17、きっといつか
二人を乗せた聖黒竜が着陸したのは、何の変哲もない街道の三叉路の側だった。足を折り曲げ、長い首を地面に伏せる。
「降りろってことかな?」
リリアナが呟くと、少し甲高い声で竜が鳴く。おそらく肯定の意味だろうとリリアナが竜から飛び降りた。
「このままヴレヴォまで連れて行ってくれるのかと思った」
ヴィルも続けて、竜の巨体を頼りに降りていく。
二人が降りたのを見届けたから、聖黒竜が首をもたげて体を起こし翼を広げた。
「ありがとうね」
彼女がかけた声が届いたかわからないまま、ここまで彼らを連れてきた竜は、あっという間に飛翔し去って行った。
しばらく竜を見送った二人が周囲を見渡す。
「帝都……か」
どうやら帝都とヴレヴォに分かれる道に降ろされたようだった。
リリアナはチラリと隣の男を見上げる。
「帝都に……行く?」
「帝都は嫌か?」
巨大な城を中心に広がる都は、まだ半日ほどの遠くにある。それは故郷ヴレヴォも同様だ。
「帝都はダメかな……」
皇女ハナの話通りなら、帝都には称号剥奪の秘技があるらしい。
ずっと懸念していた。ヴィルは魔王の称号を奪うために来たのではないかと。
「そうか……なあリリアナ。お前は、どうしたい?」
帝都を見上げたまま、視線を向けずにヴィルが問い掛ける。
「……まだ女神ヘレア・ヒンメルとの戦いは続くと思う……だから戦う必要がある……」
「何か、譲れないものがあるんだよな?」
「うん」
「なら、行こう」
「……どこに?」
恐る恐る尋ねるリリアナの方を向いて、ヴィルが幼い頃のような朗らかな笑みを浮かべる。
「オレたちの生まれた町、ヴレヴォにさ」
それは、逆らいがたい甘い誘いだった。
「そろそろ時が来たようですね」
金と水色の混ざる髪の女神、マァヤ・マークが微笑んだ。
周囲の土は至るところが大きく抉れ、少し離れたブレスニーク領都の城壁も一部破壊されていた。二柱の女神にとっては小手調べのように軽く争ったに過ぎないが、それでも周囲にとっては甚大な被害となっている。
ただし倒れたままのEAや墜落した飛行船の周囲には、半球形の障壁が張られていた。それはマァヤ・マークの張った障壁のようだ。
『時?』
ヘレア・ヒンメルが眉の一つも動かさずに問う。
「マァヤ・マークは十三世代目にして、その構成する魔力要素に侵入され制御を奪われた。この身は皇女ハナ・リ・メノアの命令に逆らえないのです」
『そう』
「以前、魔素の制御下にあったマァヤ・マークは、レナーテの元の巫女に預言を渡しました。知っていますね?」
『メノア大陸の右手にて、世界の安寧を脅かす者が生まれる。事実、ヴィート・シュタクはヴレヴォの生まれ。レナーテを動かすための予言』
「ええ、そうです。さすが魔素ですね」
金と水色の大地母神の視線が、地面に平伏したままのボウレⅡへと向けられる。
『しかしそれらは全て、レナーテを始め称号持ちたちを操るためのもの』
「こうなってこそ思うのですよ、ヘレア・ヒンメル。実は魔素の多くはすでに、悪魔に浸食されているのではないか、と」
マァヤ・マークが右腕を大きく横に振った。
シャールカたちを包んでいた半球形の魔力障壁が発光し、中にいた人間たちごと消え去った。
『転移……? 今更?』
「長距離は無理ですが、近くに帝国の飛行船が迎えに来ていますので」
『そう。この世界の全てとも言える魔素、その局所的思考活動がための女神が、帝国の手先。悲嘆に暮れる』
「そう嘆く必要などありません。ある意味、私も自由となったのです」
『人の自由など世界の現実の前には、戯れ以上の価値を持たない』
「ではヘレア・ヒンメル。また会いましょう」
『撤退?』
「ええ。予言成就のときですから」
その言葉とともに、女神の姿が陽光に散る霧のように消えた。
残ったのは、天空の主ヘレア・ヒンメルだけ。
