オルタナ公子の誘い
『お前はもうウィルロアの婚約者ではない。ラステマは友好国ではなくなったのだ』
デルタ王国の王女であるカトリは、婚約者であるウィルロアとの婚約の儀に臨んでいた、はずだった。
それが今は簡易なドレスを身に纏い、祖国デルタに向かう馬車に揺られて、移ろう景色を眺めていた。
視界の片隅でゆらゆらと揺れる耳飾りを外し、掌に握って少しだけ泣いた。
襲撃の後、デルタの一行はほぼ休憩も取らず丸二日かけてラステマ国を脱し、国境近くにあるオルタナ公爵領に向かっていた。
オルタナ公爵領に入ると、ほどなくして要塞のような城壁が目に映った。
城壁を抜けると広大な敷地にそびえ立つ公爵邸に到着した。
公爵家は建国の立役者で、代々軍人の家系である。現公爵は将軍の称号も有しており、私兵も多くラステマとの交渉を一任された兄は、ここを拠点に指示を出すようだ。
公爵家の執事が出迎えると、慌てたように王城から伝令が来ていると伝えられた。
ラステマで起こった襲撃の件は早馬で王城に伝えられたが、返事が来るには早すぎる。襲撃と同時に王都でも何かがあったに違いないと、父と兄は足早に応接間に向かった。
カトリも二人の後に続こうとしたが、使用人達に止められてしまう。
「長旅でさぞお疲れのことでしょう。湯あみとお食事の準備が整っております」
「あ、ありがとうございます。ですが、私も王都で何が起こったのか気になるので――」
「では後程報告に参ります。先ずは旅の疲れをお取りになってからにしましょう」
有無を言わさぬ態度に、それが上の者からの指示だと気付く。
「……では、案内をお願いします」
公爵家の使用人達はカトリを温かく出迎えてくれた。
王族が滞在するとあって、公爵邸は物々しい警備に包まれていた。
部屋に着くと緊張が解れ、慣れない移動で体中が悲鳴を上げていたのに気づく。
正直、今すぐにでもふかふかのベッドで横になりたい。しかしもう時間もないと自制心を保って陛下にお目通り願いたいと言伝を頼んだ。
その日は遅くまで待っても扉が開かれる事は無かった。
翌日、陛下からの返事がないまま昼食まで済ますと、代わりにキリクの侍従であるリジンが訪ねてくれた。
「殿下は只今会議中でして、姫様への報告は私からいたします」
「……お願いします」
リジンの話では、昨日の王都からの伝令は宰相からだった。
ドルガノ伯爵が和睦締結の阻止に暗躍していたとして、王妃の権限で秘密裏に拘束したそうだ。
和睦反対組織に与していたのは、第二王子ユーゴの婚約者であるシシリの実家だった。
実の娘、シシリを使ってユーゴを脅迫し、混乱の最中で王太子を亡き者にして娘を王妃に就かせるという、なんともお粗末な計画だった。
シシリは誘拐されていたのではなく、実の父の計画に利用されたのだった。
ユーゴお兄様はまんまと騙されたというわけだ。短剣で切り付けただけに留めてくれてよかったと心から思う。
ラステマでの襲撃事件を知らない中で、ドルガノ伯爵を捕らえたのは大きい。
異変にいち早く気付いたのは、王太子妃であるオリガ様で、シシリの様子がおかしく声をかけたところ、家門の裏切りを告発したという。
「そうですか……。シシリが実家を告発したのですね」
そこにシシリの葛藤が垣間見えた気がした。
結局、シシリも家門に利用されただけなのだ。最後の最後で彼女が家紋より国を守る選択をしてくれてよかったと思う。それでも王家に仇なした罪で爵位は剥奪され、婚約も破棄されてシシリは路頭に迷うだろう。
なんとかしてやりたい……。
処分が下される前に、自分の侍女にしておけば周囲の非難から幾らか守れるのではないだろうか。
カトリはシシリの処遇が気になり、すぐにでも公爵邸を出立したいと考えた。
「それから、陛下は今朝方王都へ出立されました。王女様は暫く公邸で過ごしていただき、キリク殿下と共に王都へ戻る予定です」
「え」
ではシシリの件にカトリは介入できないというのか。
母や宰相、オリガ様が対応に当たっているのは心強いが、友人の行く末に立ち会えないもどかしさを感じた。それにユーゴお兄様はシシリの状況を知っているのだろうか。
「私だけ先に王都に戻れませんか?」
「警備の観点から難しいと思われます」
「では軍を動かす件でもう一度だけ、お兄様と話せないでしょうか」
「殿下に伝えておきます」
リジンはそう言って去って行ったが、兄がカトリに時間を割く日は待てどもやって来なかった。
そして、王都からカトリ付きの侍女が到着した。
相変わらず部屋から出ることを止められていたカトリは、侍女を得たことで公爵邸の情報が入って来るようになった。
ラステマからは既に使者が戻り、兄が軍師へ伝令を送ったと聞いた。
ラステマから良い返事をもらえなかったのだろう。いよいよ軍が動き出すと、いてもたってもいられずカトリから兄を訪ねることにした。
用意された部屋に兄は不在だった。
忙しいのは百も承知だが、カトリだって全くの無関係ではないはず。同じ屋敷で寝泊まりしているのだから顔を合わせてくれてもいいものを。
『何もするな』
それが父と兄の意向なのだ。
自分が難しい立場なのは理解していた。
十年、ラステマで暮らしラステマに輿入れするはずだった。
