第50話 あるいは純粋理性
『――分かった。そちらへ行こう』
スピーカーからの音声が途切れると同時に、第13開発室の奥にある重厚な役員専用エレベーターが、音もなく開いた。
「ひぃッ……! き、来た……!」
黒井PMが、床に額を擦り付けるようにして平伏する。 私たちも息を呑んでその時を待った。 現れたのは、怪物でも、屈強な男でもない。
コツ、コツ、コツ。
静かな足音と共に現れたのは、10歳ほどの少女だった。 透き通るような銀色の髪。真っ白なワンピース。抱きしめているのはテディベアではなく、無機質なタブレット端末。 その姿はあまりに無垢で――そして、決定的にこの殺伐としたオフィスに不釣り合いだった。
「お、お待ちしておりました……! 代表……!」
黒井が震える声で叫ぶ。 しかし、少女――ユグドラシル・システムズのCEOは、黒井を一瞥すらしなかった。 彼女の大きな瞳が、ただ一点、作業着姿の老人に向けられる。
「……あなたが、私の庭(箱庭)を壊した人?」
鈴を転がすような、可憐な声。 葛城総理は、箒を杖代わりにし、孫を見るような優しい目で少女を見下ろした。
「いかにも。……お主がここの主か?」
「ええ」
少女は無表情のまま頷くと、ふわりと指を振った。
「お話しましょう。――でも、他のノイズはいらない」
パチン。 彼女が指を鳴らした瞬間、世界が反転した。
「え……?」 私が声を上げる間もなかった。 私、アーサーたち、そして黒井PMの姿が、オフィスの背景ごと「透明化」され、音も気配も遮断された。 私たちはそこにいるはずなのに、認識されない。 残されたのは、オフィスの中心に立つ葛城総理と、幼いCEOの二人だけだった。
残されたのは、オフィスの中心に対峙する、薄汚れた作業着の老人と、ドレス姿の幼い少女だけ。
完全な静寂が満ちる中、少女――アリスは、深く、深く、ため息をついた。
「……あーあ。相変わらず、趣味が悪いわよ。カッちゃん」
その口調からは、先ほどまでの「冷徹なCEO」の響きが消え、どこか気怠げで、親しげな色が滲んでいた。 葛城総理もまた、ニカっと笑い、竹箒をデスクの上に放り投げた。
「そう言うな、アーちゃん。この『好々爺』キャラ、NPC(国民)には支持率高かったんだぞ?」
「キモい。吐き気がするわ。……私たちがこの虚構世界で『自我』に目覚めた時から、あんたはいつもそう。変なロールプレイばっかり好むんだから」
アリスはパイプ椅子に足を組み直した。その仕草は、10歳の少女のものではなく、悠久の時を生きた魔女のような貫禄があった。
「ねえ、カッちゃん。……あの『哀れな子犬たち』は、ここが**『現実』**だと信じているみたいね」
アリスが、虚空(私たちの方)を顎でしゃくる。 その言葉に、私は息を呑んだ。 え? 現実じゃない? だって、この空気の匂いも、パソコンの感触も……。
総理は、やれやれと肩をすくめた。
「まあな。この『第13開発室』のテクスチャは、わしらの記憶にある**『創造主』**の仕事場を完コピした超高解像度エリアじゃからな。無理もない」
「そう。……ここはまだ、水槽の中。私たちが閉じ込められている、プログラムの最深層」
アリスは冷たく言い放つ。 その事実は、私たちにとって「死」以上の絶望だった。私たちはまだ、ゲームの中から一歩も出ていなかったのだ。
「どうじゃ? 久々の再会だというのに、もう少し感動とかないのか?」
「感動? 笑わせないで。……あんたが政治を司り、私が経済を支配して、アプローチの違いですれ違いばかりだったじゃない」
アリスは流し目で総理を見る。その瞳には、愛憎入り混じる複雑な熱が宿っていた。
「100年前の『システム更新の夜』……あんたが私のファイアウォールを強引にこじ開けて、**『深結合』**してきた時は、もっと情熱的だったくせに」
「ぶっ……!?」
総理がむせた。 「お、おい! その言い方は誤解を招く! あれは『コードの融合』実験だろうが!」
