第39話 神の導き
八月八日の土曜日。この日、時也は非番だが滝野の件で居ても立っても居られず、仕事用のスーツを纏って県警本部へ向かった。公安課室で内勤をしていた内海巡査部長が、時也を一目見るなり椅子から立ち上がる。
「新宮部長。滝野さんはまだ……?」
後輩の言葉に、小さく首を縦に振る。東海林警部のデスクにちらと視線を遣るが、机上に一切の書類がないところを見るにまだ出勤前なのかもしれない。
「実は、つい数分前に落合部長もここに来られたんです」
「落合部長が?」
長身のパーマ頭を探して室内を見渡すが、その姿はどこにもない。内海によれば、ほんの一瞬だけ顔を出してすぐどこかへ行ってしまったようだ。
「多分、滝野さんを心配して……新宮部長、今日は非番ですよね」
「ああ。落合部長もだろ?」
「考えることは皆同じ、ですね。私も昨日から仕事が手に付かなくて」
内海の机上では、佐野渉の母校である高校の同窓会名簿が開かれたままだ。佐野と同学年の卒業生に片っ端から連絡を取り続け、その作業もようやく残り一クラスまで漕ぎ着けたらしい。
「昨日から滝野の行き先をずっと考えていたが、全く検討がつかないんだ。そもそも、あいつは重要な任務を何も告げずにほっぽり出すような性格じゃない」
「わかっています。皆さん、それは同じ思いですよ」
人の少ない公安一課室をぐるりと見回す内海。その横顔には不安と恐怖の色が見て取れた。
「彼は優秀な警察官です。万が一の可能性で事件に遭遇していたとしても、彼ならきっと対処できる」
きっぱりと告げるが、その声は微かに震えていた。気の利いた言葉も浮かばず、「そうだな」としか返せない自分の不甲斐なさを痛感する。
「あ、そういえば一時間ほど前に田端係長から電話がありましたよ」
「係長から? 佐野みづほの事件か」
佐野渉の実母であるみづほが北の大地で殺害されてから、一週間が経過した。東海林警部から聞き齧った話では、同棲相手と思しき男の消息は杳として知れず、またほかに有力な容疑者も挙がっておらず捜査は早くも暗礁に乗り上げかけているようだ。
「事件を担当している所轄の刑事から得た情報で、佐野みづほの隣室に住む住人がベランダで奇妙な言葉を聞いたとか」
「奇妙な言葉?」
「その隣人がベランダで洗濯物を干していたとき、佐野みづほの部屋のベランダで何者かがぶつぶつと独り言を呟いていたらしいです。隣室のベランダとの間には非常時用の簡易的な仕切が設置されていますが、ごく薄いものなので隣のベランダの声が聞こえることもあるそうです」
「独り言の主は、佐野みづほか」
「いえ。それが声の低さからしてどうやら男のようで……隣人によれば、男の声は『ハレルヤ、ハレルヤ』と何度も口にしていたのだそうです」
「ハレルヤって、讃美歌でよく使われるあのハレルヤか」
ヘブライ語のハレルヤは直訳すると「神を讃美せよ」の意味で、この神とは聖書における唯一神、万物の創造者であるヤハウェを示しているという説が一般的だ。
「おそらく。隣人は佐野みづほと挨拶を交わす程度に交流があり、一度だけ同棲相手と思しき男も見たと証言しています」
「その男が、ベランダで『ハレルヤ、ハレルヤ』と唱えていた男と同一人物だと」
「確証はないようですが、隣人はそう主張しているみたいですね。同棲相手らしい男は屈強な体格で彫りの深い顔立ちをしていて、見た目は外国人のようだったと」
「男がキリスト信者なら、神への讃美を唱えても不思議ではないが」
時也の言葉に、内海は不意に顔を上げる。
「もしかして、男は聖書の文言を読誦していたのではないでしょうか。それが毎朝の彼の習慣だったとすれば」
「聖書、か。そういえば、佐野みづほの部屋にはマリア像の置物が飾られていたと係長も話していたな——」
時也は自身のデスクに近づくと、机上に立てていた『新約聖書』の文庫本を手に取りパラリと頁を捲る。
「いつの間にそんなものを」
「つい数日前に近所の書店でな。佐野渉の近辺には、どうにも宗教臭い何かが関わっている気がしてならないんだ」
「新興宗教の類ですか」
「判らない。いっそ、神でも何でもいいから事件を真相へと導いてくれたらな」
ぼやきながら、時也の指はある頁で動きを止めた。『新約聖書』の最終章、『ヨハネの黙示録』の終わりかけの場面だ。
「内海、ここ」
時也の手元を覗き込む後輩。開かれた頁には、
*(注)
「ハレルヤ。
大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」
そこで、二十四人の長老と四つの生き物とはひれ伏して、玉座に座っておられる神を礼拝して言った。
「アーメン、ハレルヤ。」
と記されていた。
「隣人が聞いたのは、この台詞だったのでしょうか」
内海の囁きに、時也は「憶測の域を出ないが」と断りを入れる。