緑に光るオーロラの元に、魔素を含んだ風が吹き荒れた。
観測する者なき地で、土埃が消えると同時に、女神の姿が見えなくなっていた。
――私たちは最後の旅を続ける。
リリアナは少し前を歩く幼馴染みの背中を追って歩いていた。
それは幼い頃と同じだ。彼女はいつもヴィルの後ろをついて歩いた。その小さな背中が世界の大半だった。
「どうした? リリアナ? 疲れたか?」
歩きながら肩越しに微笑む彼に対し、かつて少女だった女性は首を横に振る。
「大丈夫だよ、ヴィル」
「そうか。もうちょっと歩けば半分だから、そこで休もう」
今、彼らはヴレヴォに向けて歩いていた。
ここまで来たのなら、もう一つの故郷を見ておきたいというのが、偽りのない彼女の気持ちだった。
整備された街道に人は少ない。東方の混乱が臣民に伝わり、集落や街の外に出ることを控えているせいだった。道を警備するために歩いている左軍の姿もない。
馬車の行き交いができるほどの石畳の上には、彼と彼女の姿しか見えない。
「リリアナ、これからどうする?」
今度は振り向かずに問い掛けてきた。
「……どうする、か」
「ヘレア・ヒンメルと戦うか?」
「……ヴィルは?」
「オレは戦う。その必要がありそうだし、帝国の皇帝と将軍の息子だからな」
自嘲するような響きの言葉を聞いて、リリアナは首を横に振る。
「ねえヴィル」
「何だ?」
「貴方の記憶が戻ったら、私を殺そうとするかな?」
「……お前は?」
「……私は」
この短い旅の中で、何度もお互いに触れ合った。
十歳のヴィルはリリアナに対して昔と変わらず、戻れないと知る彼女の心を大きく揺さぶった。
憎んでいたはずなのに、その心がすでにない。
胸の真ん中に手を触れれば、そこが少し暖かい気がした。
「ねえヴィル」
「ああ」
「私、あなたの大好きなお父さんとお母さんを殺したよ」
「……そうだな」
「知ってたの?」
「町で簡単に聞けるさ」
「そう……」
「許せる?」
「それが本当だとして、許せると思うか?」
「だよね。私だって友達が沢山殺された。ヴィート・シュタクに」
「そうだろうな」
「お互い様とは言わないよ。だからヴィルの記憶が戻っても手を取れるかな?」
「……だけどリリアナ。オレはずっとお前のことを大事だと思ってた」
ヴレヴォに続く道を、二人で歩く。この道は故郷に続いているのだ。
「もし、手を取ることができるなら、私は帝国と同じ側で戦うよ。女神ヘレア・ヒンメルを倒すため」
「そうか……危険だぞ?」
「もし記憶が戻ったとき私の言葉を覚えていたら、許さなくて良い。あの女神を倒すまでの間だけ、同じ方向を向けたら……」
「その後は?」
「……魔王の力がある。女神が消え魔素が希薄化し続けて、その称号にどれだけ意味があるかわからないけど……」
「けど?」
「少しだけ、世界を平和にしたい。もう少しだけ悲劇が減るように」
「少しだけ、か」
「もう少しだけ、世界に枠組みを作って、命がもう少しだけ残るように」
「リリアナらしいな」
「そう?」
「頑固だもんな。そういう理想を抱いたんだろ?」
「……おかしいかな?」
「いいや。それがお前のやりたいことの全部か?」
男の問い掛けに、女は足を止めてしまった。
気づかずに進み続ける背中を見つめ続ける。
ポケットの中に、彼のマスクが残っていたことを思い出した。
「ヴィル」
「ん?」
声をかけられて、男はようやく距離を知った。振り向くと、幼馴染みが泣きそうな笑みで、黒い仮面を差し出していた。
「これ、返すよ。あなたには必要だと思うから」
「……ヴィート・シュタクのマスクか。母さんが好きそうな形だよな」
少し歩いて戻り、返された持ち物を手に取って鼻で笑った後、懐に収める。
「もう少しでヴレヴォ、だね」
空になった手を握り、幼馴染みは幼馴染みを見上げる。
黒い髪、黒い目、精悍な顔つき、大きくなった体。
「リリアナ」