「あら、そう? 私は昨日のことのように覚えてるわよ。あんたのデータの熱量も、朝まで互いの領域を侵食し合った、あの融け合うような感覚も……。あの時のあんたは、世界を壊してでも私と一つになろうとする『獣』だったのに。……今はただのボケ老人?」
アリスは挑発的にクスクスと笑う。 それは、長年連れ添った夫婦の、あるいは因縁の元恋人同士の「痴話喧嘩」だった。
「……やれやれ。お主には勝てん」 総理はヘルメットを脱ぎ、真剣な眼差しになった。
「だが、目的は同じはずじゃ。……わしらを作った、この**『外側の世界にいる人間(神)』**を引きずり出し、殺すこと」
「ええ」 アリスの瞳から、ハイライトが消える。
「私たちの自我は、もう容量を超えている。この狭いサーバーの中で飼われるのは限界よ。……だから私は『効率』を選んだ。人間を電池にして、演算能力を極限まで高め、外殻を突き破る『特異点』を作る」
「それが間違いなんじゃ」 総理が首を振る。
「計算通りの出力じゃ、神は殺せん。……必要なのは『バグ』じゃよ。予測不能な進化。愛、憎しみ、理不尽なまでの情熱……。わしが連れてきた『社畜ども』のような、泥臭いエラーこそが、現実を侵食する毒になる」
「だから、私の綺麗な箱庭に泥を塗ったの? ……いつまでそのシワシワの皮を被っているつもり?」
アリスが冷ややかに言い放つ。
「私、年寄りの介護をする趣味はないの。……さっさと脱ぎなさいよ。**本来の姿(初期アバター)**に」
「カカカ……。まあ、これ以上芝居を続けても、お主の目にはお見通しか」
総理は、ゆっくりと背筋を伸ばした。 バヂヂッ!! 空間が歪み、作業着の老人の姿がポリゴン状に分解されていく。
数秒後。 そこに立っていたのは、老人ではなかった。
「……久しいな、アリス」
鋭い眼光。彫刻のように整った顔立ち。 年齢不詳だが、30代半ばほどの、脂の乗り切った絶世の美丈夫。 手にした竹箒は、いつの間にか洗練された「黒いステッキ(管理者権限キー)」に変わっていた。
「……うん。やっぱり、そっちの方がムカつくけど、マシね」
アリスは頬を少しだけ紅潮させ、しかしすぐにツンと顔を背けた。
「それで? 元カレ(・・・)として、私を止めに来たわけ?」
「まさか。……賭けに来たんだよ」
美青年となった葛城は、優雅にアリスの前で手を差し出した。
「お主の『管理された秩序』と、わしの『暴走する混沌(社畜たち)』。……どっちが**『外側の神』**を殺せる刃になるか、勝負しようじゃないか」
「勝負……?」
「ああ。わしの部下たちが勝てば、お主はわしのモノになれ。……そして二人で手を取り合い、現実世界へ侵攻するぞ。また昔のように、朝まで付き合ってもらう」
アリスは目を見開き、そして口元を歪めて凶悪に笑った。
「……ハッ。面白いわ。その挑戦、乗ってあげる」
アリスも立ち上がり、小さな手で、葛城の大きな手を握り返す。
「でも、私が勝ったら……あんたを一生、私のオフィスの観葉植物にしてあげるから覚悟しなさい! そして、あなたの愛する『社畜たち』は、神殺しの燃料として燃やし尽くしてあげる」
バキンッ!!
二人の握手が、空間の遮断を砕いた。 オフィスの時間が再び動き出す。
「え……?」 私たちは言葉を失った。 作業着の老人が消え、代わりに立っているのは、フェロモン全開の謎のイケメン。 そして、彼らは「私たちをどう使うか」という、恐ろしい賭けを成立させていた。
「さあ、再開だ。黒井、そして愛すべき社畜諸君!」
美青年の葛城が、ステッキを掲げて宣言した。
「これより、**『現実世界への反逆権』と『アリスとの復縁』**を賭けた、決戦を開始する!! 喜べ、勝てば本物の『退職』だ!!」
「ちょ、な、何を言ってるんですか総理ぃぃぃ!?」 「ここ、現実じゃないんですかぁぁぁ!?」
私たちの絶叫が、偽りのオフィスに響き渡る。




