兄と弟
どんなに落ち込んでいても時間は平等に過ぎていく。いつまでも塞ぎ込んでいるわけにもいかなかった。
カトリとの散策を早めに切り上げたので、平静を取り戻す時間は十分にあった。
結局三時の鐘を待たずに、ウィルロアは次の予定であるセーロン議長との会談の場に移動していた。
しかし移動の最中にセーロンの使いから三十分ほど時間を遅らせてほしいと言伝があった。
急な用が入ってしまったとかで、行き違いにならずによかったと使いは胸を撫で下ろし去って行った。
「部屋に戻られますか?」
「うーん、今更戻るのもな」
余裕をもって部屋を出たので時間は十分にある。護衛と共に時計を確認し、部屋へは戻らずどこかで時間を潰すことにした。
回廊から中庭に目を向け、ウィルロアは行き先を変えて生け垣の中を進んでいった。
少し歩くと回廊からは死角になっていた噴水の近くで人の気配がした。
偶然にも、先程時間をずらしてほしいと言われた会談相手であるセーロン議長を発見した。
気配を感じたセーロンが急に振り返ったので驚く。彼もウィルロアの姿にぎょっとした。
「あ、すみません。お話し中とは気づかず」
ばっちり姿を見られてしまったので隠れるわけにもいかず素直に謝った。
ウィルロアが謝罪し敬語を使った相手は、セーロンではなく共に噴水近くで話し込んでいた兄アズベルトだ。
セーロンがウィルロアに礼をとっている間も、アズベルトは腕を組んだまま仁王立ちして挨拶は返さなかった。
チッ。面倒くさい奴に会ってしまった。
セーロンには伝言は聞いたがもう部屋を出ていたので、時間を潰そうと思ったと伝えた。
アズベルトが持つ藍色の書簡のような物にちらりと視線を移す。セーロンの用件とはどうやらアズベルトとのことのようだ。
邪魔するつもりもないのでこのまま話を続けてくれと伝えたが、彼は気まずそうにアズベルトの顔色を伺った。
「会談は延期だ。ウィル、話がある。付いて来い」
「え?」
アズベルトは一方的に会談延期を告げると、書簡をセーロンに押し付けて歩き出してしまう。
頭を下げて見送るセーロンと大股で闊歩するアズベルトを交互に見て、戸惑うウィルロアはとりあえずセーロンに詫びて急いで兄を追った。
「兄上、何かあったのですか!?」
お前が俺に用があるなんて、余程の事があったとしか思えない。
「別に急ぎの話ではない」
へ? 火急の用もなくただ話がしたかっただけ? 俺もお前に話があるけど相手の都合と予定を配慮して約束取り付けるのが最低限のマナーじゃねーの?
セーロンにも悪い事をした。議会に参加するウィルロアのために、打ち合わせを兼ねた勉強の場を用意してもらったのだ。
それでどこへ向かったかといえば、結局元来た道を戻り王子の居住区である西の塔の、アズベルトの私室へと案内された。
初めて入ったアズベルトの私室は、さすが王太子の部屋らしく豪華絢爛で広さもウィルロアの倍はあった。
ウィルロアの部屋は無駄な物が一切ないシンプルな部屋なので、同じ兄弟でも好みは違うようだ。
俺は防音・鍵付きの部屋を重視したからな。それ以前に王太子と第二王子じゃ扱いも違って当然だわ。
高級そうなソファに向かい合わせに座ると、アズベルト付きの侍従が素早く対応してすぐさまティーセットがテーブルに並べられた。
さすが。アズベルト付きの壮年の侍従は予定外の来客にも洗練された動きに淀みはなく、凛々しい顔つきのしっかりした近衛騎士やティーセットを並べるメイドの手際の良さ然り、アズベルトに仕えている者達は皆ピリッとした緊張感があって如何にも仕事が出来そうな者達ばかりだ。
それは彼らが優秀な人材であるというだけではない。臣下というは仕える主の器の違いで顕著に表れる。
それを鑑みればアズベルトには王の器と威厳が確かにあった。馬鹿だけど。
この威風堂々とした佇まいと醸し出す威圧感に重い緊張感は、ウィルロアのような親近感が持てるゆる~い雰囲気とは全くの別物だ。馬鹿だけど。
珍しく心の中でアズベルトを認めてやると、案の定人払いさせ二人きりにされた。
紅茶に軽く口を付ける。
さぁて、一体どんな話が待ち受けているのやら……。
今までの関係をみれば、兄弟水入らずで話ができるだけ進歩だ。アズベルトの中で何か変化があったのは間違いない。
ウィルロアは身構えてアズベルトが口を開くのを待った。
「カトリと庭園散策したそうだな」
ぶっと思わず紅茶を吹き出しそうになった。
今さっきの話がもう耳に入ってるのかよ。王太子の情報網なめてたわー。
内心の動揺を表に出さず淀みなく返事をする。
「ええ。滞在中に親交を深めようかと。以前から王女の熱心なお誘いを受けておりましたが、私も忙しく中々タイミングが合わなかったもので、短い時間でしたがやっと二人きりで、有意義な時間を過ごせました」
二倍ダメージの件には蓋をして、カトリの好意は自分に向いているのだと牽制しておく。
別に嘘は言っていない。既に失望されたけど。
またいつものように『ふん!』って憤慨するか?
