伊達眼鏡にも5分の魂
足元が抜けるような感覚がした。誰かが「あー」などと、やる気のない悲鳴で沈み込んでいく。ズブズブと蟻地獄に吸い込まれる様に窪みが出来て、私も右膝まで一緒に埋まってしまった。
「ちょっと君ねー、修復作業が終わるまでは踏んじゃ駄目でしょー」
「この、糞お巡……」
足を取られながらも必死に姿勢を立て直して睨みつけた先で、私は言葉を失った。目が悪くたって分かることはある。顔や表情が分からないとか、風景がボヤけて同じに見えるとかいうレベルじゃない。そこにいるのが、『ヘドロ』か『人』かくらいは見分けられる。
ヘドロから空気が漏れる。
「何、私が人型ではないのに声が出ていることについて聞きたいという顔かね? まだ声帯が中で融解せず残っているのだよ」
聞いてもいないことを説明された。ヘドロが持ち上がってポコポコと空気を漏らすくぐもった音で喋り続ける。
「目かね? 目は多分何処かに二つとも流れている。君が見えるのは片目だけのようだから、もう一つは融解物の中で沈んでいるのかな」
もしもこのヘドロの中に人がいるなら随分無理のあるポーズが出来たものだ。ヘドロは肌の色? 土の色、なんと表現すればいいのか分からない。赤っぽいような黒っぽいような色合いがマーブルになって流れている。
アーサーが離れる前に怪物除けの結界を実際にかけてくれたはず。仕事で見かけた怪物は霊長類的なコミュニケーションが取れそうな雰囲気まるでなかったし、こいつは怪物の一種ではないということ……いやいやコレ人に在らざる者でしょ。違うでしょ。
「溶けてるって……」
「そりゃあ溶けるさ。じゃないと地球の穴を修復出来ないからね」
「地球……ここが、地球?」
「何故聞くのかね? 君は別の星を移動する宇宙人かい? 外側ならともかく地球の内側に潜り込まれたら気付かないわけないんだけど、ああ、穴から入って来たのか。ちょうど地球の表面が損傷していたものな」
「地球の内側、穴、損傷」
待って、ちょっと待ってよ。何か他人の冤罪証明やってる場合じゃないものに遭遇してる気がするんだけど。ここが地球? 遠い空に大地が見えるこの世界が地球の内側だって? マントル、マグマはどこいった! ニュートンさんは! ここの昼間の太陽の在り処は!?
容積がどんどん無くなって地面に流れていく。あれだ、まだ液状のコンクリートみたいな感じだ。中身が見えてこない。中から人間のパーツがチラ見しない。
「そうか。宇宙へ帰るためにココを襲撃しにきたのだな。いや、いかんよ? たまには損傷して繋がってしまうこともあるけれど、気軽に通られると地球も血を流して地表に地底に大噴火さ。宇宙に帰るのはまた偶然地球が貫通する損傷を受けた時にしてくれたまえ」
何言ってるんだこの人外は。私が宇宙人だって? 勘違いも甚だしい。だけどこれだけは確認しなきゃ。
ここが地球だって? 何万㎞になるのか知らないけど足元には私の故郷があるってことなのか? ここに来た時に私は落下の恐怖を味わうこともなかったってのに私は地底に落っこちていたっての? マジで?
理屈なんて分からなくて怪奇現象に遭遇してて何言ってるのか意味不明で何がなんだか分からないけど、部分的に聞き捨てならないことも言ってる。ヘドロとか地底とか魔法とかとか世界の大いなる謎はどうでもいい。人生では奇跡が起きるチャンスというものに何度も遭遇してて、それは混乱して情報を整理して迷ってる内につかみ損ねる。
「いや偶然とか待てないし。どいてよ、帰るって。急になんなの、帰るって。いや真面目に私帰れるってことだよね? 違うの? いや違うとか言わせないけど」
「駄目駄目、修繕する私達は言葉通り身を削って地球に還らなきゃならないし、地球の生物ってのはマグマが駄目なわけで。そう君は……おっと、目が溶けてしまったか見えなくなってしまった。とにかくね、宇宙の君には関係無いかもしれないけど、せっかく塞いだ穴を開口したらまた別個体でやり直し。諦めて」
ヘドロにつかみかかると柔らかい粘土に手を埋めている感触がする。掌につかめるだけのそれを握って放り棄てる。
「はっ! 知ったことか!!」
両腕をつっこんで必死にヘドロを掻き出す。ヘドロの声が緊迫したものに変わる。
「穴が開いた地域では大災害が起きる。諦めて諦めて諦めて」
地表までどれくらいの距離があるの? 多分聞いても答えない。登るとなるとロッククライミングになるわけ? 来るときと同じ理屈で一瞬だったらいいのに! 戻れるかもしれない。私、ここからなら戻れるかも。友達に、家族にもう一度会える!! 他人を犠牲にして、飛び込んできたチャンスを物にすれば。
他人を、この作戦を放り出してしまえば?