成長した彼が手の平を差し出した。
「ヴィル?」
「色々あったな」
「……そう、だね」
「行こうか」
「うん」
リリアナ・アーデルハイトの手が置かれると、男は軽く握ったまま、離さぬようにと強く握り直した。
今度は手を繋いで歩き出す。
それもまた、幼い頃と変わらない動作だった。
空に浮かぶ飛行船カノーの格納庫内で、シュタク特務小隊の面々が寝かされていた。白衣の聖女が駆け寄って治癒魔法をかけていく。
「……ここは?」
一番最初に目を覚ましたのは、ミレナ・ビーノヴァーだった。頭を振りながら少し呆けた顔で周囲を見回す。
「領都から少し離れた場所よ」
「領都……はっ!? ヴィル様は! 女神はどうなった!?」
「ちょっと落ち着いて。ヴィルは無事よ」
「良かった……」
ホッと胸を撫で下ろす赤髪の少佐の横で、シャールカが聖女に向け片目を細める。
「どういうことですか? オラーフ女史。貴方は何を知ってるというのです?」
ミレナを押し退けるように、聖女エディッタに詰め寄るが、相手はヤレヤレと肩を竦めてため息を吐いた。
「この作戦の全容を知ってるのは、発案者のハナ殿下、皇太子ザハリアーシュ殿下、私、そしてそこのエーステレンだけよ」
「エーステレン?」
聖騎士と剣聖が背後を振り向けば、竜騎士が悲しげに首を横に振っていた。
「残念ながら、私も知り及んでいる。運び手として重要な役割を担っていたからだ」
「では聞きましょうか、エーステレン。これから何が起こるのか、なぜ私とビーノヴァー少佐は知らされていなかったか」
「シャールカ殿とビーノヴァー少佐が知れば、作戦に反対したからだ」
自らを抱き締めるように腕を組んだエリシュカの言葉に、ミレナとシャールカが顔を見合わせる。
「まさか、大佐の記憶が失われていたのも作戦というの!? バカげてる!」
「どういうことですか? そこまでして何をしようと」
二人の詰問に、エリシュカは彼女たちの向こうにいるオラーフへと助けを求める。しかし、白衣を着た技術員が素知らぬ顔でポケットに手を入れるだけだ。
諦めた竜騎士は、二人の顔を見比べた後、ゆっくりと口を開く。
「大佐は、リリアナの処遇に関して、ハナ殿下と取引をした」
「取引?」
「ハナ殿下の作戦に乗る。代わりに、本来なら公開処刑とするリリアナと、自らの手で決着をつけるために」
「それで殿下の作戦とは何なのです?」
シャールカが少し苛立ったように再度問い掛けた。
「もちろん、リリアナから全てを引き剥がすためだ」
淡々と答えるように自らを戒めながら、エーステレンは腕を抱いたまま口を動かし続ける。
そんな彼女の回答に怒髪天を突いたミレナが、さらにエーステレンに詰め寄った。許可さえあれば、竜騎士をくびり殺してしまう勢いだ。
「引き剥がす? 称号をか!? ならば帝都に女神の転移で直接、送り込めば良いではないか! あそこには束縛術式と」
そんな怒れるミレナの言葉を遮って、エーステレンが上官の襟首を掴む。抑えていた感情が漏れたかのような、苦しげな怒りの発露だった。
「それで本当に魔王を拘束できるのか!? リリアナは無詠唱で魔法を使える。そして生身でも並のEAより強い! 我々が転移後、時間差なく拘束術式を発動できなければ、それで全てがご破算だ!」
荒い息を吐くエーステレンに驚いたミレナが言葉を失う。
この竜騎士は帝国につくと決めてから、上官に逆らったことはない。真竜国の民を救うためもあって、大佐はおろかミレナにすら従順だった。
当の本人も落ち着いたのか、ゆっくりとミレナの軍服から指を離していく。
「……申し訳ない」
「……それで? 目的は?」
乱れた軍服を正してから、ミレナが目を細めると、エリシュカは小さな声で、
「そこは以前より変わらない。我々は魔王を手に入れる。それだけだ」
と懺悔するような雰囲気で答えたのだった。
