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 労働というものは思っていた以上に大変で、日々目まぐるしく過ごしているうちに、私が事務官として働き出してから半年が経過していた。

 大変ではあるものの、私の社会人生活は上手くいっている……なんて言うと、思い出したくない過去が脳裏によみがえってくるけれど、今度は本当に上手くいっていると思う。


 もちろん、業務を滞りなく遂行することが私達の共通の目的なのだから、「性格が合わない人間がいても譲歩しながら上手くやっていこう」と全員が思っているところも大きいだろう。

 みんないい大人だから、個人的なやっかみで他者を陥れようとする幼稚な考えを持つ人間だって、当然いない。


 けれども、たとえどれだけ職場の環境が良かろうと、疲れる時は疲れるし、しんどい時はしんどい。

 そんな時、気分転換がてら気軽に声を掛けられる人間がいるということは、私にとってはとても大きかった。


「ねえ、エドウィン。この後の予定は?」

「空いてるよ。昨日遅くまで残っていたせいで、『今日は身体を休めるように』って、上長からも言われてるしね」

「じゃあ、あなたさえよければ食事に行かない? 良さそうなお店を見つけたの」


 私達事務官が仕事をする事務室と、騎士の鍛錬の場である演習場は隣接しているため、エドウィンとはほぼ毎日顔を合わせるようになり、言葉を交わす機会は学生の頃よりむしろ増えた。

 慣れない場で見かける知り合いというのは、それだけで随分と仲間意識を感じるもので、私がこうして気軽に食事に誘えるくらいにエドウィンと仲良くなるのも自然の流れだった。


 私の誘いを受けたエドウィンは「いいね」と言った後、「待ち合わせはいつもの場所でいい?」と付け加えた。

「ええ、もちろん」

〝いつもの場所〟で伝わる距離感がなんとなくむず痒くて、少しそっけない口調になってしまったものの、彼はそれに気を悪くしたふうでもなく、「楽しみができたから、午後からの稽古も頑張れそうだよ」と言って、柔らかい表情で笑うのだった。



