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第26話 遺志を継ぐ者


 田端警部補が北淮道で捜査に奔走している頃。金澤氏の警護を終えた時也は、県警本部で雑務を片付けてから足立興信所を訪ねた。すっかり顔馴染みになった受付嬢と挨拶を交わし、パーテーションの隙間から客室に滑り込む。水色にボーダー柄のシャツを着た足立衛が、一人用ソファに深々と腰掛けてアイスティーを啜っていた。

「優雅なティータイムだな。どこぞの貴族かと思ったよ」

「仕事に追われる日々だからこそ、束の間の休息が大事なのさ。君も仕事ばかりに熱中すると、不意にスイッチが切れて動けなくなってしまうよ」

「親切なアドバイスをどうも……それで、アーステクノロジー研究所について何か収穫はあったか」

 雑談もそこそこに本題を切り出す。公家顔の男は大理石のテーブルに置かれているタブレットを顎で示すと、

「調査は可能な限り迅速に済ませたよ。君の期待する結果かは定かではないけれど」

 時也は短く頷いてソファに身を預ける。涼しげな白のワンピースを纏った受付嬢がアイスティーを音もなく運んできた。「いつもありがとう」と礼を述べながら、先にタブレットへと手を伸ばす。画面を次々とスライドさせながら、胸の裡の本音がつい口から溢れ出た。

「俺の勘が外れていたのか、あるいは余程上手く尻尾を隠しているのか」

 足立の調査報告によれば、アーステクノロジー研究所は十年前に県内で設立された建設コンサルタント会社で、これまでの事業歴は至極真っ当なものだった。K県を中心に自治体や民間企業から依頼を受け、工事計画の策定や地盤調査などを行っている。主任責任者の葛西文明をはじめ元大学関係者や研究員が多く雇われ、専門性と技術力の高さに定評があるようだ。会社の規模としては中堅どころだが経営は堅実そのもので、暴力団等の反社会的勢力との繋がりも皆無。この二、三年は海外での事業展開計画も進められており、特にタイやベトナムなど東南アジアへの進出に意欲を見せている。

 主任研究員の葛西文明に関する調査結果も報告されている。出身は東北地方のI県だが、転勤族で国内各地を転々と移り住んでいた。就職を機に拠点を関東に構え、K県在住は十二年目に突入する。アーステクノロジー研究所は二番目の就職先で、会社設立時のオープニング職員として採用されたようだ。結婚歴はなく、両親は彼が小学生のときに事故死している。

「この、両親の事故死とは?」

「彼の父親は海洋学者で、主に海底の地質調査や海の生態系に関する研究をしていたらしい。事故っていうのは、両親そろって海洋調査に赴いたとき起きたものだ。二人が乗っていた船と別の船が海上で正面衝突。救助が間に合って助かった者もいたようだけれど、彼の両親を含めて数名の死者が出たみたいだね」

「母親も学者だったのか」

「いや、彼女は夫に付き添っていただけだよ。葛西家では珍しいことじゃないらしく、両親が出張のときは祖父母宅に預けられていたとか」

「不運な事故、か。葛西文明は、父親と似た道を歩んでいるんだな」

「研究者という意味ではそうだね」

「なるほど……しかし、意外だな」

 アイスティーをゆっくりと飲み干してから、足立は「何が」と首を傾げる。

「葛西文明が環境保護団体で活動していた事実だよ。環境保護を世間に訴える度に、亡き父の面影や記憶が蘇りそうじゃないか」

 葛西が初めて環境保護団体に加入したのは、大学在学時だ。そこから十年間、複数の団体で加入と脱退を繰り返している。

「むしろ逆じゃないのか? 父親が愛した地球を守りたくて保護活動に傾倒した。親の遺志を子どもが継ぐなんてよくある話だ。()()()()似たようなものだろ」

 旧友の言葉に、自分でもわかるほど思い切り顔を顰める。そのまま画面に目を落とし、

「活動から手を引いたのが六年前か。所属していた団体もとっくの昔に消滅しているようだし、調べるのは骨が折れそうだ」

 葛西が過去に在籍していた環境保護団体は、いずれの規模も決して大きいものではなかった。最盛期に参加していたメンバーも二十名ほどに留まり、国内の限られた範囲で地道に活動していたようだ。最後に属していた団体では幹部の役目を担っていたようだが、そこもわずか二年で解散。以降、活動家としての経歴は途絶えている。

「この、アメリカ出張というのは何だ?」

 画面をスライドさせる指が止まった。最後に所属していた環境保護団体を脱退した同年、葛西はアメリカのカリフォルニアへ十日間の出張に行っている。

「さあ、仕事がらみじゃないのか。流石にそこまでは調査していないよ……アメリカ出張が、事件に何か関係あるのかい」

「さあな」

 素っ気ない声で返す時也に、足立は苦笑いを向ける。

「職務だとわかってはいても、因果な商売だね。何もかもを疑わないとやっていけない世界なんて」

「信じたほうが救われる、とでも思っているのか」

「僕は無神論者だよ。信じているのは自分だけさ」

「俺もそうだよ」

 タブレットを机上に戻しながら、

「そもそも何かを信じるとは、対象に微塵の疑いも持たないことだ。百パーセントの確信、絶対的な信頼……だが、この世に絶対など存在しない。何を以って絶対とするのか、その信頼に根拠はあるのか」