街道を歩き続けたヴィルとリリアナは、ヴレヴォの町の前に立っていた。
「これが……ヴレヴォ」
彼女の記憶と全く違う姿だった。
以前のヴレヴォは帝都の側ということで、小さな宿場町から次第に発達した街だった。しかし今は十年も経っていない城壁と建物で構成された、帝国の威信を表すような先進都市だ。
リリアナはヴィルに連れられ、門番の間を通り抜ける。
「……さあ、行こうぜ」
大通りに多くの男や女が生活していた。
洒落た衣服の店や、見た目も美しい飲み物の屋台が並ぶ。子供の姿が見えないのは、こういう状況下ゆえだろう。
「変わっちゃったんだね……」
彼女が覚えていたのは、もっと雑多な構成の都市である。道もこれほど広くはなく、馬車が行き違うときは歩道にはみ出すぐらいだった。
「そうだな……」
ようやく帰ってきた故郷には、面影はない。
ずっと帰りたかった場所。
だけど、どうだろうか。
帰りたかったのは結局、しっかりと握った手の先に見える男の背中の近くだったんだろう。
――思えば、長い旅だった。
勇者の称号を得たのは八歳のときだ。
そこから真竜国へと連れて行かれ、今では二十歳を超えていた。
長い時が経った。
かといって、成長した幼馴染みたちの姿を見ることはできないのだ。
周囲を見回しながら、ヴィルに引っ張られ歩いて行く。
美しい町並みに、リリアナの思い出はない。
レナーテの命令に従い、破壊された町。人口の大半が殺された悲劇の町ヴレヴォ。
二年の占領下の間に荒廃し、帝国が取り戻したときには、瓦礫の山があちこちに積み重なった古い遺跡のように変わってしまっていた。
歩道の横に看板があり、矢印が描かれていた。ヴィルとリリアナが立ち止まり、腰をかがめて目を通す。
「そろそろ町の中心みたいだな……慰霊碑があるそうだ」
道の先に見える場所は開けた広場のようであり、遠目に見える中心には、大理石の石版が佇んでいた。
建物どころか、道の場所さえ変わってしまった街。
リリアナは、面影のない中に思い出を探そうとして、断念した。
この新生ヴレヴォはこの皇帝の勅令により、帝国最先端の都市として建て直されたのだからだ。
――そう、ヴレヴォは建て直された町なのだ。
誰かの設計の元に、帝都と同じように。否、千年前の城よりさらに進んだ魔法刻印を、街路の下へと刻んだ最新鋭の術式都市と。
魔王リリアナ・アーデルハイトは知らず、その町の中心に足を踏み入れた。
――不意に地面が閃光を放つ。
「え?」
彼女の足が進まなくなる。足元から発光する糸のようなものが飛び出して、地面に縫い止めるように拘束したからだ。
戸惑ううちに、それらは即座に数を増やしていく。
すぐに手も動かせない状態になった。魔法を発動しようにも、魔力の流れすら制御できない。
こうして、何が自分に起きているのかもわからないうちに、彼女は完全に拘束された。
円形の広場の中央から、魔力の線が放射状に延びている。それがEAに施されている魔法刻印を巨大化したものであると理解したときには、すでに遅かった。
その中心には膝を着いた黒いEAが胴を空け、男の帰還を待っていた。
ヴィルの手が離れる。
リリアナの手から、男は離れていった。
ユル氏族の王女であるソナリ・ラニは、帝城アダルハイトの図書室で頬杖をつきながらページを開く。
内容に興味はなく、パラパラとめくる度に香る紙の匂いを嗅いでいるだけだ。
――剣聖、その希望潰えしとき、剣の王となり、幾千の刃を振り回す。
賢者、その夢裏切りしとき、魔導の王となり、魔の深淵を解き放つ。
射手、その野望叶わぬとき、呪いの王となり、遠きを超えて此方を破壊する。
聖女、その志折れしとき、腐敗の王となり、死をも恐れる同胞を率いて滅ぼす。
本の内容を諳んじているわけでもなく、自身の記憶に残る記録を思い出していた。
今より現れるものは、果たして魔王と呼べるのか。
