第53話:交易商人として
イリスがゆっくりと目を開けた。
目がかすんでぼやけて見える中で、最初に見えたのは心配そうに覗き込む遥斗の顔だった。
「イリス、大丈夫か?」
遥斗の声を聞いた瞬間、イリスの目に涙が浮かんだ。
「ハル様……!」
イリスは勢いよく起き上がると、そのまま遥斗に抱きついた。柔らかくしなやかな体が遥斗に密着し、一瞬ドキリとしたものの、彼女が純粋に遥斗の身を案じて泣いているのだと悟り、遥斗はすぐに邪念を捨て去った。
「よかった……貴方が、貴方が魔物に食べられてしまう夢を見てしまって……!すべて夢だったんですね……!」
イリスは遥斗の胸に顔を埋めながら、嗚咽を漏らした。
「大丈夫だよ、イリス。ほら、俺はここにいるから」
遥斗は優しく彼女の背中を撫でながら慰めた。イリスは涙を拭いながら、ようやく顔を上げる。その瞳はまだ潤んでいた。
「本当に……本当に無事で……」
その時だった。
ぴょん、と。
遥斗の頭の上に、黒いぷるぷるとした何かが飛び乗った。
「ケリ~……」
「はう……っ!」
その姿を目にしたイリスの表情は一瞬で青ざめて、そのまま白目を剥いてばったりと倒れてしまった。
「ああ、イリスが!イリスがまた気絶を!」
「無限ループってこわくね?」
「言ってる場合かポンコツゥ!!」
シアが他人事のようにネットミームを使いながら呟いて、遥斗は怒声を上げたのだった。
「わーい!」
「ケリー!」
広場では、子供たちの歓声が響き渡っていた。
特にエスニャは、目を輝かせながらリケと楽しそうに遊んでいる。村の他の子供たちほど激しく動けるわけではないが、以前の弱弱しい様子とは雲泥の差だ。遥斗がエスニャを大事にしていることをリケも理解しているのか、彼女が無理なく遊べるような、体をそこまで激しく使わなくてもいい遊具の形に変化しているのが見て取れた。
そう、リケは遥斗の記憶から読み取った日本の遊具――ブランコ、シーソー、滑り台といったイメージを、その不定形な体で次々と再現していた。体が柔らかく、触れると弾むような質感は、まるで生きている遊具だ。一方である程度硬くもなれるようで、ジャングルジムや鉄棒のようなものにも変形する。
それに登って遊んでいた子供が高所から落ちればすぐに柔らかな体を伸ばして受け止めて、子供たちは傷一つ負わない。子供たちは大喜びで、リケが変形したシーソーに乗って跳ね上がったり、遥斗に鉄棒の遊び方を教えてもらって逆上がりに挑戦したり、分裂したリケの小さな分身体と追いかけっこをしたりと、はしゃぎ回っている。
魔物につかまっていたトゥミルやルクェン、ポラ、カナンは、大事をとってまだ休んでいたのでここにはいないが、もしいたらきっと目を輝かせて羨ましがったことだろう。次回来た時には、彼らもリケと一緒に遊ばせてやろう、と遥斗は心に決めた。
それにしても、リケ、お前分裂までできたのか。
「はあ……」
遥斗の隣で、イリスが深く、深くため息をついた。
あの後、気絶したイリスはルシが持っていた気つけ薬ですぐに意識を取り戻していた(気つけ二回目)。
さすがに三回目は慎重になり、遥斗はイリスが完全に落ち着くまで待ってから、リケという存在がいることをゆっくり説明する。
そして、遥斗の背中に隠れるようにして、申し訳なさそうにしているリケをイリスに紹介した。
イリスは再び声なき悲鳴を上げそうになったが、リケが何もせずに、ただぺこぺこと頭らしき部分を下げて謝罪の意を示すのを見て、徐々に落ち着きを取り戻していった。遥斗とルシからの詳細な説明を聞くうちに、彼女はようやく事態を把握したのだ。
「すみません、あんな悲鳴を上げてしまって……」
イリスはしおらしい声で、改めて遥斗に頭を下げた。遥斗は気にする様子もなく首を振る。
「あの状態を見たら、誰でもそうなるさ。気にしないで。リケと仲良くしてくれるなら、俺はそれだけでいいよ」
イリスは最初、リケのなんとも形容しがたい、冒涜的な造形に生理的な抵抗感を覚えた。
しかし、遥斗がこれほどまでにリケを可愛がり、まるで大切な家族のように扱っているのを見るうちに、その抵抗は薄れていった。