手が止まった。今、自分が何をしに来ていたのかを思い出して一瞬頭が冷えたんだ。
「ね、ねえ、この穴いつ塞がるの? 一度塞がったら掘り返せば貫通するの? もう少しだけでいいから待てない!?」
「ぬー、もう終わるのに。地球の一部地域が危機になる。エマージェンシー」
「話聞いてよ」
「エマー、げ、ぷぅ」
ヘドロから出ていた空気が減って泡が小さくなる。中の声帯が溶けたってことなのか。帰り道を塞がれる。多分これが終わったら帰れない気がする。今すぐこいつをなんとかして、でも、なんで、なんで、なんでよりによってこのタイミング!?
いや、どうせ、私が急に姿を消したって、そもそもこんな運任せの囮捜査の結果なんて失敗に終わるんだから見捨てたってきっと一緒だし。
ガサガサと藪を掻き分ける音がする。抉れた穴に足を取られて藪の中に全身が隠れた私は相手が見えない。恐らくはあっちからも。
「消えた。何処だ? くそ、まさか見失うなんて! 返り血を浴びた顔を見られたあのガキをやっと始末出来たかもしれなかったのに!! 口封じさえ出来ればあの凶悪な男が勝手に犯人として捕まってくれる。俺は借金も消えて綺麗な身になって、ああ、待っててくれメアリー! 結婚出来るぞ!!」
最悪のタイミングかよ! 空気読めよ!! 簡単に餌に食いつきやがって、言い訳封じにくるとか天は私の味方か敵か!?
見つかったらお終いじゃない。ああ、でも溶けていく、塞がれてしまう。帰れなくなる。急にこんな所に来て全て失って、だってこんな奇跡一生無いでしょ!?
このヘドロ、修復がもう終わるって言った。もう時間が無いってのに。
顔が浮かぶ。
「!?」
のっぺらぼうなんか知るもんか! こんな馬鹿馬鹿しい事件で逮捕されたからって死刑になるとは……でもこの世界の警察じゃどんな展開になるか分かったもんじゃない。曲がりなりにも数日行動を共にした相手を見捨てる? 後悔しないわけ? 大災害なんて後で良心の呵責に耐えられないとか思わないか、私。
なんなのさ、なんだってのさ、そんな選択肢急に出してこないでよ!! そんなこと言われたって諦められる? いいの? 本当に? だって急に訳も分からず落とされた異世界から帰れる可能性が落ちてるんだよ?
自己犠牲で誰が感謝してくれるのさ。助けてよ、帰して。家族を諦めるの? でもでもでもでもでも、このままにしておけば、きっと。
『おはよう、ロッカ』
私がどんな極悪非道を振りまいたってのさ。
『まったく君って、これだから嫌いなんだ!!』
選べっての? こんなこと。
『これが俺の顔だ、覚えたか?』
のっぺらぼうじゃない。
本当はもう記憶に刻みついてる。
印象的で、癖の強い、この世界で知った顔が。
「っ……」
顔を上げた。
音が遠ざかっていく。
埋まっていた足を引っこ抜けば靴の中で砂利の感触がする。草を手で音を鳴らしながら払いのけ立ち上がる。
元いた道が見えた。誰もいない。だっているのは背後だ。
やっちゃったよ。絶対後悔するのに。でもさ、どうせ結局どっち選んでも後悔させるんでしょ?
「あーあ、やってらんないよ!」
振り返る。
「私を殺すって? やってみやがれってんだ、裁判いらずの親切な馬鹿め!!」
森の藪の中に立っている男の手に何か握られているのが見えた。無造作に軽く持ち上げられるシルエットがナイフだと分かった。
笑いたい。
「顔を見られたからには生かしておけない。可哀想だけど警察に捕まるわけにはいかないんだ。すまない、本当にすまない」
「いや許さないし。私がつかみかけた希望を打ち砕いたからには、あんたは地獄に道連れ決定だから」
さあ、聞こえたか無能お巡り共。冤罪にかけたことを深く反省して真犯人を逮捕しやがれ!!
「はあ、はあ、成仏してくれ」
ナイフを両手に持って近づいてくる男。その後ろで手足をジタバタさせているシルエットが見える。
「これでやっと終わるんだ」
後退りながら距離をとってるけど詰められる速度の方が早いんだけど、ちょっと……。
「逃げると余計に苦しむことになるんだ。頼むジッとしててくれ」
ちょ、ちょ、お巡り何してんの!? 何、出てくるのに苦戦してんの? そんなとこに入って擬態なんてするからじゃん! マジふざけんな!!
