第44話:商人の心得
交易街リシャッタからヴェルナ村へと引き返してきたバルバたちの馬車の車輪が、土の道に軽い軋みを響かせた。エリドリア馬の金属光沢の毛並みが陽光に映え、その体躯からは考えられないほど静かな蹄音が聞こえてくる。
その音を聞きながら、御者台にいたバルバはヴェルナの門の前に立つ男に大きく手を振った。
門番として立っていた男、農夫のヨルクは目を細める。
見慣れた馬車、そしてその横を歩く屈強な男たち。バルバ・ヤーネット商会の者たちだとすぐに分かったが、彼らがこの時期に、それも前回来村してからわずか10日ほどで戻ってくるのは異例のことだった。通常は数カ月、長ければ半年以上は来ないはずだ。
「バルバ殿、何か?」
ヨルクは銅の槍を握りしめたまま、言葉少なに問うた。簡潔な問いだったが、ヨルクが常に誠実で余計な口を利かない男であることをバルバは知っていた。
バルバは馬車から降りると、軽く肩をすくめた。
「ああ、少し急ぎの用だ。確認なのだが、今、村に露店は出ているか?この前村で飴を売っていた若者はいるか?」
ヨルクは少し首を傾げた後、そのまま横に振った。
「今日はずっと朝番で、村の中のことは知らない。あの菓子売りの男はたまに村に来るが、今日は見ていない」
バルバの眉がわずかに動いた。
「何度か来ているのか。彼は最近露店を出していたか?何か変わったことはあったか?」
あのお菓子や銀の包みがもし本当にすごいものなら、村にも何らかの変化があるはずだとバルバは考えていた。
「露店を開いていたのを見かけたのは、一度だけだ。そのあとは見ていない。変わったこと……スガライが妙な道具を作ったくらいか。女たちが騒いでいた」
その情報に、バルバはわずかに表情に影を落とした。
「ふむ……今はいないのか」
しかし、もしその若者がいなくても、あの妙な若者はこの村の薬草売りの少女、イリスと一緒にいたのだから、彼女に当たれば何か情報が得られるはずだ。そう考え、バルバはヨルクに許可を得て村の中へと足を踏み入れた。護衛たちには、小さなナイフ以外の武器は全て馬車の中にしまうよう指示が出され、彼らは素直にそれに従った。
村の中は相変わらずのどかだった。小鳥が庭先を自由に歩き回り、遠くでは子供たちの笑い声が風に乗って聞こえてくる。バルバの目に留まったのは、木陰で集まって何かをしている数人の老婆や主婦たちだった。しかし、彼女たちが手にしているものが奇妙だった。見慣れない、丸い木枠に布が張られたものをじっと見つめて何かしている。
バルバは妻のティアリスと護衛のルシを連れて近づいた。カイゼとザヴァクは、いつでも守れる位置に待機しつつ、村人たちに威圧感を与えないよう配慮していた。
「やあ、皆さん。今日もセリーモア様の息吹を感じますね」
「おや、交易商人さんかい。すぐに来るなんて珍しいね。貴方にも星枝の光が届きますように」
バルバがそう声をかけると、村人たちはにこやかに挨拶を返した。こういったセリーモアに関する言葉で声をかけるのは、ヴェルナ村に古くから伝わる伝統的な挨拶である。セリーモアへの深い信仰を示すと同時に、互いの無事と健康、そして豊かな恵みを祈る言葉として、村人たちの間で交わされてきた。
ただし、少し古いかしこまった言い方ではあり、村人同士では「良い息吹ですね」「ご加護がありますように」くらいで言い合うし、共通語の挨拶の言葉も普通に使う。
ただ、これをよそ者や旅の者が使うと、この村の重鎮や古い人間には受けがいいのだ。
バルバは別にセリーモアを深く信仰しているわけではない。ただ、特別な存在として敬いはするし、どこの地域もこういうものが商売に利いてくるので、知識は仕入れているのである。
