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「……えっ?」

 玄関を開けた私が思わずそんな声をあげてしまったのは、完全に油断していたからだった。


「油断していた」という言葉を使うと、なんだか悪いことが起こってしまったかのように感じられるけれども、それ以外に言いようがないのだから仕方がない。

 テディベアに出迎えられるのは、いつも私がウォルトと二人で帰宅する日だったので、まさかエドウィンと共に玄関でその子と向き合うことになるとは、全く思ってはいなかったのだから。


 テディベアの手元に置かれているのが生花なのも、今までにはなかったことで、光沢のあるオーガンジーとリボンでラッピングされたその赤い花に、私は思わず目を奪われる。

「あの子が持ってるのは、薔薇かしら?」

「……そうだよ」

 そう応えたエドウィンの声は、後から考えるといつもより少し硬かったようにも思われるけれども、その時の私は予想外のプレゼントに気を取られていて、エドウィンのいつもとは違う様子に気がつくことができなかった。


「花束なんて貰ったの、生まれて初めてだわ」

「三本で『花束』って呼んで良いのかは微妙だけどね」

「数が多ければいいってものでもないでしょう? ……どうしよう、とっても嬉しい」

 そんな会話をしながら、私はテディベアが持つ花束に手を伸ばす。


 単体だと気高すぎて取っ付きにくい印象を与えることもある真っ赤な薔薇が、たっぷりとしたオーガンジーで守られるように包まれていることで、なんだかとても可愛らしく感じられて、思わず笑みが漏れてしまう。

 けれどもそれと同時に、花束にメッセージが添えられていないことに気がついた私は、ほんの少しだけ残念な気持ちにもなってしまい、「随分と欲張りになったものね」と心の中で自嘲する。


「……いつもありがとう。本当に嬉しいわ」

「ううん、俺がやりたくてやってることだから」

 エドウィンは真剣な表情でそう言った後で、何かを言いかけて口を開き、そしてそのまますぐに閉じた。


 そんなふうにして口籠もる彼を見るのは珍しいことで、私は思わず「エドウィン?」と呼び掛ける。

 すると彼は、伏せていた目をゆっくりと、本当にゆっくりとこちらに向けた。

 そうして向けられた彼の濃紺色の瞳は、相変わらず見惚れるくらいに美しくて、けれどもそこにはいつもと違った決意のようなものが見て取れる。


「……今日は、メッセージをつけていないんだ」

「そうね。私も『今日はないのね』って思っちゃったわ」

「楽しみにしてくれてた?」

「……ええ」

「そっか、嬉しい。でも今日だけは手紙じゃなくて、直接伝えたいなと思ったからさ」

 エドウィンはそこで一旦言葉を区切ると、真剣な表情で「好きだよ」と言った。


「俺は、レベッカのことが好きだよ。ずっと好きだった」

 そう言いながら私に向けられているエドウィンの視線は、いつか見たオスカーがフィオナに向ける視線にそっくりで、私はそんな彼の視線から逃れることができなくなってしまう。


 真っ直ぐに気持ちを伝えてくれるエドウィンに、そしてそれ以前から口先だけではなく行動で私を大切にし続けてきてくれたエドウィンに、すぐにでも返事をするべきだということはわかっている。

 けれどもその時の私は、目の前に迫る彼の宝石のように美しい瞳を、ただただ見つめ返すことしかできなかった。


 ◇◇◇


 結局、エドウィンからの告白に対して、私は返事をすることができなかった。

「……急に言われても困るよね、ごめん。俺としては、ただ伝えたかっただけだから」

 彼はそれだけ言うと、その後は私に返事を求めてくるようなこともなく、普段通りに接してくれた。


 今まで通り、ウォルトの都合が悪い時にはエドウィンに自宅までの送り迎えをしてもらい、私の家で一緒に食事をとったり、たまに外に食事に行ったりもする。

 それが二人きりのこともあれば、ウォルトを含めた三人になることもあり、それらも全てが今まで通りの行動だった。


 しかしどうやら、ウォルトには何か思うところがあったらしい。

「姉さん、エドウィンさんと何かあったでしょ?」

 ウォルトにそんなふうに尋ねられたのは、あの告白から半月程が経過した、エドウィンが長期遠征に出掛けている間のことだった。


「……何かってなによ?」

 ウォルトからの問い掛けに、一瞬胸がどきりとはしたものの、それを悟られないように、私はなるべく平坦な声色でそう返す。

 けれどもウォルトは私の返事を聞いて、わざとらしく「はあー」と大きく溜息を吐くと、「姉さんがそういう応え方をする時は、何かがあった時なんだよ。何年姉さんの弟をやってると思ってるの?」と、呆れたような表情で言った。