「悪魔の証明、だね」

「信じる行為は時に悪魔的だ。度が過ぎると盲信になり、思考が暴走しかねない。疑う気持ちは思考の暴走を止めるためのブレーキみたいなものだ。社会の混沌を回避するために法律が制定されているのと同じさ」

「トマス・ホッブスの『リヴァイアサン』か。たしか、契約によって成り立つ国家を海獣に例えた話だったね。契約が結ばれない自然状態にあっては、闘争が生まれて社会が混乱する……けれどあれも、旧約聖書に基づけば海獣リヴァイアサンの上に立っているのは神だろう。結局、世界を支配しコントロールするのは神様か」

「神を信じるも信じないも自由だ。他人に迷惑をかけない範囲であればな」

 アイスティーのグラスに手を伸ばす。結露した水滴がスラックスに垂れるのも気にせず、中身を一気に飲み干した。グラスを静かに机上へ戻すと、

「まあ何にせよ、俺の仕事はあらゆる対象を疑うこと。それで国の治安が守られるのなら、痛くも痒くもないさ」

「国の平和を維持しているのは、神ではなく警察か」

 足立の揶揄い口調に、時也は「いや」と首を振る。

「平和があるのは、一人ひとりに理性があるお陰だよ。逆に言うと人間が一旦理性を喪失すれば、向かう先にあるのは破滅のみだ」



 悪友の興信所所長から情報を得た次の日。時也は休みを利用して事件関係者と面会した。葛西文明の父——葛西知史(ともふみ)のかつての仕事仲間だ。

「懐かしいですね。彼が亡くなってもう二十六年ですか」

 室井と名乗った男は、喫茶店のソファ席にゆったりと背中を預けた。店内に流れるBGMは、女性の低く力強い歌声。日本語ではない、だが英語とも異なる聞き慣れない外国語だ。日常会話程度の英語しか操れない時也には、歌詞の断片的な意味さえ拾えない。ボーカルを支えるギターの音色がどこか物悲しく、センチメンタルな余韻に浸らせてくれる。

「葛西は良き友人であり、良き研究仲間でした。彼は地球の自然をこよなく愛し、豊かで美しい大地の資源を守ろうと研究に没頭していました。仕事で新しい発見をする度、子どもみたいに目をキラキラと輝かせて」

 滑らかに語っていた口が、ふと閉ざされる。それから少しだけ寂しそうな笑みを浮かべると、

「彼の話がすべて過去形になってしまうのがどうにも……葛西の思い出話は懐かしくもあるが、同時に虚しくもなります。彼がもうこの世にいない事実を、否応なしに突きつけられるようでね」

「辛い思いをさせてしまい、すみません」

 室井は「とんでもない」と胸の前で両手を振る。

「むしろ、故人の思い出はどんどん話すべきだと私は考えていましてね。話したり書いたりする行為は記憶の風化を防いでくれる。部屋を掃除をしないと埃が積もっていくように、記憶の箱に蓋をしたままでは少しずつ錆びついてしまう」

「詩的な表現ですね」

「これはお恥ずかしい……そういえば、海について話すときの葛西もよく文学的な言い回しをしていたな」

 コーヒーカップを手に取った室井は、だがそれに口をつけようとはしない。亡き友の影を探すかのように黒い水面をじっと覗き込む。

「彼の言葉の中で強く印象に残っているものがあります。その会話がいつどんな場面でなされたのか、それはよく憶えていません。ただ、船上での会話ということだけは記憶しています。

 たしか、こんな言い回しでした。『海は時に聖母のごとくすべてを包み込み、時に怪物のごとくすべてを呑み込む。海は優しくもあり怖ろしくもある。それをよく理解しておかないと、人間は海からとんでもないしっぺ返しを喰らうかもしれない』と」

「海の二面性、ですか」

「ええ、そうです。まさに二面性だと葛西も話していました。それに対して私が冗談半分で『人間の女性みたいだな』と返したら、意外にも同意してくれましたよ。『そこが海の魅力だ。ただ可愛いだけの女性がつまらないのと同じように、ただ美しいだけの海には僕も興味がない。光と闇の二面性を兼ね備えているからこそ、女性も海も魅力的に見えるものだ』とね」

「そこまで海の虜になっていた知史さんが、海難事故で亡くなられたとは皮肉ですね」

 異国語の歌が終わった。コーヒーに投げ入れた砂糖の最後の一粒が溶け切るように、ギターの音が細く尾を引きながら消える。不意の沈黙が店内を支配したが、それもほんの一瞬の出来事ですぐ次の曲がスタートした。先曲と同じ歌手だが、バックで奏でるリズミカルなギターが幾分か明るい雰囲気を演出している。

「海難事故。刑事さんはそのように話を聞いているのですね」

「と、いいますと」

 室井の目が不安げに揺れた。明るみになっていない事実を隠している者の目だと、時也はこれまでの捜査経験から直感する。

「ご安心ください。捜査の中で話した内容は、その情報源も含めて部外に漏れる心配はありませんよ」

「今からする会話は、私の憶測が多分に含まれているのですが」

「あなたがその出来事について考える個人的な意見、という範囲で捜査の参考にさせてもらいます」

 時也の押しの一手に根負けしたらしい。縁なし眼鏡をかけた元研究者は、大きく深呼吸をしてから意を決したように口を開いた。


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