頭の中で小ウィルがファイティングポーズを決めてアズベルトの反応を待ち構えた。
「それは良いことだ」
「!?」
待ち構えていたら肩透かしを食らった。
しかしある意味トリッキーな攻撃に、小ウィルの警戒は最高レベルに引き上げられ、追撃に備えて左右にステップを踏む。
「お前達の婚姻は両国が認め待ち望んでいるものだ。二人が仲睦まじく過ごすに越したことは無い」
「え、ええ」
「私も長らくカトリ――王女と暮らし親しくさせてもらった」
「……」
「中には私のカトリ――王女に対する過保護があらぬ誤解を生んだこともあった」
「何のことでしょう」
本当に、こいつは一体何が言いたいのでしょう?
「分からぬならそれでいいのだ。もし耳にしてもそれらの戯言は決して信じぬように。ただ私はカトリを妹のように大事に想っていてだな」
おい呼び捨てすんな。王女呼びを諦めるな。
「とにかくお前達が心配で仕方なかったというだけだ」
「はい……?」
「それからこの間の舞踏会での件も誤解を招いても困るので説明するが――」
的を獲ていない話を長々と続けるアズベルト。
親身に聞いている振りをしながら、ウィルロアは警戒を緩めて兄の会話の意図を探ることにした。
これは、カトリの気持ちに気付いて負け戦と判断したということか? 今までのことを言い訳しているのか?
つまり、恋心よりも己のプライドを守る方に転じた。
はーへーふーんそうなんだー。いやいや。うん。なにこれ。なんで俺はこんなにムカついてんの?
「……」
ウィルロアの中に『ある感情』が沸々と湧き出し、アズベルトの言い訳をこれ以上聞いていたくなくてわざと音を立てて茶器を戻した。
「ウィル?」
「……」
かっこ悪。中途半端な男。情けねぇ。
無かったことにするくらいなら最初からちょっかい出してくんなよ馬鹿野郎が。
アズベルトがカトリを諦めてくれたら、ウィルロアの目的は果たされたことになる。
それを望んでいたはずなのに、浮かんでくる感情は安堵や喜びよりも何故か怒りの方が勝っていた。
茶器の音に顔をしかめ途中で話を止めたアズベルトが、黙り込むウィルロアを不思議そうに窺っているのを肌で感じる。
「……ありがとうございます」
悔しい。
それでも複雑な感情を押し殺し、顔を上げたウィルロアの顔にはいつもの穏やかな笑みが作られていた。
「兄上の言う戯言が一体何のことかわかりかねますが、兄上が私達を温かく見守り心配してくださっていたというお心はしっかりと伝わりました。大変ありがたく、同時に嬉しく思います」
心とは裏腹に礼を言うウィルロアは、自分の中に潜在的にあった『ある想い』に否応にも気づかされていた。
俺はアズベルトが嫌いだし馬鹿だと思っている。でも心の奥底では、お前を認めていたんだ。
かっこ悪い姿は見たくないと思っていて、そういう感情が根底にあるからアズベルトの言動が不甲斐なくて耳を塞ぎたくなった。
悔しいけど俺の中のお前は七歳の頃に別れたままで止まってんの。兄を慕う幼い弟が消えずに残っているんだよ。
俺にはないものをお前は持っていて、その背中をずっと追っていた俺は、お前に憧れていたんだ。
長い間離れ離れに暮らしていた弟の、兄に対する一方的な不器用で歪な感情だった。
まさかこんな形でアズベルトに対する気持ちに気付くとは思ってもみなかった。
馬鹿だ不甲斐ないと罵っていても、悔しいけど、俺はお前を心から憎めないんだよアズベルト。
だから、どうかいつまでも、この国を導く偉大な王として尊厳を持って在り続けてほしい。
「兄上は和睦に反対ですか?」
「!」
前置きの無い質問にアズベルトは眉を潜めた。
「和睦を結べばデルタと国交が結ばれ、無駄な関税を撤廃できます。物流が栄えて国は益々発展し、民の暮らしは豊かになりましょう。この和睦は両国にとってプラスにしかなり得ません」
「何が言いたい?」
「和睦に慎重になっていると噂を聞いたもので、兄上の真意を伺いたかったのです」
「……」
「教皇庁の聖約の元で交わされるこの和睦は、絶対に失敗が許されません。我が国にとって必要不可欠の重要案件です」
「そうだな」
いつもとは違うウィルロアの前のめりの姿勢に気圧され、アズベルトは素直に頷いた。
アズベルトの言質を取って、ウィルロアはここで一大決心をした。
「私からもお話があります。和睦成立のために、兄上にご協力を願いたいのです」
「?」
誰を疑えばいいかなんて分からないし考えたらきりがない。だが頼る相手は分かっているつもりだ。
ウィルロアはキリクから得た情報を、彼の名前を伏せてアズベルトに話した。
