01 ナイン
初めに女がいた。
女は己の身を隠すため迷宮を産み、迷宮はさらに迷宮を産み、十二の大迷宮が連なる世界を造り上げた。
いつしかそこは迷宮惑星と呼ばれるようになった。
タイグロイド迷宮。
迷宮惑星を構成する12の大迷宮の内のひとつである。
迷宮全体がまばゆい光に満ちているのは、他の迷宮に比べれば天井が低めに位置しているせいだろう。天井にずらりと並ぶ六角形状の輝く板、光導板が地表に近いのだ。
その力強さゆえか。カーボン=プラスキン複合材の地面からは陽炎が揺らめき、吹く風は触れるものの水分をどこかに持ち去ってしまうかのようだ。
一陣の熱風が土埃を巻き上げ、水銀色に輝く逃げ水の中をひとりのビィ――ヒト型知的生命体――が歩いていた。
女だ。まだ若い。
成体式を終えて10エクセルターン――エクセルターンは一年を表す単位だ――といったところだろうか。平均寿命180年と言われるビィにとっては若輩の内だろう。
黒い上下の高機能ヒゴロモレザー。長い髪を編んで後ろにまとめ、耳から目をぐるりと覆う擬似プラグド仕様のサイバーグラスを装着しているそのさまはソリッドで、スタイルの良さを強調していた。
「……暑い」
耐えかねたようにジャケットの前をはだけ、女は思った通りの言葉を口にした。シャツ一枚に隠された豊かな胸の谷間には汗のしずくが浮かんでいる。
高機能を謳っているジャケットは、確かに防寒には非常に役立つのだが暑さを遮るという点においてはややサポートが薄い。つまり――暑い。
女はジャケットを完全に脱いで肩に引っ掛け、代わりに日焼け対策用に希釈した防火ジェルを脇腹にピシャリと貼り付けた。内容物に含まれるデザイン微生物が賢く働いて、ジェル自体が肌の上を這いまわって広がってくれるのでわざわざ塗りたくる必要はない。
「さーて、どこから探そうか」
腋の下から背中を舐めていくジェルのひやりとした感触にくすぐったく身体をよじってから、女は誰に聴かせるわけでもなく熱気の地にひとりごちた。
サイバーグラスの内側には、現在の体温と外気温を比較するゲージの拮抗する様子が示されていた。
*
他の迷宮ではあまり見られない文化形態だが、タイグロイドの蜂窩は一本の主機関樹を中心にするのではなく、複数の”機関樹”によって生活に必要なエネルギーや物資を得ているところがほとんどだ。
機関樹と主機関樹は突き詰めると違いはなく、単にその規模や成長段階によって区別されている。機関樹が主機関樹と呼ばれるようになるまで1000エクセルターンか、あるいはもっと気の遠くなる時間を要するのか定かでない。単に主観の問題とも言えるかもしれない。
キネゾノはタイグロイド迷宮の蜂窩としてはごく標準的なもので、こじんまりとした――あくまで相対的にだが――9本の機関樹が生活を支える小集落だ。人口は200人程度。
”9”という数字にはもともと意味があったと考えられるがすでに失伝しており、住民の誰もその理由を知らない。機関樹はジェネレータであり食物や物資の材料となるのでより大きく、多くなる方が生活も楽になろうものだが、理由も失われた今もあえて数を増やそうとするビィはいない。はじめからそういうものとして受け入れているのだろう。
めまいのするようなネコゼミの鳴き声が響き、住民たちは薄着に笠をかぶって熱気の中で生活を送っている。
そのさなか。
「なんや、誰や来よるぞ?」
袖のないシャツを汗と土埃まみれにした中年のビィが集落の外からまっすぐ自分たちの方に歩いてくる人影に気づいた。
キネゾノ蜂窩全体がわずかな緊張に包まれた。
蜂窩に出入りするビィは住民がほとんどだ。探索者や行商人が訪れることもあるにはあるが、それならば問題ない。
緊張の波は、その人影がもしやビィではなくヴァーミンではないか――という危惧あってのことだった。
ビィの天敵である虫型人間は絶対にビィと相容れることがない。理由は単純で、ヴァーミンはビィのことを餌と見なしているからだ。あえて喰らうことが無かったとしても、単純な嗜虐心を満足させるためだけにいたぶり殺したり強姦したり――生物として根本的に異なっているので子供ができることなど万に一つもないが――とその相性は最悪だ。
ゆえに近づいてくる何者かがヴァーミンであった場合、先制攻撃をして息の根を止める必要がある。そうしなければいけない。和睦は存在しない相手なのだ。
「ああ、ちゃうで。あれビィやんか?」
中年男の横からひょっこり出てきた老婆が、門術で増幅させた視力で人影を見た。
「ほんまか? カシ=イェン蜂窩の者か」