決まっている。それ自体が称号を持つわけではなくとも決まっている。
魔素と魔力を操るという能力を持つなら、それは間違いなく新たな形の魔王だろう。
名付けるなら、
「鎧の魔王」
そう呼ぶべきものの誕生に違いない。
星辰巡り世界の記録を覗き見るユル氏族の王女が認めるなら、新たな時代の幕開けに相応しい出来事になるだろう。
「それが裏切りであれ、なんであれってね」
「おかえりなさいませ、シュタク大佐」
軍服の皇女ハナが黒い鎧の側で頭を下げる。
「お前の我が儘は叶えた」
「では、後はお兄様のお好きなように」
男はポケットの中から一つのマスクを取り出し、目元を隠す。EA『テンペストⅡ・ディアブロ』の膝へ足をかけた。
チラリと背中越しに、何もできなくなった幼馴染みの姿を見つめる。
しかしそれも一瞬。
内部へ滑り込んで胴を閉じ、兜が背中から前へと落ちる。
動き出した悪魔が、空中で固定されたように動けないリリアナと向かい合った。
「リリアナの拘束に成功した。これより、称号剥奪術式に移る」
右腕を横に大きく振り、ヴィート・シュタクが高らかに宣言をした。
町の中心の広場を囲うように、円形の光が走って行く。
上空から見下ろせば、広場に称号持ちたちの姿が散らばっていた。女神により転移させられ、ヴィルとリリアナが徒歩で向かう間に準備を終えていたのだ。
空には鎧をつけた黒竜が舞い、大きな円柱が空へと伸びていく。
外套をまとって顔を隠した聖女が、胸元で印を組み替え、魔法を編み続ける。複雑な魔法陣をいくつも生み出す様は、世界の理を解きほぐすかのようだった。
そんな中、指一つ動かせなくなった魔王が、近づいてきた黒いEAを見上げた。
目の端に涙をわずかに溜めた彼女は、何も言えないでいる。
「オレは、復讐に生きてきた。アイツらを殺した奴らが生きていることが許せなかった」
ヴィート・シュタクの歩んだ道というのは、端的に言えばそういうことだ。
「リリアナ、お前は相変わらず優しく、少し頑固で、どこにでもいる町娘のように暖かくて、良いヤツだと再確認した。だが、やはり許せなかった。この胸の奥にある汚泥がお前を消し去れと仄めかす。それに理性は抗うことなく従った」
幼馴染みの頭文字からDiabloと名付けられたEAが、一番年下のリリアナへと手をかざした。
聖女がどこかで魔法を完成させる。すなわち、称号剥奪の秘技『メノア新式魔法刻印術式召喚・デルトヘドロン』が執行されたのだ。
周囲は赤黒く明滅し、まるで世界が血に塗れたかのようだ。
「くっ、うっ、アアアアア!! ああああぎ……!!!」
その中心で、リリアナは悲鳴を上げる。
全身の血液を吸い上げられるような痛みは、力の根幹が引き剥がされているせいだった。
やがて術式で固定されたリリアナの胸から、捻れた双角錐状の物体が光を発しながら出現する。
それは空中を音もなく浮遊し、黒いEAの元へと辿り着いた。ゆっくりと、その胸の中央に吸い込まれていく。
魔王は悪魔の中へと消えた。
こうしてリリアナ・アーデルハイトは称号を失い、ただの女性へと戻ったのである。
しかし男はこう唱えた。
「新たな魔王、鎧の魔王の誕生だ」
その名は、物言わぬ兵器が引き継いでいく。
悪魔の石を中心とし、聖龍と魔弓の射手の力を持ち、今は魔王の称号さえ吸収した。
万の単位の魔物を滅ぼし、一撃で都市を丸ごと海へと変える。その上で魔素や魔力を操る能力を得たのだ。
女神さえ殺す。
魔素さえ滅ぼす。
つまり、かつてレナーテ神殿の巫女が得た予言の通りになった。
――世界の安寧を脅かす者が、ヴレヴォより生まれる、という言葉通りに。
刻印の光が消えたヴレヴォの中心で、崩れ墜ちたリリアナが、顔を上げてEAを見上げた。
「どう……して……」
呆然とした表情で、唇を震わせていた。
彼女は今、悔しいのか苦しいのか、虚脱感に囚われているのが体なのか心なのか、何も判断できなかった。