ハル様がこれほど愛着を抱いているのだから、きっと何か特別な存在なのだろう――そう考えるようになったのだ。
アバターの姿で現れるシアも含め、遥斗の周りで起こる常識外れの出来事や存在を、「ハル様は、そういうものなんだ」と、イリスは受け入れたようだった。
まあ、ハル様だし、ということで済ませ始めたあたり、そろそろイリスも達観し始めているのかもしれない。
遥斗は、子供たちの笑顔と、リケを受け入れた村人たちの様子を見て、しみじみと呟いた。
「でも、村の皆もリケを受け入れてくれてよかったよ。まあ、リケは可愛いもんな!」
「多分違うと思います」
イリスは「スン」と無の表情で答えた。
あ、チベットスナギツネだ、と遥斗は思ったが黙っていた。
最近、自分は女性にこの顔をよくされている気がする。なぜだ。
ちなみにヴェルナ村の住民たちはイリスと近いようで少し違う。
イリスは、遥斗の意図に関わらず、村人たちが遥斗を『セリーモア様の使徒』と確信し、シアやリケを「使徒様に仕える精霊たち」と認識しているだろうと心の中で推測した。
リケがいろんな形になって子供たちと遊んだり、腰を抜かして倒れた村人を優しく運んだり、アバターのシアに甘えたりしているのを見て、無害で遥斗に従順な存在だとわかると、
「さ、さすが使徒様の僕だ……」
と呟く者もいた。
そして、ある男が
「精霊も色々いるからなあ。すべての精霊の母たるセリーモア様もたまに妙な精霊を生み出すんだな」
と一人納得していた時、どこかの家に飾ってあった星枝の壁飾りが「ちゃうねん」とばかりに倒れていたが、誰も気づいていなかった。
イリスはそんな村人たちのことを、遥斗が自分が使徒扱いされることを嫌がるだろうと思い、あえて口にはしなかった。
正直言えばイリス自身もいまだに「お前本当に使徒ちゃうんか」と思わないでもない。
一方、信心深くない若い者たちは、「開拓者たちが警戒してないから、きっと無害な魔物なのだろう」と心配もしていない様子だった。
ザヴァクたちは、酒を飲みながら、はしゃいで遊ぶリケと子供たちを面白そうに眺めていた。
ルシだけは、「子供と仲良く遊ぶ人類の天敵……」と、深まる頭痛を抑えるようにこめかみを押さえていたが。
一通り騒ぎが落ち着き、遥斗は改めてザヴァクたちに頭を下げた。
「依頼を受けていただいた上に、リケのことも……本当にありがとうございました」
「依頼を受けただけだ。それに特典もついてきたしな」
「ああ、ハルちんに恩が売れたならばんばんざいだ」
「ハルちん!?」
ザヴァクは豪快に笑い、カイゼも酒で顔を赤らめながらご機嫌な様子で答える。
ついでに妙な呼び方をしてルシやバルバが驚愕する。
「あ、カッちゃんとはマブダチになったんですよ。双剣の使い方でいろいろと盛り上がって」
「うむ!世界には暗殺術を極めたヤバイ二刀流使い、さらには三刀流の伝説の剣豪もいるとか!俺もいつか鉄を切ってみせよう」
「カッちゃん!?」
あーはっはっはと肩を組んで笑いあう二人を周りは若干白い目で見ていた。
多分遥斗も少し酔っている。
周りの目線に気づき、遥斗は一度、こほん、と咳ばらいをした後、バルバを見て言う。
「依頼料は約束の通り、あとでバルバさんからもらってください。バルバさん、よろしいですか?」
バルバは快く承諾する素振りを見せたが、遥斗に確認した。
「ああ、問題ない。だが今回『折れぬ大剣』に依頼したのはハル殿であるという書面の手続きは必要になる。あとでその書面を用意してほしい。印石は持っているかね」
「印石?」
「その書面をちゃんと自分が認めた、ということを示す印を書面に写す魔道具だ。魔術刻印の一種だな」
「それがないと手続きはできないんですか?」
「いや、そんなことはない。サインでも大丈夫だ。だが、今後に交易商人として様々な商売や手続きをするなら用意したほうがいい。安く済ませるなら蝋印でもいいがね」
話を聞くと、『唯一性』が担保できるなら何でもいいそうだ。
そのため、簡易的にはサインでもいいが、大体の交易商人は蝋印をつくり、店舗を持ったり大きな商談を継続的にするなら印石を作ることが多いという。