 エドウィンとの会話を終えてその足で事務室に戻ると、部屋には室長が一人で机に向かっていた。

「ただいま戻りました」

「おや? 随分と早かったんだね。何か急ぎの仕事でもあったかい?」

「いえ、そういうわけではないんですけど」

「だったら、休憩時間はきちんと休みなさい。ただでさえ季節の変わり目で疲れやすい時期なんだから」

 そんなことを言ってくる室長は、職場の上司というよりもむしろ父親のようで、思わず笑ってしまう。


「ご心配ありがとうございます。ですが、今日は就業後に予定ができたので、前倒しで終わらせてしまいたいなと思いまして」

「なるほど。ちなみに、どんな用事か聞いてもいいかい?」

「エドウィンと食事に行くことになってるんです」

「ああ、彼か。確か君達は学生時代の同級生だったね」

「はい」


 私がそう答えると、室長は少し迷った素振りを見せた後、おずおずと口を開いた。

「……彼とは、恋人同士なのかい?」

 その後すぐに「答えなくなければ答えなくていいんだけどね」と慌てたように付け加える室長は、やっぱり娘を心配する父親のようだ。


「いいえ。ただの同級生です」

「そうか。変なことを言ってしまって、申し訳ない。君と話してる時の彼を見てると、そうなのかなと思ってしまってね」

「……それは多分、室長の気のせいだと思いますよ」


 そう言いながら、私は頭の中でエドウィンを思い浮かべる。

 整った容姿に、穏やかな性格。会話も上手いし、女性の扱いにも慣れている。その上、人々から尊敬と憧れの眼差しを向けられる騎士という職業。

 ここが物語の世界であれば、彼もきっとヒーロー的立ち位置の人間であるに違いない。

 そんな彼の隣に相応しいのは、きちんとしたヒロイン的女の子なのだ。少なくとも、私のような人間ではない。


 急に黙り込んでしまった私に、室長も何かを感じ取ったのだろう。

「……でもまあ、肯定されたらされたで複雑な気持ちになっていただろうから、そういう意味では少しほっとしてしまったよ」

 室長は冗談めかしてそう言うと、「レベッカさんと同い年の娘がいるからね。どうしても父親目線になってしまうんだよ」と言って目元を和らげるのだった。


 ◇◇◇


 エドウィンと過ごす時間というのはいつもあっという間で、時計を見るともうすぐ二十一時になろうとしている。

 食事をしながらもう三時間も喋り続けていることには驚くものの、話題が尽きることはない。


「こないだオスカーが『味見してくれ』って言ってパスタを持って来たんだけどさ、見た目は普通なのに食べたらガリガリって音がするから、思わず『枝かよ!』って叫んじゃったよ」

「洗濯中のオスカーが『どれだけすすいでも泡が出てくる』って言って俺の部屋に飛び込んで来たんだ。とりあえず『洗剤はどれくらい使ってるんだ?』って聞いてみたら、規定量の三倍もの量を使ってたみたいでさ」

 エドウィンの口から語られるそんなオスカーの失敗談に笑いすぎて、目元にじんわりと涙が浮かんでいるのを感じるくらいだ。


「学校卒業と同時にフィオナと結婚したい!」と意気込んでいたというオスカーが、彼女から「今はまだ考えられない」とばっさり断られた際、オスカーはこの世の終わりのような顔をしていたという。

「その日家に帰って来たら、オスカーが俺の家の前に佇んでたんだ。『俺は……どうすればいいんだ……』なんてブツブツ呟きながら呆然としているあいつは、血の気の引いた真っ白な顔だったことも相まって、今まで目にしたものの中で最も恐ろしいものだったよ」

 いつかエドウィンからそんな話を聞かされた時も、大いに笑わせてもらった。


 けれどもさすがは〝フィオナさん溺愛〟のオスカーと言うべきだろうか。

「『忙しい私とじゃ〝普通の結婚生活〟はおくれないだろうから』というのが理由なんだから、忙しいフィオナでも安心して結婚ができるように、俺が頑張ればいいんだ!」

 そう言い出したというオスカーは、騎士としての激務をこなしながら家事のスキルも身につけようと、現在奮闘中らしい。


 私はそれをエドウィンから聞かされて楽しませてもらっているのだけれど、エドウィンの目から見たオスカーは私の頭の中にあった〝挫折知らずのオスカー〟とは程遠くて、私の彼に対する苦手意識すら薄まってきている。

 それはきっと、口では「ほんと参っちゃうよね」なんて言いながらも、エドウィンがいつも柔らかな表情をしているおかげなのだと思う。

 

「そろそろ帰ろうか。今日も遅くまで付き合ってくれてありがとう」

「ううん、こちらこそ。今日もとっても楽しかったわ」

「……今日も、家まで送らなくていいの?」

「すぐそこだから大丈夫よ。明日も仕事があるでしょう? あなたも早く帰ってちゃんと休んで?」


 エドウィンとそんなやりとりをするのはいつものことで、家までの帰り道を一人で歩くのもいつものこと。

 どこかからふわりと漂ってくるキンモクセイの香りを胸いっぱいに吸い込みながら、「夜は肌寒くなってきたからコートを出さないと」なんてことを考えていたからだろうか。「レベッカ!」と呼び掛けられるまで、私は自宅の前に人影があることに気がつかなかった。


 すぐそばに衛兵の屯所があるとはいえ、夜道で男性からそう声を掛けられて、私の口からは「ひえっ」という情けない声が漏れる。

 けれども相手は怯える私の様子に気づくことなくこちらへと駆け寄ると、「久しぶりだね。元気だった?」と言った。

 大声を出そうかと身構えていたけれど、こちらへとやって来た男の顔が街灯によって照らし出されたことによって、相手が幼馴染のジョンであることに気づいた私は、ようやく肩の力を抜く。