「知らんが。せやけど見たことない格好やな。女やで」
「女?」
キネゾノ蜂窩はにわかに騒がしくなった。それぞれの家事の手が止まり、機関樹にしがみついていたネコゼミさえその騒がしい口を噤んだ。
「お前、ちょう行って確かめて……」
と中年のビィが言いかけたところで変化が起きた。
骨と肉の隙間に空気が入ってくるような巨大な騒音をわめきたてて、黒い塊が熱気の中を飛んでくる。背筋がゾッとするその羽音は蝉のそれだ。ただし音量は桁外れで、羽ばたく勢いも凄まじい。
ビィが膝を丸めてうずくまったほどのサイズが有るそれはまっすぐに女の方へと飛行し、そのまま交錯した。
その様子を見ていたキネゾノのビィたちは色めき立った。女が何者かはわからない。だが女に跳びかかった巨大な蝉が何なのかは全員が理解した。
ヴァーミンだ。
セミ型ヴァーミンに体当りされ、女は吹き飛ばされた。飛行の勢いと羽ばたきの起こす突風は身構えていても耐えられないほどなのに、ほぼ無防備のままだ。
ヴァーミンは素早い動きで女の体にまたがり、長く鋭い口吻を突き出した。小さな蝉が木々にそうするように、女の体液をすするつもりなのだ。
キネゾノ蜂窩のビィたちは大慌てで制止に向かった。誰であれビィである。バケモノに同属が殺されることを黙って見過ごす訳にはいかない。ヴァーミンは全てのビィの敵なのだ。
そのヴァーミンは、女を尻の下に組み敷いて満悦の鳴き声を腹部から唸った。
ヴァーミンは虫の姿をしているが、外骨格の無脊椎動物ではない。ヒトの肉と骨と皮膚を一旦バラバラにして、蝉の姿に組み替えたような構造になっている。
黒丸の複眼があるべき場所には瞳孔と虹彩のある眼球が。
前肢、中肢には毛の生えたヒトの腕が生え、トゲのかわりに短い指がまばらに突き出ている。
後肢には同じように肉の足が逆関節になり、そして腹部の先端からは、ぶくぶくと白いあぶくを吐き出しながらビィと同じ形の性器がぬるりと飛び出していた。
食欲を満たすと同時に性欲をも満足させるつもりだ。
ビィを犯しても子供を孕ますことはできない。だがヴァーミンにそんなことは関係ない。一瞬の快楽を得て、ついでにビィに汚辱を与え、その上で殺せることに悦びを感じる。ただそれだけのことだ。
キネゾノ蜂窩のビィたちは、手にした武器や門術を使おうとした。だが距離がある。巻き添えにする可能性もある。
その隙にヴァーミンはまず女の首筋に口吻を突き刺し、それから六本の手足を使って衣服をずたずたに引き裂き、そして性器全体を腹腔からひり出して強引に股の間に突き立てた。
はずだった。
「え?」
セミヴァーミンの発声器官からマヌケな驚きがもれた。
なくなっていた。
長細い口吻が、服を引き裂いたはずの手が。
股を開かせたはずの脚が。
そしてはちきれそうだったはずの性器が。
「はっ……はちキレたァ!?」
セミヴァーミンは自分の身に何が起こったのかを知った。
すべて無くなっていた。
恐ろしくなめらかな断面で、突起物がまとめて切り落とされていたのだ。
「……いい加減どきなよ、この毒虫野郎」
女の静かな怒りの声にセミヴァーミンは縮こまった。もうそんな器官は残っていなかったが。
セミヴァーミンは何かロープのようなものに絡み取られすっ飛ばされた。切断部からおびただしい体液がこぼれ落ちるが、もはやそれを塞ぐ手足は残っていない。
「あーあ、ちょっと付いてる……」
不機嫌そうに立ち上がり、女はそのままセミのところまで小走りに駆け込んでつま先を叩き込んだ。黒いヒゴロモレザーの内ももに白い濁った体液が残っていたのが許せなかったのだ。
ヴァーミンはとてつもない音量で絶叫し、女をひるませて逃げようとしたがもはやそれは不可能だった。背中に生えていた翅がズタズタに切り刻まれていたからだ。
超硬電磁ワイヤー。
女――ストロースの武器が、すでにヴァーミンから自由を奪っていた。
「もちろん命もね」
ストロースがパチンと指を鳴らすと、セミヴァーミンは頭・胸・腹の3パーツに切り離され、死んだ。ヴァーミンが気づかぬ内にワイヤーが巻き付いていたのだ。
「あんた、大丈夫かいな!?」「強いなあ、ナニモンや?」「どっから来ぃはったん?」
急き込んでやってきたキネゾノ蜂窩のビィを曖昧にいなし、ストロースは手ぬぐいを借りてヴァーミンの汚液を拭った。
「ごめん、聞きたいことはあるんだろうけどさ」
と、そこでストロースはサイバーゴーグルを外して顔をむき出しにした。念入りに日焼け止めを塗りこんだにも関わらず、頬のところに境目ができてしまっている。
「お水もらえる? 喉乾いて死にそう」