印石とは自分の作った文様に魔術刻印を組み合わせたもので、文様と魔力の波長の双方が絡むために独自性が強く偽造がしづらくなるので重宝されるらしい。
遥斗は内心で焦った。印石とやらは今後用意すればいいが、自分はこの世界の文字も書けない。
どうしようか、と考えていると、遥斗とバルバのやり取りを聞いていたイリスは、ハッとあることに気づいた。あのときは事態の急変に慌てていたので深く考えていなかったが、冒険者たちに依頼料を払ったのは遥斗自身だ。
イリスは決意したように、遥斗に申し出た。
「あの、ハル様、私たちはハル様が立て替えてくださったお金をお返ししなければなりません。村の皆にもハル様がお金を出してくださったことを報告して、どうやってお返しするか、皆で考えますので返済は少し待ってもらえますか」
遥斗は首を横に振った。
「俺が勝手にやったんだから別にいいよ。気にしないで」
イリスはそれでは、と口ごもるが、遥斗は何か良いことを思いついた、とばかりにイリスに聞いた。
「そういえば、イリスは文字は書けるのか?」
「はい。書けますし、読めます」
イリスの返事に、遥斗はパッと顔を明るくした。
「じゃあ、俺の代わりに代書してほしいんだ。契約とかの書類、書いてもらえるか?それに、お金のことは本当に大丈夫なんだ。この前、星枝の壁飾りや波花の箱が高値で売れたし、今回の費用は俺の国の布を売った金で、十分まかなえるんだ」
そして遥斗はイリスに耳打ちするように、小さく続ける。
「俺の国だとあの布はたいして高くないんだ。だから、この村で作ってもらったものを売るだけで、俺はもうすごく利益が出てるんだよ。あの扉のおかげで、俺はすごく簡単に儲けてるんだ。だから本当に気にしなくていいよ」
イリスは不承不承ながらも頷いた。
だが、その後にイリスはハッと息を飲んだ。
「あの、ハル様……バルバさんは『交易商人として活動するなら』と言っていますが、ハル様は『交易商人』の資格を持っていないのでは……」
「あっ!」
そういえばそうである。税のかからぬ露店売りと違い、大きな商談をしたり交易所を使う売買には資格が必要だったはずだ。
これだけ高額の商品を扱い、しかも定期的にやり取りするとなれば、商会連合への登録や税も納めなければならない。遥斗は慌ててバルバを見た。
「あの、俺、交易商人の資格とか持ってないんですけど……このままだと、まずいですよね?」
バルバたちは遥斗の言葉に一瞬驚いた顔をしたが、すぐに表情を元に戻した。
「そうか、ハル殿は交易商人の資格はないのか。まあ、それは問題ない。後の手続きで大丈夫だ。これだけ素晴らしいものであれば、商会連合への参加は問題なく認められるはずだ。俺が推薦人にもなろう」
バルバはさらに続けた。
「ただ、交易拠点は決めなければいけないし、売上の1割は連合に納めないとならない。拠点はヴェルナ村でいいのか?他領になるが、リシャッタなら俺の名前を出せば、いろいろ融通が利くと思うし、俺も支援を惜しまないが」
「いいんですか?」
「なに、はっきり言えば、俺の都合だ。その方がハル殿との商売がしやすくなるし、大きな利益をリシャッタに落とすハル殿を紹介することでリシャッタの商会連合に恩も売れる。そうすればリシャッタでの俺の商会の地位は大きくあがるだろう」
「ずいぶんあけっぴろげですね」
バルバは豪快に笑った。
「あんたには変に駆け引きしないで、本音を伝えた方が、かえって信頼を得られそうだからな」
事実、遥斗は、バルバのこの率直さに、むしろ好感を持った。バルバも誰にでもこのような態度を取るわけではないのだろうが、少なくとも遥斗にはその在り方は心地いい。
だが遥斗は、やはりヴェルナ村を拠点にしたいと伝えた。ただ、そうなると本格的にヴェルナ村の責任者に話をしにいかないとかなあ、と呟いていると、
「その必要はないよ」
と、マレナの声がする。
振り向くと、何人かの老人たちと五、六十代くらいの壮年の男性を連れたマレナがいる。
彼女は、相変わらず「きひひ」と魔女のように笑っていた。




