キリクの過去3和睦のための犠牲
大陸会議に行く前と後ではキリクの評価も大きく変わった。
帰国の時には盛大に迎えられ、周囲からは褒めそやされた。
両国の王による歴史的対話のきっかけが、二人の王子によるものだと周知されていたからだ。
「王子の働きで不可能を成し得ることができた」
「母はあなたを誇りに思います」
王位継承者として国に大いなる平和と利益をもたらした功績を讃えられた。父に認められ、母の誇りとなれたのが何よりも得難い喜びであった。
ところが、固まりかけた和睦に待ったがかかった。
長年両国に振り回されてきた周辺諸国が、和睦締結は時期尚早ではないかと訴えたのだ。
和睦締結には賛成だが代替わりをした際に覆されては適わない。和平が未来永劫続くためにも、時間を設けることで国民感情に寄り添い、教皇庁の聖約の元で執り行うべきだと申し出た。
確かに国民の中には賛成する者、反対する者以上に、戸惑いが大きくどちらの意見とも言えない者が大半を占めていた。
周辺諸国の意見は真っ当であり、国王は民の負の感情を少しでも取り除き、両国が歩み寄る時間が必要と判断した。
そして、『仮和睦宣言』が成された。
自国の王子と姫を交換し、両国の関係に問題がなく成人したならばデルタとラステマは婚姻を結んで和睦を成立させる。
「待ってください!」
寝耳に水だった。
家族全員が集まる中で告げられた衝撃の言葉。キリクは椅子から立ち上がって異議を唱えた。
カトリをラステマに送るなんて聞いていない。それも供も付けず一人異国の地で暮らすなんて――。裏切らないよう人質として差し出すようなものだ。
当の本人は事の重大さを理解してはいなかった。人質となるよう命じられたというのに顔色一つ変えず座っている。
突如として身に降りかかった大役の意味と重大さを理解するには幼く、それなのに国の未来と重責を背負わせるのかと憤る。
「カトリは豊穣の女神の祝福を受けた子です。ラステマ行きを知れば国民と教会が黙ってはいません」
「過去に祝福子が他国に嫁ぎ、我が国に繁栄をもたらした前例はある。カトリがラステマに嫁ぐのは何の問題もない」
「ですが幼いカトリを一人で行かせるのは危険です!」
「私も反対です。冷酷で残虐な民族に妹を奪われるなんて耐えられない。そもそもラステマと友好を結べる気がしません!」
主張は違えどもユーゴも一緒に抗議した。
もしもラステマとの関係が悪化した場合、敵国の人質となったカトリは命の危険さえある。それは父も分かっているはずだ。息子達が強く反対したことで揺らいでいるのが伝わる。父もまた、好んで娘を差し出すわけではないのだ。
しかしそれまで沈黙を貫いていた王妃が口を開き、息子達を叱責した。
「国を導く者が国益より個の感情を優先してはなりません」
「母上!?」
母の突き放すような言葉に、カトリが傷ついてはいないかと心配する。妹は感情を表には出さず下を向いていた。不穏な空気で感じるものがあるのだろう、膝の上で握られた手が震えている。
カトリは聡い子だ。己に課せられた役割を理解したなら素直に受け入れてしまうだろう。
「ラステマは既にウィルロア王子を差し出す準備が整っているそうです」
「ウィルが?」
「我が国も直ぐに友好の証としてカトリをラステマへ送る準備を始めます。これは決定事項なのです」
「……」
「……お兄様」
「!」
不安気に語りかけるカトリの手に手を重ねる。
目と目が合っても何と声をかければよいか分からなかった。
母はカトリを蔑ろにしているわけではない。この中で一番苦しみ、悲しんでいるのが母だというのは分かっていた。
その母が王妃としてカトリをラステマに送ると決めた。国のために愛する娘と離れ離れになる覚悟を決めたのだ。
その覚悟を自分が簡単に言葉にして否定出来るわけがなかった。
ユーゴは諦めて口を閉ざした。
しかしキリクは両親のように個を押し殺すことも、ユーゴのように諦めることも出来なかった。
誇りと喜びに満ち溢れていた足元が脆く崩れ落ちていくのは一瞬だった。
自分が望み、正しいと思って行動した結果が、幼い妹を他国に売って苦痛を強いることならば、キリクは何もしない方が良かったのではないかと信念が揺らぐ。
カトリに負い目を感じて、託すことも励ますことも謝ることも出来ないまま、ただ自分の罪悪感を軽くしたいがために反対の声を上げ続けた。
一人の意見で国の決定を覆せるはずはないと分かっていた。それでもキリクは最後まで反対し続けた。
カトリに対するせめてもの贖罪だった。
ひとたび動き出した大きな歯車は、一人の力では抗うことは出来ない。
仮和睦宣言の一月後にカトリはデルタへと旅立っていった。
カトリは出発までの間に自分に課せられた役割を学んでいた。
最後まで無表情のまま、言葉少なに別れの挨拶をしたカトリは、家族に数十枚にもなる手紙を残していった。
そこには国を想い、民を愛し、家族や臣下に対する感謝と未来への期待に満ちた明るい言葉だけが綴られていた。キリクへの恨み言は一つもなかった。
妹の、表情には出さなくても不安で強く握った小さな手を。父の毅然とした態度の中に隠された寂しさを。弟の真っ赤に染まった目を。母の主のいなくなった部屋で聞こえる子守唄を、キリクは忘れることができない。
抱き上げると花の香りがして苦しいほどにしがみついてきた、愛しい妹は日常の中からすっかりと消えてしまった。




