回る音、すべてが薄い膜の向こうになる。
「……どうして?」
理由を問う声が、思ったより硬くなる。ルコはすぐに息を吸った。
「昔からの習わしとか、習慣とか、宗教って、本来はきっと、みんながより良い生活をするために、人のためを想って作られたものだと思うんです」
まっすぐな言葉。子どもっぽいほどの信頼。
「だから、そういう文化の起源にある“優しさ”を掘り出して、現代で文化を利用したり、都合のいい解釈で人を傷つける奴らを……」
ルコは拳を小さく握った。
「ボコボコにしてやるんです!民意でっ!」
ヨスガの目がしぱしぱと瞬く。次に、唇を引き締める。笑ってはいけない気がして。でも、胸の奥が、奇妙に温かい。
肩の力が抜けた。
「……そういう理由、なんだ」
「変ですか?」
「いや……」
ヨスガは言葉を探した。探して、やっと出た。
「純粋だと思った。……よかった」
ルコはぱちぱちと瞬きをして、照れたように笑った。
その笑顔を見て、ヨスガの中に、別の言葉が湧く。
(根拠は?)
純粋さは、綺麗だ。綺麗だから、折れやすい。
「でも……何を根拠に、って思ってしまう。正義って、嘘か本当か分からない」
ヨスガは続けた。
「どんなに崇めても讃えても何も返さない偉大な存在がいて。利用する者がいて。……それだけじゃない。自分の欲のために、ルール――文化を定める強者も、きっといる」
“僕は見てきた”。その言葉は、喉の奥で重い。
ルコは少しだけ口を結んだ。でも、怯えなかった。視線を逸らさない。
「そうかもしれないです。
本当の歴史を知る人なんて、いない。けど、人がついていくのは……その人のためを想ってくれる人、だと思うんです」
ルコは、言葉を丁寧に選んだ。
「たくさんの人が、ある人に習ったなら。その方が幸せになれるって感じた証拠でもある。騙されることもあるかもしれない……でも、人は進化する。もっと幸せになるために、より良い方法を見つけられる」
そして、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「だったら、現代の最善を考えるんです。悪い人が悪いように文化を利用するなら、いい人は、いいことに文化を利用すればいい」
最後に、ルコは「いひひ」と、照れ隠しみたいに笑った。
硬い毛糸玉をほぐしたような子だ。けれど危うい。
(この子は、暖かすぎる)
――フジサワが、遠くから声をかけた。
「おーいヨスガ、それ以上はこっち」
ヨスガは立ち上がり、ルコに視線で促す。
「……少し、移動してもいいですか」
「え? はい」
三人で店の奥へ。フジサワが鍵を回し、普段は使っていない小さな個室の扉を開けた。
「こんなとこあったんだ……」
ルコが驚く。フジサワは得意げに鼻を鳴らした。
「秘密基地だよ。俺が仕入れてるのはコーヒーだけじゃないからね。」
冗談のように言う。でも冗談じゃない。
個室に入る。扉が閉まる。外の音が、きれいに切れる。
ヨスガは、扉にもたれかかった。
影が揺れる。そこにいるはずのない“重み”が、彼の首に絡む。ぼんやりと、キョウカの腕の感覚がある。誰にも見えない抱擁。
ヨスガは、その気配を確かめるように一度だけ目を伏せ、そしてルコを見る。
「ルコさん
僕は、ぜひ貴女に協力したい。印瞳の生き残りとして」
ルコの目が、驚きで大きくなる。
「……ただ、その前に」
ヨスガは、言葉を区切った。ここから先は、引き返せない。
「一つ、聞かせてほしい」
彼は、首に絡む見えない腕――キョウカの存在を、ぼんやりと”現す”。
「貴女が、どこまで知っているのか」
個室の空気が、静かに凍った。ルコは息を飲み、フジサワは目を伏せた。
――人身御供。
生贄として、人の身を神に供えること。
…比喩的に、他人の欲望を満たすために犠牲になる人。
(キョウカ。)
僕はこれから、君をこんなふうにした奴らと同じことをする。
(君に手向ける花を、育てる。)
(君がどう思うかは分からない。けれど、どうしても、
僕は君に謝りたい。君と、もっと生きたい。)
始めよう。君への人身の供花を
たいへん間があきました。ただいまです。