ただ思ったことを問うていくしかできない。
「お前の希望を全て奪い、最後には存在をこの地上から消し去ると決めていたからだ」
「……記憶を失っていたのは」
「ラウティオラに施した洗脳の魔法と同種だな。オレのは、記憶を思い出せないように洗脳されていたんだよ。マァヤ・マークによって解かれたがな」
思えば、水と金の女神が放った魔法の後、ヴィルは頭を抑えていた。記憶が戻ったのは、そのときだったのだろう。
「騙し……てた……?」
「お前の処刑に際し、ハナから作戦提案があった。自殺すら容易な魔王から確実に称号を奪う、という作戦だ。お前をここに連れてくるための人材は、もはや『ヴィル』しかおらんからな。趣味が悪いと思うが」
悪魔のEAの向こうに、皇女ハナの姿が見えた。
哀れむような顔すら見せない。ただ目を僅かに細め口の両端をわずかに吊り上げているだけの人形のような表情だ。
「全部……この旅は仕組まれていたと」
「ヘレア・ヒンメルの邪魔以外は」
「そ……んな……どうして……」
先ほどまであった力が何も感じられない。
魔法を唱えようにも、魔力が走らない。彼女の力は、称号より得た力を操ることに特化していたがゆえに、何もできなくなった。
「魔王を奪うだけなら他にも手段があった」
鎧の中から、男は言葉を紡ぎ続ける。
「これは復讐だ。親を殺された子が、相手の全てを奪うという、復讐の形だ」
「……ヴィル」
「望んだだろう?」
「え?」
男が問い掛ければ、女は目を瞬かせた。
「戦うことを望んだ。だから戦う術を奪った。共にありたいと願った。その希望は潰えた。もう少しだけ平和な世界を祈った。それはオレの帰還により存在しえなくなった。お前の願い、望み、希望、未来、そういうもの全てを断った。もう、お前には何もない」
噛み砕きわかりやすく、自分が何をされたかを教えてくれる。
最後の言葉が、残酷なまでに胸へと落ちた。まるで失った称号の代わりのように収まったのだ。
「……私を殺すの?」
「理論上は問題なかった。帝都の古いタイプと違い、ヴレヴォの新型刻印なら大丈夫だったようだ」
悪魔の鎧が右の手の平を空へと向けた。そこに黒い魔剣が呼び出される。この地上から全てを消し去る、傍若無人たる力だ。
「もう戦わなくて良い」
これから戦おうと思った人間に対する拒絶だ。
「もう何もできない」
力を失った彼女に突きつけた事実である。
「ヴィル……」
何を言いたいのか、それすらもわからないほどに頭が真っ白になっていた。
それでも男の名前を叫ぶ意味がある気がしていた。
「さあリリアナ。最後に、この世界から……消え失せろ」
彼女が先ほどまで抱いていた決意、ここまでの戦い。
辿り着いた小さな理想。
抱いた僅かな希望。
何もかもが夢の彼方へ消えた。
心さえ抜けていそうな、虚無を見つめるような顔だ。
言い換えるならば、絶望とも呼べるかもしれない。
「もう戦わなくて良いんだ」
何もかもが失われた。
小さな理想を叶える力も、憎しみも。
悪魔が進み始めた。
何の力も持たない人間となった彼女に、EAの攻撃を避ける術はない。黒い足が石畳の上に強く踏み込む。
――さようなら。
振り下ろされた魔剣が、リリアナ・アーデルハイトの左肩へと直撃した。
何もかもを失った人間が、少しだけ悲しげに彼を見上げていた。
黒い渦が生み出され、空間が捻れる。そこに吸い込まれるように、彼女もまた歪んで捻れていった。
低い不気味な音とともに、魔剣の効果も終わる。
最後に刀身が霧散し、魔素となって鎧の中へと吸い込まれていった。
静寂が周囲を包む。こうして、最後まで憎むことができなかった彼女は、地上より消え去った。
鎧の魔王が、リリアナの消えた虚空をじっと見つめ続ける。
■■■
私には、大好きな幼馴染みがいた。ヴィルって言う名前の男の子。