さて、ティアリスも同様に声をかけながら、村人たちの手元を覗き込むと、彼女たちは見たことのない立体的な刺繍を施していた。老婆たちの作品は熟練の技が光り、すでに目を奪われるほど素晴らしい仕上がりだったが、主婦たちのものはまだ途中で、糸がごちゃごちゃと絡まり、いかにも練習中といった風情だった。しかし、その革新的な刺繍方法に、ティアリスとバルバは目を見張った。このような刺繍は、王都の裁縫ギルドの新作でも見たことがない。もしそのような技法が王都や交易都市にできたのであれば、この村の住人より早く自分は知っているはずだ。つまり、この刺繍はこの村の近隣、あるいはこの村で生まれたということになる。
さらにバルバは、彼女たちが手にしている道具に注目した。
「それは何だね?」
バルバが問うと、老婆の一人が嬉しそうに答えた。
「これは刺繍枠だよ。最近、スガライが作ってくれたんだ。これがあるおかげで、針仕事がずいぶん楽になったんだよ」
別の主婦も口を挟んだ。
「それに、マレナばあ様が教えてくれた新しい刺繍のやり方もあってね、今、女たちの間で刺繍が流行ってるのさ」
バルバは最初その価値があまり分からなかったが、ティアリスは興奮を隠せない様子で、手に取った刺繍枠をまじまじと見つめた。
「まぁ、素晴らしいわ、貴方!この枠があるだけで、布がしっかりと固定されて、両手が自由に使えるじゃない!しかも、この立体的な刺繍は……!こんなにも簡単に、これほど見事な作品が作れるなんて、信じられないわ!」
そう言いながら、ティアリスはバルバに向かって声を弾ませた。
「これ、絶対に売れるわ!王都の針子さんたちもそうだけど、何より淑女や貴婦人たちに売れること間違いなしよ!」
さらにルシまでもが「私も欲しいかも……」と目を輝かせる。この刺繍枠は、貴族の女性たちが暇を持て余した際の手慰みとして、あるいは針子たちがより複雑な作品を手がけるための道具として、確実に需要があるだろう。単純な仕組みながらも、これほど作業効率を高める道具はそうない。これだけでもここに来た甲斐があったと、バルバは嬉しくなった。
ついでにお菓子売りの若者について尋ねたが、皆知らないとのことだった。
「ハルさんだっけ?たまにイリスと一緒にいるみたいだけど、今日は見てないね」
バルバは村を進んだ。村の中央、前に菓子売りの男が露店を開いていた場所に行ったが、やはりいなかった。これは薬草師の少女テルミナを探すべきか、と考えていると、子供たちが騒いでいる声が近くに聞こえてくる。
よく見ると広場の隅で、一人の子供のところに何人も集まっている。その子供は革袋を持っており、何かがたくさん詰まっているように見えた。綺麗な石でも拾って遊んでいるのか、とバルバは思った。
ところが、バルバが目を凝らして子供が出したものを見ると、忘れもしないあの飴だった。それを見たティアリスが驚きに目を見開き、ルシも思わず息を呑んだ。カイゼとザヴァクの顔にも、小さく驚きの表情が浮かぶ。その幼い子供は他の子供たちにどんどん飴を渡していく。まるで遊びで拾った木の実を分け与えるくらい気軽に、子供たちにそれを渡している様子に、バルバは驚きを隠せない。そして、バルバは子供たちの会話を聞き逃さなかった。
「ハルさんがいったんだ、お手伝いした子みんなに配ってって。あとでお礼言おうね!」
子供たちは大喜びで歓声を上げる。バルバは一度顔をむにゅむにゅと揉むようにすると、頑張ってにこやかな顔だと思う形を作り、子供たちに近づいた。自分でも鋭い目つきのせいで、子供たちにはうさん臭く見えることを自覚しているからだ。本当はティアリスやルシあたりのほうがあたりはいいのだろうが、さすがに商機について、人任せにはできない。