和睦が不成立となった今、両国の関係が微妙な時期に、もしカトリがラステマ寄りの発言をすれば大きな反感を買うだろう。現にカトリは父の前でラステマとの衝突を避けて欲しいと懇願した。今も争いになったら剣を下ろせと止める。それがラステマを庇っていると言われれば否定はできない。
だから父は、周囲は、カトリの身を案じてラステマに関わる全てから遠ざけている。
ラステマを心配はしても、デルタの王女として真に憂慮すべきはラステマではなく祖国デルタであると、自分では十分に理解しているつもりだ。
だがそれだけでは足りないのだ。それだけでは伝わらないのだ。
両国を想う事の何がいけないのか――。
和睦の象徴なのに、ラステマとの懸け橋なのに、王女なのに、傷もの扱いで蚊帳の外にされていることに虚しさを感じる。
カトリが兄の部屋を出ると、侍女からオルタナ公子が部屋に訪ねに来たと伝えられた。
「オルタナ公子から公領を紹介したいとの申し出がありました」
「公子が私に? 今は忙しいからとお断りして」
カトリは考える素振りも見せず公子の誘いを断った。
オルタナ公爵には未婚の一人息子がいた。
たしか年はカトリの四つ上だったはず。公子は公爵と同じく軍に所属しており、普段は前線で活躍しているそうだが、この騒動で公領に戻っているらしい。
一見、滞在中の王女を気遣っての申し出のように見えるが、時期が時期だけに勘繰ってしまう。
変な誤解や醜聞に付き合っている暇はない。ウィルロアとの婚約が白紙になり和睦の道が潰えようとしている今、王族としての義務を理解はしても、公子に愛想笑いを浮かべて出歩く気分には到底なれなかった。
「誘いを受けたらどうだ?」
「! お兄様」
不在だった兄が戻って来た。
久々に顔を見せた兄は、これまでカトリに十分な説明をしてこなかったくせに公子の誘いは受けるよう勧めた。
「公爵家にはしばらく滞在し世話になる。折角の機会だ。公子に色々話を聞くといい」
カトリは反論こそしなかったが返事もしなかった。
「軍が行軍を開始したと聞きました。今からでも中止はできないのですか?」
「それは出来ない。正式な手順を踏んで王命が下された。我々の一声で止まるものではない」
「王城へは戻られないのですか?」
「軍が国境に到着するまでは滞在するつもりだ」
「では私だけでも王城へ戻らせてください」
「駄目だ」
「何故ですか? 私がここに留まる必要はないはずです」
「これ以上お前を巻き込み、傷つけたくはないという陛下の優しさだ」
「既に十分巻き込まれております」
「カトリ」
「私達が――費やした十年は一体何だったのでしょう……」
「……」
カトリは悔しくて踵を返して駆け出した。
気持ちを言葉にするのが苦手だったのに、最近は嘘みたいに口からすらすらと出てくる。
兄に当たったところで何も変わらない。余計に苦しくなっただけだ。
部屋に戻りソファに蹲る。
無力な自分はただ待つことしかできず歯痒かった。
「あの、姫様」
「……なに?」
「オルタナ公子がまたいらっしゃいまして――」
「気分が優れないからと断って」
「あ、はい。断りしましたところ、手紙を預かりました」
カトリは最後まで聞かなかったことを詫びて起き上がった。
気は乗らなかったが侍女から手紙を受け取り、開けてみる。
『お困りでしたらお助けしましょう』
「!」
『私が王女様のお力になります』
「……」
手紙の内容は端的で、予想外のものだった。
私の力になる、か。
今のカトリにとってそれは魅力的な提案で、欲しくて止まないものだ。
このままカトリ一人の力では何も成し得ることはできない。
軍事衝突を止めることも、シシリを救う事も。せめて、ウィルロアに戦争は起こらないと伝えられたなら、迎え撃つ必要はないとラステマの行軍を止めさえすれば、国境付近の衝突は避けられるのではないか?
いずれにしろ、協力者が必要だ。
公子はカトリが身動きの取れない状況だと分かって餌をちらつかせた。
善意ではない、公子の目的は明らかだった。
縁談が破談となった王女の、次の婚約者の席――。
「……」
彼を頼るには何も情報がない現状では不安が残る。しかし、時間もないので背に腹は代えられない。兄はすでに動き出し一刻を争う。
私が、ほんの少しだけ我慢をすれば済む……。
ウィルロア宛てと王城宛てに、二通早馬を出して手紙を届けてもらえないか、かけあってみよう。
「公子に会うわ」
カトリの決断に侍女達はいい顔をしなかった。
身分の高い未婚の男女が会う意味を、簡単に考えているわけではない。かつてウィルロアの私室を訪ねて、彼を困らせたこともあった。ウィルロアは咄嗟にカフスボタンを外してカトリに非が無いよう言い訳を考えて――。
「――っ」
本当は、嫌だ。公子になんて会いたくない。会いたい人は別にいる。でも――。
ウィルロアは自身を犠牲にしてでも最後まで諦めず足掻く人だと知っていた。今も混乱の中で奔走しているだろう。
たとえ婚約者でもないただの敵国の姫と成り下がってしまっても、最後に、彼のために出来ることをしてやりたかった。
「オルタナ公子がいらっしゃいました」
それでも間違えてはいけない。決してデルタを裏切るわけではない。デルタのために、両国のために、やれるだけのことをする。
そう、カトリは心に誓った。