「ちょっと待ってぇ。あ! 後ろにお巡りさんが!!」
「こんな森深くにお巡りさんがいるものか!」
ナイフが頭上に振り上げられた。
……あ、これ。
身を捻って全力で駆け出した。
「ソロで戦えってことかあああ!!」
「わあああああ!」
殺意だ、殺意が湧いてきた、これが殺意か。うおお、こちとら元陸上部だ、捕まえられるものかあ! そーら、どんどん距離が開いてくでしょ。
「って、逃げ切っても駄目じゃないさ。ど、ど、どうにかお巡りの所に引き返して」
「あ」
道の真ん中にしゃがんで作業をしてる怪しい仮面の前を走り抜けてしまい土煙を上げて立ち止まる。
「ユアン! なんでまだこんなとこにいんの? 予定だともっと向こうで作戦失敗時の逃走経路確保やってる手筈でしょうが!」
「ふふん、そんなの昨日夜中の内にこっそりやっておいたさ。これは失敗した時用の合図で……ん? ロッカが逃げてきたってことはもう失敗したってこと? 警察もう来てるのか!?」
逃げてきた私を見て道の向こうを見る。その頃になってようやく鈍足が追いついてきた。
「おのれ、はあはあはあ、逃がさなぁぁぁい」
不気味な動きで男がナイフを構え突進してきてた!
「なん、な、な、な!?」
慌てて立ち上がりオロオロしたユアンは手にしていた何かを取り落として暴発させた。それが高く打ち上がって地味な花火になる。いや、照明弾なのか?
一瞬動きを鈍らせた男が果敢に殺意を向けて一直線で走ってくる。
「一突きにしてやるううう」
「あわわわわ」
「ちっ、興奮し過ぎて盲目になってやがる。お巡りが来るまで鬼ごっこやるしかないか! ユアン、しっかり逃げ」
ユアンが私の前に躍り出て大きく震えながら唸りだしたかと思うと仮面をつかんで、そこまで迫っている男に顔を突きつけて両手を振り上げた。その片手にある仮面が光を照り返す。
「ぐ、ぐ、ぐうわああああああああ!」
勢いこんでいた男の動きが珍妙にぶれる。
「……ひ、ひぎゃああああ!? 化け物だあああああ!!」
勢いよく倒れて体を捻った男は元来た道を転びながら走って逃げ出した! それを横から突き刺すような突風が吹っ飛ばす。風の発生源を見ればアーサーも何故いるし!? 地面に引きずられた男のパニックは加速して足をもつれさせながら這って逃げようとする。突然のドッキリに私以上についていけず非常に無様な姿を晒す。
「なんだ、へぇあ? 一体何が起こって」
その手にまだお守りのように握られていたナイフが無造作な手に取り上げられた。気配もなく木の間から現れたジャックがナイフを見下ろして男の側に立っていた。
「ああ、ああ、あ」
もう言葉もまともに喋れない状態で地べたで震えながらジャックを見上げる男に、ジャックは目を向けた。そしてナイフを舐めて、まるで狂気に満ちた悪党らしい動作で言い放つ。
「覚悟したか?」
ナイフを高くかざしたかと思うと男の顔面の横に深々とナイフを突き刺していた。男が固まったまま動かない。ジャックはナイフから手を離して立ち上がりこちらを向く。痙攣してる男は、あれ? うっわ、あのおっさん漏らしてない?