「やあ、みんな。ちょっと教えてほしいんだけど……」
その頃、遥斗たちがいる薬草工房では、倒れたセメラが少しずつ落ち着きを取り戻していた。イリスが用意した安静の薬草のおかげもあり、呼吸も穏やかになっている。セメラはゆっくりと目を開け、少しだけ顔に血色が戻ったようだ。
「セメラさん、大丈夫ですか!?」
遥斗が心配そうに声をかけると、セメラはまだ顔色が悪かったものの、小さく頷いた。
「本当に?冗談じゃなくて?」
セメラが信じられないといった様子で呟き、遥斗は努めて冷静に言った。
「いや、冗談じゃなくて本当なんだよ。さっき言った通り、使ってるお金が違うから正確じゃないけどね。銅貨の価値がもっと高いなら、実際はその半分、もしくは三分の一くらいになるかもだけど……とにかく、セメラさんが作った木工品はそのくらいで売れたんだよ」
「二千枚の半分が千枚なのはわかるけど、三千枚の半分や三分の一って言われても……大金ってことくらいしかわからないよ」
セメラが困惑した顔で呟く。その時、横にいたイリスがすぐに答えた。
「千枚から千五百枚くらいですね」
遥斗は驚いてイリスを見る。イリスは前回来た時の様子を見る限り、計算があまり得意ではなかったはずだ。するとマレナが遥斗の耳元で小さく囁いた。
「アタシに頼んできて、頑張って勉強したんだよ。ハル坊の役に立ちたいってね」
そう言われてイリスを見ると、彼女はマレナが何を言ったのか理解したのか、恥ずかしそうに顔を赤らめていた。遥斗はイリスの自発的な献身さに感動しつつ、今は目の前のことを進めるために咳払いをして話を続けた。
「だから、この利益を村に還元したいのですが、俺は今、銅貨をほとんど持っていません。なので、いったん物納にしたいと考えています」
そう言って、遥斗は傍らに置いていた大きな荷を解いた。中から現れたのは、磨き上げられた鉄やアルミ製の、見慣れない道具の数々だった。まるで宝石のように光を反射するそれらは、のこぎり、かんな、鑿や彫刻刀のセット、やすり、巻き尺、金槌など、木こりや木工に便利そうなものが一通りそろっている。
遥斗がバイト先のホームセンターである『ハマトク』にて手あたり次第まとめて買ってきたものなので、かなりの重さがあったが、なんとか頑張って持ってきたのだ。
なお、遥斗が経済的にあまり余裕がないことを知っているハマトクの店長は、この大きな額の買い物に驚きを隠せない様子だった。そこで遥斗が「DIYを始めたので」とごまかしたため、彼の趣味はハマトクの中でDIYだと認識されている。
「こ、こんなすごいもの……」
セメラは思わず言葉を失った。しかし、その視線は特定の道具に釘付けになっている。彼らが使ったことはないが、その機能性が一目で理解できるものや、普段使い慣れた鑿や彫刻刀だが明らかに性能が良さそうなものには、強い興味を示していた。
また見知らぬ道具についても、これはどうやって使うのかが気になるようである。セメラは道具への強い魅力を感じながらも、悩ましげな表情を浮かべる。
遥斗は続けた。
「これ以外にも、この前持ってきた布や飾り用のビーズ、他にもこちらで価値が高そうなものを持ってきていますので、そちらでも構いません。ただ、これは……」
そう言って少し口ごもる遥斗。その瞬間、マレナが先に口を開いた。彼女はただの老婆というにはあまりに聡明な眼差しで、イリスを見つめていた。
「ふむ、それはやめといたほうがいいかもね。……なぜかわかるね、イリス」
マレナの問いかけに、イリスは少し考え込み、やがて顔を上げた。その表情には、はっきりと理解の色が浮かんでいる。