 とはいえ、エドウィンと私の間の出来事を、彼の許可もなくウォルトに話すことなんてできない。

 特に今回に関しては、〝告白〟なんていう至極デリケートな内容なのだから、された側の私がペラペラと第三者に言いふらすようなことではない。

 そう思って、「でも、あなたには言わないわ」と応えたものの、ウォルトは「僕、多分当てられると思うよ」と言って意味ありがな笑みを浮かべた。


「姉さん、エドウィンさんから告白されたでしょ?」

「…………」

「ほら、否定しない。絶対そうだ」

「……なんでわかるのよ」

「姉さんがわかりやすすぎるんだよ」

 そう言った後で「エドウィンさんは普段通りなのにさあ」と続けるウォルトは随分と楽しそうで、「人の気持ちも知らないで」と、八つ当たりでしかない気持ちが湧き上がる。


 けれどもウォルトはすぐに私に向き直り、「……で、姉さんは何を怖がってるの?」と聞いてきた。

 私を正面から見据える彼は真剣そのもので、私は思わず姿勢を正す。

「……怖がってるってどういうこと? 私は単に、彼からの告白を受け入れるかどうか、迷っているだけよ」

「じゃあ、どうして迷ってるの? エドウィンさんのこと、姉さんだって好きなくせに」


 身内とする恋愛の話なんて、普通に考えれば気まずいことこの上ない。普段だったら、「なんで弟とこんな話しないといけないのよ」と笑って、会話を終わらせていたはずだ。

 けれども今は、そんなふうにして逃げていい場面じゃないなと、そう思った。


「……エドウィンは、素敵な人でしょう? ここが物語の世界なら、彼はきっとヒーロー的立ち位置の人物だと思う」

 おそらく「なぜ告白を受け入れないのか?」という問いに対する返事として、予想していた内容とはかけ離れていたのだろう。ウォルトは私の言葉を聞いて「えっ?」と驚きの声をあげた。

 しかし私は、そんなウォルトの反応には気がつかないふりをする。


「エドウィンのことは好きよ。それに、彼からの好意が真剣なものだってこともわかってる。けれど、だからこそ『私のような人間が彼の隣に立ってもいいのかしら?』って考えちゃうの。 だって私は、フィオナさんのような、ヒロインみたいな女性じゃないんだもの」

 そう言いながら私は、自分の手元ばかりを見ていた。

 私の悲観的な考えを打ち明けられて無言になってしまっているウォルトの、困っている姿を見ることができなかった。


「……エドウィンさんは、ヒーローなんかじゃないよ」

 その後訪れた気まずい沈黙を破ったのは、ウォルトのそんな言葉だった。

「そう? あなたからしたらそうかもしれないけれど、私からすれば手が届かないような、高嶺の存在に感じるわ」

 そう言って笑ってみたけれど、ウォルトは必死な顔をして首を横に振る。


「僕だってエドウィンさんのことを尊敬しているし、すごい人だとは思う。けど、そうじゃなくって。僕は『あの人だって普通の人だよ』って、そう言いたいんだ」

「それは、あなたがそちら側の人間だからじゃない?」

「違うよ。そもそも、『そちら側』とか『こちら側』とか、そんなものはないんだよ。エドウィンさんだって普通の人だよ。僕や姉さんとおんなじで」

「……そうかしら?」

「そうだよ!!」


 堪え切れないといった様子で、ウォルトが突然大声を出すものだから、思わず肩がぴくりと揺れてしまう。

 ウォルトはそんな私を見て、小さな声で「……ごめん」と謝ったのだけれど、その後すぐに泣きそうな顔をして「でもさ」と話を続ける。

「でもさ、エドウィンさんはやっぱり普通の人なんだよ。物語のヒーローみたいに、なんでもできるわけでもなければ、いつでも格好良いわけじゃない」

 ウォルトは一旦そこで言葉を区切ると、ゆっくりと言い聞かせるように、私の目をじっと見つめながら口を開いた。


「エドウィンさんだって、ずっと好きだった女性が他の男と付き合い出したことを嘆いたり、弟を通じてその女性の近況を探ってみたり、婚約者と別れたその女性と今度こそ付き合えるように必死になったり……。時にはそうやって格好悪くもがいてる、普通の人なんだよ」

 そう言って涙目で鼻をすするウォルトを見て、私はそれ以上彼の言葉を否定することはできなくなってしまったのだった。


 ◇◇◇


「あら? レベッカもお買い物?」

 特に目的もなく城下町を歩いていた私の耳に、フィオナの弾んだ声が飛び込んできたのは、まもなくエドウィンの長期遠征も終わるという休日のことだった。

 ふんわりとしたブルーのワンピースを纏ったフィオナは、周囲の人々の目を引くほどに美しく、私は思わず目を細める。


「ええ。でも、目的があって来たわけではないのよ。なんとなく見て回っていただけ」

 私がそう応えると、フィオナはぱっと顔を綻ばせて「私もよ」と言った。

 貴重な休日にフィオナが一人で出歩いていることを、一瞬不思議には思ったものの、今回の長期遠征の参加者の中にはオスカーの名前も入っていたことを思い出し、頭の中で納得をする。