「ジョン……あなただったのね。どうしてここが?」

「君のお母さんが僕の母親と話しているのを聞いたんだ。一人暮らしなのにすごいところに住んでるんだね」

「……父親が、女性の一人暮らしは危ないからって。家が広いのはたまに弟が泊まりに来るからよ」

 私がそう説明している間も、ジョンは家の方を見ながら「ほんとにすごいなあ」と呟いていた。


 ジョンがなぜここに来たのかはわからないけれど、彼に立ち去ろうとする気配はない。

「よければ上がっていく? コーヒーくらいなら出せるわよ」

 このまま外で立ち話を続けるような時間でも気温でもないと判断した私がそう尋ねると、ジョンは「いいの? ありがとう」と言って私の後に続いて自宅の扉をくぐった。


「散らかっているけど、どうぞ」

「全然。僕はそういうの気にしないから」

「すぐにコーヒーを淹れるから、少し待っててもらえる?」

「うん」

 私に促されるままソファに腰を下ろしたジョンは、部屋をきょろきょろと見回しながら「広いなあ……家族ででも住めそうだ……」なんてことを言っている。

 そんな彼の目の前に、コーヒーを注いだマグカップを二つ並べて置くと、ジョンは「ありがとう」と言ってすぐに片方に口を付けた。


「本当に久しぶりね。元気にしてた? 今は何をしているの?」

 彼ときちんと話をするのは、恋人関係を解消して以来初めてのことで、思わず声が上擦ってしまう。

 もちろん、同じ学校に通っていたのだから見かけることはあったのだけれど、彼が卒業後にどんな道に進むのかについては耳にしたことがなかった。

「まあ、元気だよ。実は少し前に仕事を辞めて、今新しく探しているところなんだよね」

「……そうなの。いろいろあったのね」


 幼馴染だとは言え、かつて付き合っていたとは言え、久しぶりに会うジョンとの共通の話題などそうたくさん出てくるものではなく、その会話を最後に部屋には居心地の悪い静寂が訪れた。

 一体何をしに来たのだろうかと思った私は、横目でジョンを盗み見るけれど、彼は相変わらず身体を小さく丸めながらちびちびとコーヒーを啜っている。


 このままでは、日付が変わってしまいそう。

 そう思った私が「何か用があるんじゃないの?」と尋ねると、ジョンはびくりと身体を震わせ、わかりやすく視線を彷徨わせた。

「何か、言い出しづらいこと?」

「うん……まあ、そんな感じ」

「困っていることがあるなら教えて? 何か手助けできるかもしれないわ」

「そういうことでもないんだけど……」


 何を聞いてもジョンからははっきりとした回答が得られず、さすがに苛ついてしまった私は「明日も仕事があるんだけど?」と冷たく言い放つ。

 するとジョンはそんな私の態度に、眉を下げて悲しげな表情を浮かべて、「ごめん」と言ってへらりと笑った。

 

「君のお父さんが言ってたんだ。『レベッカは一人で大丈夫だろうか?』って。それを聞いて、僕も君のことが心配になったんだ」

「……そう。今のところ、特に不自由なく過ごしているわよ」

 私が騎士になるのを諦めたあの日から、父とは必要最低限の会話しかしていない。

 そんな父が私の身を案じていたということに、「何を今更」と思うと同時に、「それでも心配してもらえてるんだ」という思いも湧き上がり、なんとも言えない複雑な気持ちになる。


 当然ながら、そんな私の心境などジョンが知る由もない。

 彼はもう一度部屋をぐるりと見渡すと「けれどやっぱり、こんな広い家に一人だなんて寂しいよ。それに、いつもこんな時間まで働いてるの? そんなに頑張ってどうするの?」と言った。


 今日に関しては働いていたわけではないけれど、そういう日も多々あるから訂正しないでおく。なんとなく、エドウィンとのことを彼には言いたくなかった。

 やりたいと思ってやっていることに対して「そんなに頑張ってどうするのか」と言われたことについても、聞かなかったことにしておこう。非難を含んだ言い方であることには物申したい気持ちもあるけど、久しぶりに会う幼馴染と喧嘩はしたくはない。