「作戦、終了」
遅れてお巡りがやってくる。非常に遅い。無能過ぎる。「確保だ!」「全て聞こえたぞ!」「犯人だ!」なんてほざいて騒々しく倒れた男に飛び掛かる。例の捕縛の縄が取り出された。今度は正当な相手を縛るために。
溜息をつく。
「なんで全員近くにいたのさ。駆けつけんの早過ぎなんだけど」
「そりゃ、俺達お巡りさん信用してませんし? 仲間の命を餌にしてるわけで、犯人が襲ってきた場合を想定して駆けつけられる距離に潜んでいますともだ」
私は心の何処かでまだお巡りを信じてしまっていたのか。命預けるとか無謀だったわ。
「ロッカ」
アーサーが腕を組んで見下ろしている。お巡り用の罵詈雑言を思い浮かべながら私も腕を組んで見上げる。相変わらずのっぺらぼうにしか見えないけど。
「何さ?」
「正直な、俺は上手くいくと思ってなかったんだ。失敗してもいいように引っ越しの準備も終わらせてあったし」
「カッコつけて出て行ったくせにやってた手回しソレ?」
「なにせ長年ネガティブやってると安全策とか欲しくなるもんで攻めは年少組に任せようってな。このままバックれられるように旅の準備とか隠れ住めそうな人里離れた隠れ家の目星をつけたりだとか、逃亡生活用の軍資金とか生活品なんかもバッチリそろえてたぞ。森の中に隠してある。やー、ガッツリ準備しちゃったから持って帰るの一苦労だわぁ」
「なにそれ、だったら、私、別に異世界に帰っちゃっても良かったんじゃん」
「帰らずにいてくれてサンキューな」
「…………いーえ、どういたしまして」
ああ、何にも見えないボヤけたこの世界で生きていくことを選択するなんて、私はどうかしちゃってるよ、まったく。
「よくも犯人はノコノコ現れたもんだよ。そもそもロッカが町の外に出るのを四六時中見張ってたわけ? じゃなきゃ町の外に出る情報を仕入れられたのって警察だよね」
透明な天然石を削るユアンの手元を見て横のテーブルに手を叩き付ける。
「ちょっと雑談しないで集中してよ! 凹凸レンズの仕組みってのは光の屈折がなんか像を結んで遠くの物を虚像って形で結ぶから近眼でも近くに見せることが出来るもんなの。光を綺麗に通すために厚さと透明度が大事なんだから、そこんとこ考えてどうにかして。分かった? なんとなくやれそうでしょ?」
「無茶振り魔か! 君の説明で仕組みを察するのは無理がある。大体僕は造るんじゃなくて解体のプロなんだよ。学者やカラクリ士じゃあるまいし、なんとなくのフワッとした説明で存在ごと知らない物を作れるもんか!」
窓際で石を光に当てながらアーサーが材質を検分する。
「そもそも透明の硬い何かって言われても、メガネに使ってる石の種類が分からないんじゃどうにも難しいんじゃないか? 透明で遠くの物を近くに映す性質の石となると、色々と入手して何が適してるか比較してみるしかないなー」
「それ僕に何種類メガネの試作品作れって言ってるの!?」
眼鏡の形に削った枠、伊達眼鏡を顔に当ててみながらジャックが口を挟んだ。
「囮捜査、ちゃんと誘き出すために情報蒔いてたから」
「なんだって、ジャック?」
伊達眼鏡をかけて鏡で顔を確認しながらジャックは答えた。
「ロッカが犯人の顔をしっかり覚えてること、目が悪くて見つけるのが大変なこと、それを解決出来るメガネを森で紛失していること、背水の陣だから一か八かメガネを見つけるために町の外に出ること」
眼鏡を外して別の試作品を手に取ってつけ変える。
「作戦が始まる前に俺、町中に広まるように触れ回った。犯人だったら何をされたら嫌か考えた。運任せにしない方法に何があるか考えて、他にも色々」
「ジャック……」
アーサーが目頭を抑える。
「本当に脳みそ使ってたんだなっ!」
「成長期なの? 成長期に入ったの!?」
騒ぐ男共の横で大きく息をついて私はテーブルに突っ伏す。多分、これが普通って呼べるようになってさ、ついでにそれも幸せって言えるようになる。それでも元の世界が、地表の故郷が恋しくなって悲しくなったりもするんだろう。後悔なんてもうやってる最中だし、もう一度同じ選択させられたら元の世界に帰るかもしれないんだけどさ。
「これならいっかって気持ちも確かにあるわけで」
「なんだ? どうかしたか、ロッカ」
「うん……あのさぁ」
「ここは包囲されたあ!」
良いこと言おうとした瞬間、アーサー宅の扉が乱暴に連打された。
「先日屋敷を襲った犯人を匿っているという通報があったぞ! 今こそ年貢の納め時だ、大人しく出てくるがいいわ! ようやく尻尾を捕まえてやったぞ悪の権化め! もう逃げ場は無いからな!!」
顔を俯かせる。
アーサーが慄いて扉を見る。
「懲りるってこと知らないのかよ」
「この際、移住候補の隠れ家を常時使えるように整備しておくというのはどうだろうか」
私はレンズの入っていない眼鏡をかけた。椅子を蹴り倒して寝床に置いてある得物を取り出し、音を立てながら扉へ向かった。そして開け放ったらあらん限りの声で高らかに叫ぶ。
「無能性悪胸糞マザコンお巡り他数名、あんたらまとめて捜査と証拠と警察のなんたるかを耳が爛れるまで叩き込んでくれるから、そこになおれええええ!!」
巨大ハリセンで目の前にいたサンドバック無能性悪胸糞マザコンお巡りを地面に叩きつけた。
「南無……」
太陽の在り処もまだ分からない地球の内側でハリセンが唸る。