「……希少品をただ貰っても持て余しますし、他の村人のやっかみを買うかもしれないから、ですか?」
マレナは満足そうに頷いた。さらにイリスに問う。
「なら、この状況で最も賢い選択は何だい?」
イリスは少し考えてから、確かな口調で答えた。その言葉には、迷いがなかった。
「それなら、この道具を村のみんなの共有財産にして使うのはどうでしょうか。そして、その責任者をセメラさんに任せるというのは」
遥斗は驚きに目を見開いた。イリスの言葉は、まさに彼が考えていたことそのものだったからだ。遥斗は、この道具を共有財産にすることで、村全体の生産性を上げ、結果的に長期的な利益に繋がると考えていた。
個人の手に渡れば、その恩恵は限られるが、共有されれば村全体の技術底上げにも繋がる。さらにセメラを責任者にすることで、これだけの大仕事を成し遂げたという彼女の『役目』としての誇りを満たし、道具の管理も任せられる。イリスがこれほどまで深く考えていたことに、遥斗は感動を覚えた。
とはいえまだ飲み込めてないのはセメラである。うん?いいの?えー、ほんと?とつぶやきながら、あわあわとしたままだ。
「いったんセメラさんには、少し考えてもらって……」
遥斗はそう言いかけ、リーリーとスガライに目を向けた。彼らの報告を聞こうとした、その時だった。
「ハル兄ちゃん!イリス姉ちゃん!お客さん……なんだけど……!」
外から子供たちの声がした。この声はトゥミルのものだろう。
だが、なぜか歯切れが悪い。
イリスが不思議に思いながら工房のドアを開けると、そこには子供たちに連れられてやってきた、バルバ一行が立っていた。バルバは、埃まみれの旅装のままだが、イリスの奥にいる遥斗を見つけると目を輝かせた。口角がこれ以上ないほど上がり、まるで獲物を見つけた猛禽類のような獰猛な笑みを浮かべている。
バルバは両手を大げさに広げて、嬉しさを隠しきれない声で言った。
「やあ、ハル殿。やっと会えた。この前の商品、確かに驚かせてもらったぜ」
その顔は、ただの交易商人のそれを遥かに超え、新たな時代の幕開けを予感させる、底知れない野心を宿していた。
バタン。
「…………えっ」
目の前でイリスに閉められたドアに、バルバは手を広げたまま固まる。
後ろにいたティアリスや護衛たちも、突然の出来事に固まると、扉の奥から遥斗たちの声が聞こえてきた。
「イリス……閉めちゃっていいの?あの人前に露店に来た商人さんじゃない?」
「……はっ!?す、すみません、あまりにうさん臭かったもので……」
「まあ確かにうさん臭かったね。あれは何か企んでる目だね」
「ま、まさかハルさんの売り上げを狙って!?あわわわわ……」
「こ、怖かったです……」
「い、いかん!子供たちを残したら何をされるかっ!」
「……」
微妙な空気が工房の扉の前のバルバ一行に流れる。
「まあ、あの顔したらそうよ。仕方ないわ。商人が商売相手に見せちゃいけない顔よ」
固まっているバルバの横にいたティアリスは呆れたように言う。
斜め後ろに立っていた護衛たちにもバルバの顔は見えていたのか、ザヴァクも口元を引きつらせていった。
「顔については俺も人のこと言えやしませんが、今の旦那の顔はちょっと……」
「やばいな、あれは」
カイゼも目を伏せて口癖を言いながら頷く。
「あ、あの!私は商人の凄みを感じるというか、何か神算な計画を立てているといいますか……」
ルシだけが必死にフォローしようと声を上げた。
だがティアリスはため息交じりにルシの言葉を遮ってため息をついた。
「それ、うさん臭いって言ってるわよね」
バルバは、その場でがっくりと肩を落とし、膝を抱えて子供のようにうずくまった。