「……大丈夫よ、心配してくれてありがとう。両親にも、近いうちに会いに行くわね」

 私としては、それで話は終わりだった。

 けれどもジョンは、いまだに席を立とうとはしない。


「ねえ、まだ何かあるの? さっきも言ったけれど、私は明日も仕事があるの」

 少し強めにそう言うと、ジョンは「怒らないで聞いてくれる?」と言いながらこちらに窺うような視線を向けてくる。

「……怒らないわ。どうしたの?」

 私が尋ねると、ジョンは顔ごとこちらを向いた。微妙に視線が合わないように思うのは、きっと気のせいではないのだろう。


「僕と、やり直してくれない?」

 ぼそぼそとした喋り方でそんなことを言うものだから、一瞬何を言われたのかわからなかったけれど、「それは……私とジョンがもう一度恋人として付き合うってこと?」という私の問い掛けに対して、ジョンは視線を落として「うん、そう」と答えた。


「……ずっと後悔してるんだ。なんであの時、君の言葉に簡単に頷いてしまったんだろうって」

 ジョンは私の顔を一切見ることなく、俯いたままぼそぼそと話を続ける。

 そんな彼を前にして、私は「そういえばジョンは昔から、自分の心の内を語る時にこういう喋り方をしていたな」と、どうでもいいことを思い出していた。


「レベッカと別れてから、何もかもが上手くいかないんだ。きっと僕には、君が必要なんだよ」

 そう言ってもう一度顔を上げたジョンは、「ごめんね」と付け加えてへらりと笑った。幼い頃と全く同じ、あの頃から変わらない表情だった。

 その表情は幼い頃から何度も目にしてきたもので、胸の中に懐かしい気持ちと共に、当時の自分が感じていた様々な気持ちがぶわりと溢れ出す。

 その中には、父から見放されたことに対する絶望感だとか、自分を取り巻く環境が急激に変化したことに対する不安だとか、そんなものが混ざっていて、胸がきゅうっと痛むのがわかった。


 私と別れた後、ジョンに何があったのかはわからない。

 けれども彼の口ぶりからするときっと、順風満帆というわけにはいかなかったのだろう。

 ひょっとすると彼も、あの頃の私のような絶望感だとか喪失感だとか無力感だとか、そんなものを感じるようなできごとがあったのかもしれない。


 そこまで考えた時に、私の心にぱっと浮かんだのは「彼の力になってあげたい」という気持ちだった。


 あの頃「騎士になる」という目標をなくして空っぽだった私のそばに、変わらずにいてくれたのはジョンだった。

 あんな形で別れることにはなってしまったけれど、あの頃の私がジョンの存在に救われていたのは、紛れもない事実だ。

 もしも彼があの頃の私のような気持ちを味わっているのであれば、今度は私が彼の手助けをしてあげたい。

 ……きっとそう思うのは、幼馴染である彼に対する情のようなものがあるからなのだろう。


「……私と恋人としてやり直すことが、あなたにとって力になるの?」

 私がそう尋ねると、ジョンはぱあっと表情を輝かせて「もちろんだよ!」と言った。

「仕事が忙しいから、あなたが思うような〝恋人らしいこと〟ができるかもわからないわよ?」

「構わないよ。僕はただ、またあの頃みたいに君のそばにいたいだけなんだよ」

「そう……。なら、これからよろしくね」


 私の中に、ジョンに対する恋心はない。けれどこれで、彼の力になれるのなら……。

 そんなことを考えながら右手を差し出すと、ジョンは「本当に、本当にありがとう!」と言って、私の手を自身の両手で包み込むようにして握り返した。


 その時のジョンの手が温かかったのか冷たかったのか、残念ながら私は覚えていない。

 その時の私は、私との復縁を心から喜ぶジョンの目の前で、「ジョンと復縁したと知ったら、エドウィンはなんて言うかしら」なんてことを考えていた。

 そしてやっぱり、「この場面でそんなことを考えてしまう自分は、どう頑張ってもヒロイン的な女の子にはなれないのだろうな」と、そんなことを思っていたのだった。

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