夏と幼馴染、あと電車(阿蘇忠助誕生日短編)
夏空に浮かぶ雲を眺めていると、どこか遠くに行きたくなる時がある。
生きていく中で生じたしがらみや、負わなければならない責任。それらを切り捨てようと思ったことはないが、少しの間だけ脇へ置いておくことを自分に許してもいいのかもしれないと考える。結局、そんな器用なことができる人間でもないので、すぐに日常の喧騒に身を帰してしまうのだが。
速度を落としてホームに入ってきた電車が、大量に人を吐き出す。数秒後には俺もこの巨大な鉄の箱に飲み込まれねばならない。
だけど、もし、反対側の電車に乗ってしまえば?
何も変わらない。これは環状線だ。到着する時間が変わるだけで、いずれは予定どおりの目的地に到着してしまう。
扉から吐き出される人の波が途切れる。入れ違いに外にいた人達が殺到する。俺も周りに合わせて電車へと乗り込む。
音を立てて扉が閉まった。それは、俺の曖昧な願いを、容赦なく閉ざした音のようにも聞こえた。
「真面目すぎんだよ、阿蘇は」
その声に、はたと顔を上げた。気づけば俺は、古い型の電車のボックス席で幼馴染と向い合わせになって座っていた。
こんな場所にいた記憶はない。だが不思議と、自分はこの状況をすんなり受け入れていた。
藤田は学生服を着ている。これは自分達が高校生だった時のものだ。そう思い至れば、藤田の顔立ちもどことなく今より幼く見えた。
「だってさ、面倒くさいことばっかじゃん。やれ友達が宗教団体に洗脳されてるだの、実の兄が好奇心で突っ込んだ首を切り落とされそうになってるだの。それに全部お前が介入して、何もかも助けようとするなんて、どんだけ無茶なことしてると思う?」
藤田は窓辺に肘をついて、外の景色を眺めている。永遠に続く夏の空と青々とした山の景色が、彼の瞳に映っては流れていた。
「オレなら、諦めちゃうけどな」
相変わらず厄介な性格してやがんなと俺は思った。
だからといってそれを口にする気にもなれなくて、青と緑のコントラストを視界に収めてみる。まるでこどもが力いっぱい絵筆を走らせたかのような鮮やかさ。俺は、この色を持つ夏が季節で一番好きだった。
だが果たして、そんな話を藤田にしたことがあっただろうか。
沈黙が降りたままの俺達を乗せて、電車は線路を走る。日に焼けた座席と、他愛のない落書きだらけの窓枠。そんなものに目を落としながら、俺はようやく自分達以外に乗客がいないことに気がついた。
もしも俺が望むのなら、藤田はここで俺の時間を止めてしまうのだろうか。
「はあ」
ため息をついて立ち上がる。窓のロックは錆が溜まっていたものの簡単に外れ、俺は力を込めて窓を上に押し上げた。
草の匂いを孕んだ生ぬるい風が頬を打つ。俺は、藤田の手を取った。
「行くぞ」
「行くってどこに?」
藤田の目が、動揺に見開かれている。見慣れたはずの表情なのに妙におかしくて、俺は笑っていた。
「知るか。いいから行くんだよ」
藤田の体を引き寄せる。甘さの欠片もないが、彼が抱いた憂慮を振り払うにはこれぐらいがいい。
未知を睨みつける。ここから先は、少しの期待と絶大な諦めの悪さが肝心だ。
――なんてことはない。転がった先で何度でも立ち上がるだけだ。これまで、ずっとそうだったように。
片足をかけていた窓枠を蹴る。あまりにもできすぎた夏が、俺達の体を包んでいた。
――電車のアナウンスにハッと顔を上げる。俺の体は、息苦しい満員電車の中にあった。
そういえばここのところは残業続きだったし、白昼夢でも見たのかもしれない。まだ鼻の奥に残る草の匂いを無視して、俺は窓の外に目をやった。
規則正しい振動と共に流れていくのは、立ち並ぶビルの群れだ。一見無機質だが、あたかも血が通うように人々が生活しているのを俺は知っている。
いつのまにか遠くへ行きたい気持ちは消えていた。依然変わりなく、俺は何もかも捨てずに持ち続けていくのだろう。
突然、スマートフォンがメッセージの着信を知らせる。迷ったが、取り出して確認してみた。
案の定、そこには幼馴染からの脳天気な文字が並んでいた。込み上げてきたため息を飲み込み、既読スルーしてまたスマートフォンをポケットにしまう。
思い出したように添えられいた誕生日を祝う言葉だけ、少しの間俺の瞼の裏に残っていた。