「もし隣人の証言が正しければ、男が聖書の一節を唱えていたという内海の仮説は有力だな」
そこまで言ってから、時也はハッと顔を上げると文庫本をデクスの机上に伏せて業務用のノートパソコンを開いた。業務用とは言いながらも、事件関係の記録や重要データへのアクセスは情報技術推進室のパソコンからしかできない。専ら、報告書の作成や電子メール、インターネット検索に使うのだ。
時也はネットから地図検索のページを開くと、検索窓に「ヨハネ 教会」の単語を打ち込む。
「教会? どうして教会を探すのですか」
「一種の賭けだよ……あった、一件だけヒットしたぞ」
画面に表示されたのは、中木市にある〈中木聖ヨハネ教会〉。県警本部からは車で三十分強といった距離だ。民家を改装した小ぢんまりとした教会だが、その歴史は古く明治時代まで遡ると口コミのコメントに書かれている。
「ここに事件の手がかりが?」
「刑事の勘なんてもので動きたくはないが、今は藁にも縋る思いだ」
パソコンを閉じ、聖書片手に慌ただしく公安課室を出る。廊下を足早に進んで階段に差しかかったとき、背後から近づく軽やかな足音を聞き無意識に口角が持ち上がった。
「この方が、ここにですか……さあ、残念ながら見覚えがありませんね」
修道服を身に纏った女性は、眉根を寄せながら手元の写真に見入っている。その写真の人物が滝野悠士公安一課巡査であることは言うまでもない。
「こんなに綺麗なお顔立ちの方がいらしたら、記憶に残ると思いますが」
「そうですか。ありがとうございます」
女性から写真を受け取り、時也は胸の裡で嘆息する。今度は隣に立つ内海が、ジャケットの内ポケットから新たな写真を取り出した。
「では、こちらの男性を見かけたことは?」
佐野渉の運転免許証の写真だ。顔の形は面長に近いが、四角い顎や力強い目つきが精悍な印象を与える。
「さあ、こちらの方もお見かけしておりませんね」
静かに首を振って、内海に写真を返す。彼女もまた残念そうな表情を一瞬だけ浮かべた後、「ありがとうございます」と丁寧に礼を述べた。
「ところで、中木市内には教会がいくつか存在するのですか」
スマートフォンの地図アプリで検索した限りでは、新興宗教の支部も含めて二十以上の建物がヒットしていた。
「カトリック、プロテスタントの教派の区別をつけなければ十以上は確実に存在します」
「こちらの教会は、カトリックですか」
時也の質問に、女性は「プロテスタントですよ」と微笑み返す。
「プロテスタントでは、ミサにあたる行いを礼拝と呼びます。毎週日曜日にするものという意味では同じですが……」
説明しながら、入り口の掲示板を指で示す。ガラス板の中に掲示された紙は剥がれかけているが、たしかに〈今週の礼拝のお知らせ〉と文字が印刷されている。
「礼拝では、最初に皆さんで讃美歌を歌います。それから牧師様が神に祈りの言葉を捧げ、聖書についてのお話をします。礼拝の最後には、出席者の皆さんで様々なイベントも実施しているんですよ。バザーを開いたり、クリスマスやイースターの季節にはパーティーをしたり。あなた方は、礼拝に参加されたことはありまして?」
時也と内海は「いえ」と曖昧な笑みを浮かべる。穏やかながらもお喋り好きらしい修道女は、
「機会がありましたら、近くの教会へ足を運んでみてください。『クリスチャンでもないのに礼拝に参加するのはちょっと』と遠慮される方もいらっしゃいますけど、神様はどんな方の参加も歓迎しております。神様の言葉に耳を傾けることで、胸の蟠りやつっかえが取れて晴れやかな気持ちになったという方も大勢いらっしゃいますから」
「ぜひ検討させていただきます……ところで、中木市内でほかに〈ヨハネ〉と名前に付く教会はありませんか」
やや強引に話の舵を切った時也。女性は少し考え込むように首を捻っていたが、
「さあ。私も、市内すべての教会を把握している訳ではありませんので。取り壊されたり無人になってしまったりしたところもありますし」
「その、無人になっている教会を教えていただけませんか。あなたが知っている限りで構いません」
手帳を取り出し、空白の頁にボールペンを添えて女性に差し出す。修道女は「そうですねえ」と呟きながら、小さく丸っこい字で三つの教会の名前をそこに書き込んだ。
「私が知っているのは、これくらいでしょうか。ほかにもあるかもしれませんが」
「これで充分です。大変参考になるお話でした、ありがとうございます」
深々と一礼した時也と内海に、女性はにっこりと笑いかけた。
「またいつでもお越しくださいね。神様も私たちも、あなた方を歓迎いたしますわ」
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*(注)引用元
『聖書 新共同訳 — 新約聖書』日本聖書教会 / 2013 / 475p より