アズベルトの顔がどんどん曇っていく。
「馬鹿な! 我が国がスパイを野放しにしているというのか!」
にわかには信じ難い。疑うアズベルトに情報源は確かな所だと伝え、真剣な眼差しで続けた。
「私の力では犯人を探ることも追い出すことも出来ません。兄上の持つ人脈と情報網が必要です。相手は要人を丸め込んでいる可能性もあり、下手に動いても怪しまれて逃げられるだけです」
同じ血を分けた兄ならば、信頼もできるし何より私兵団を持つ彼は、犯人を見つけ出す力も捕らえる力も兼ね備えていた。
ウィルロアが主導で動くより、アズベルトに協力を仰いだ方が賢明だった。
アズベルトは顎に手を添え考えていた。
返事を待っていたつもりが、彼の口からは思いもよらぬ情報が漏らされた。
「二年前といったか。関係があるかは分からぬが、二年前、突然レスターは私に息子のマイルズを侍従に就けた」
「レスターが?」
二年前といったら、デルタでスパイが捕まり暗躍し始めた時期だ。
「レスターは私よりも近衛騎士団や国軍と近しい関係にある」
たしかに、この国の宰相として警備案にも口を出せて、国政に関することは逐一報告を受ける立場にある。
「ちょうど二年前になるか。あの頃のレスターは物思いに耽ることが多く、城に何か月も滞在して大きな案件を抱えているようだった。何か企んでいた節もあったな。陛下はあいつの能力を買っているが、私は幼少期から信用していない」
「しかし、彼らはカンタール家の――」
ラステマ国一の歴史ある由緒正しき家柄だ。王家の最も信頼のおける忠臣である。
「ウィル。飼いならしていたはずのペットが突然主に噛みつくこともある。お前のその甘さが時に判断を誤り、真実を見落としている場合もあるぞ」
「……」
ごもっともな意見に反論もできない。
「だが兄である私を頼ったのはいい判断だ。反対組織の間諜の件は私が引き受ける。お前は下手に動かずおとなしくしていろ。ただしマイルズの動きには注意しろ。何かあればすぐに私に報告するのだ。いいか、レスター含めカンタールには決して隙を見せるな」
ウィルロアは黙ってアズベルトの話に耳を傾けるしかなかった。
先程までの温かく心地いい気候はどこへ行ったのか。青空が夕闇に染まり始めると、一気に冷たくなった風がウィルロアの体温を奪っていった。
「寒い……」
アズベルトの私室から出たウィルロアは部屋に戻らず、廊下のバルコニーから外に出て、そびえ立つ山脈を眺めていた。
まさかこんなことになるなんて……。
アズベルトはレスターを、カンタール家を怪しんでいた。
レスターの有能さを良く知る自分でさえ、違和感を覚えていたくらいだ。
組織は二年前、ラステマに入り込み今の今までその存在を知られることなく暗躍してきた。
宰相であるレスターが気づかないなんてことがあるか?
レスターだけではない。近衛騎士団長のサイラスだって、軍師のファーブルだってそうだ。
自分が幼い頃世話になった良く知る臣下達は、一体何をやっていたのだ。
俺がいない間に耄碌したか?
訓練場の方からは騎士が稽古をしているのだろう、剣がぶつかり合う金属音と逞しい掛け声が耳に届いた。
あの時も――。
今から十年前。
ウィルロアが和睦のためデルタへ赴くことが決定した時。こんな夕闇の空の中、冷たい風に吹かれながら訓練場で二人きり、自分の方から決別を切り出した――。
『私はあなたに忠誠を誓ったのです』
幼い子供相手に剣士がするように膝を折り、頭をたれて誓いを立てる。
『ですからどうか、必ず、必ず無事にお戻りください』
「はあっ!」
バルコニーの手摺に掴まり、護衛が側に待機しているのも構わず思い切りため息を吐いた。
「殿下?」
「……」
俺は間違っていない。俺はやるべきことを、与えられた使命を全うしただけだ。
全てに無関心になれたならどんなに楽だろう。全てのしがらみから逃げ出せば、どんなに楽だろう。
いいや、アズベルトのように、キリクのように、周りに振り回されない強い意志が自分にもあったなら――。
バカだな……。
生産性のないことを考えた己に自嘲し、冷静になるためわざと冷たい息を大きく吸い込んだ。
「……大丈夫だ」
背後で心配する臣下に、せめてもと強がって言葉を返す。
今さら自分の欠点を誰かと比べ、できもしない弱音を吐くなんて情けない。これ以上は惨めにならないよう思考は止めて完璧王子の仮面を被った。
最後にもう一度唇を噛みしめて冷たい風に顔を晒す。いつものウィルロア王子になって振り返った。