黒い髪と黒い目で、いつも私の手を引っ張ってくれた、優しい優しい男の子。
前をしっかりと見て歩くくせに、私のことが心配なのか、時折チラチラと背後を見る。ずっとヴィルの背中を見て歩いていれば幸せだった。
私が泣けば慰めてくれる。褒めたら少し照れくさそうにしながら、冗談めかして自慢する。
そんな彼を見てるだけで楽しかった。
だけど運命は残酷で、訳あって私は彼と離れることになった。
とても寂しかった。
ずっと会いたいと思って生きてた。
ある日、故郷が破壊された。
私は知らなかったけど、彼は他の幼馴染みたちの手によって生き延びることができたそうだ。
それから彼は復讐に身を投じる。
称号なんて縁の無いただの人の身で、帝国の兵器を十全に扱い、数多の強敵を倒してきた。
二つの国を滅ぼした彼と、私は正体を知らずに再会した。
――ねえヴィル、知ってる? あなたと十年ぶりに再会したとき、私がどれだけ嬉しかったか。
私が思わず抱きついちゃうぐらいだよ? 本当に嬉しかったんだからね。その気持ちだけは、嘘じゃないよ。
だから、最後まで私を騙した貴方へ。
強いてお礼を言うなら、一番会いたかった、あのときの貴方に触れさせてくれたことだけは。
ありがとう。
■■■
――かつて、ブラニスラフという少年がいた。
いつも笑っていた。
彼につられて、みんなも笑った。
……この先に、誰の笑みがあるというんだ。
自問自答し、瞼を閉じて暗闇へと思いを馳せる。
父さん、母さん。終わったよ。ようやく、貴方たちの恨みを晴らせた。
ドゥシャン、イゴル、アレンカ、ブラニスラフ、リベェナ、オティーリエ……終わってしまったよ。誰も彼もいなくなったんだ。
「シュタク大佐」
声をかけられ、現実へと意識を引き戻された。
周囲を見回せば、女神により転移された剣聖に聖騎士、賢者と竜騎士が立っている。その横には白衣を着たハーフエルフの聖女もいた。
笑みを浮かべ近づいてくるは、全ての策謀を司る義妹ハナだ。
「旅はいかがでしたか? 大佐?」
「最悪だった」
「あら、それは残念でしたわ」
色々なことがあった。洗脳は思い出せなくなっていただけだ。今となっては、最後の旅の全てもまた、オレの記憶の中にある。
「女神ヘレア・ヒンメルは、魔素の支配する世界こそが本来のあり方だと言っていた。東の狂騒こそが、本来の現実そのものだと」
「世迷い言を」
全ての人間に称号を与え役割を演じさせる。
これが大陸全土を覆えば、帝国など簡単にひっくり返るだろう。何せ、その辺の農民に皇帝と号し、皇太子に農民と名するだけで、革命の発端となる。
変えさせはしない。我ら帝国の千年は軽くはない。
「これからは人の手で全てを行う。悲しみも怒りも謀略も悪意も、全て人の手で。何者にも操らせない人間だけの悪意と善意の世界だ。そうならば、まだ救いはあろうというもの」
「愛しい幻想ですわね」
ほぅとハナが頬に手を当て、艶めいたため息を零す。
故郷の空を見上げた。
「なら、そう名付けて始めようか。ハナ、これより次の作戦へ移行する。魔素を操り魔力を吸い上げる。目的はもちろん、東のヘレア・ヒンメルの殲滅と現在の魔素の破棄だ」
やることなど決まっている。
十年以上前にもなる。ここでみんなが息絶えた。殺されたのだ。
聖龍や女神という、クソにもならない人外どもに操られた馬鹿みたいな狂乱の中で、大事な人々が殺された。
ならば、復讐だ。お前らというものを全て否定してやる。
魔素などというものが世界に存在する限り、オレは心の底から笑えたりはしない。この心の奥底にある汚泥が、どろりと蠢くだけだ。
そのために、魔王の力を手に入れたのだから、やらねばならない。
「では、大佐」
「ああ」
小さく深呼吸をし、部下たちに号令を飛ばす。
「これより大反攻作戦『鎧の魔王の幻想』を開始する」
次章、最終章
あと二日後に断章を投稿して、今章は終わります