「オスカーが遠征中だから、家に一人になっちゃうでしょう? なんだか寂しくなって出て来ちゃったの」

 そう言ってはにかむフィオナは、同性の私から見てもとても可愛らしくて、結婚して数年が経ってもなおこんなふうに言ってもらえるオスカーを羨ましく思った。


「あのね、もしもレベッカさえよければなんだけど、どこかでお茶でもしていかない?」

「もちろん構わないわ。どこか行きたいお店はある?」

「私はあまり詳しくなくって……。レベッカはどこか知ってる?」

「それなら、少し先に雰囲気の良いお店があるから、そこにしましょう」


 そんなやり取りの結果、フィオナを案内したのは何度かエドウィンと一緒に訪れたことのあるカフェで、「紅茶の種類が豊富だから、私もエドウィンもお気に入りのお店なの」と紹介する。

「エドウィンも? このお店は、二人でよく来るの?」

「『よく』ってほどではないわ。何度か来たことがあるって程度よ」

「ふうん?」


 その後私達は、他愛のない話で盛り上がった。

 最近買った服の話や、新しくオープンしたレストランの話。今話題の化粧品の話に、そして職場の愚痴もほんのちょっと。

 今までそんなふうに話せる相手がいなかった私は、フィオナと過ごす時間が楽しくて仕方がなかった。

 そして、学生時代にあんなことがあったにもかかわらず、ここでこうしてフィオナと笑い合っていることに、なんだか不思議な感覚を抱いたのだった。



「……そろそろ帰らなくちゃならないわね」

 フィオナがそう言った時、外は薄っすらと暗くなり始めていた。

「今日は、付き合ってくれてありがとう。レベッカとたくさんお話ができて、本当に楽しかったわ」

「私も、フィオナと話せてよかった」

「……あーあ、オスカーがいない家に帰りたくないなあ」

 そう言いながら唇を僅かに突き出すフィオナに、私は思わず笑ってしまう。


「本当に、あなた達が羨ましいわ。……こんな思いを抱くこと自体、身の程知らずなんだろうけど」

 その言葉は私の本音ではあったけれど、今までの他愛のない雑談の延長のようなものだった。

 けれどもなぜか、フィオナにとってはそうは思えなかったらしく、彼女は表情を硬くして「身の程知らずって?」と尋ねてきた。

 そう問うフィオナの瞳は真剣そのもので、適当な言葉で誤魔化すことはできそうにない。


「……あなた達を見るたびに思うのよ、『理想の夫婦ってこういう二人のことを言うんだろうな』って。だから、羨ましいなって思うのも本心なんだけど、それと同時に『選ばれた人間じゃないとこうはなれないんだろうな』とも考えてしまうの。だってほら、あなた達って物語のヒーローとヒロインみたいな二人じゃない?」

 私の最後の一言を聞いて、フィオナが一瞬身体を強張らせるのがわかった。

 けれどもそれは本当に一瞬の出来事で、彼女はすぐにふわりと笑うと「私のこと、どんなふうに思っているのよ」と言った。


「『理想だ』って言ってくれるのは嬉しいけれど、私達も喧嘩をすることだってあるわ。それに、騎士の妻は夫を支えるために家庭に入る人が多いでしょう? にもかかわらず文官として働き続ける私のことを、『騎士の妻としての自覚がない』って悪く言う人がいることも知ってるわ」

 フィオナはそこで一旦言葉を止めると、何かを思い出すような仕草をした後で「ふふふっ」と声をあげて笑った。


「それに私、ウォルト君とオスカーが恋仲なんじゃないかって勘違いしたことだってあるのよ」

 予想してもいなかったフィオナの告白に、つい「嘘でしょ!?」と大きな声が出てしまったのだけれど、フィオナは涼しい顔をして「本当よ」と返事をする。


「あの子、なにかフィオナを勘違いさせるようなことしてしまったの? だとしたらごめんなさい」

「違うのよ。ウォルト君もオスカーも、なんにも悪くないわ。ただ、私が勝手に自信をなくして、勝手に勘違いしちゃっただけ」

 なんでもないことのようにそう言うフィオナを前にして、私は「あれほどまでにオスカーに溺愛されていて、どうしてそんなことに?」と疑問を抱く。


 おそらくそんな私の気持ちが伝わったのだろう。フィオナはにっこりと笑うと「不思議よね」と言った。

「今思い返すと『そんなわけないじゃない』ってわかるんだけど、当時は本気だったわ。多分、人って自分が見ようとしてるものしか見えないのよ」

 そのままティーカップへと手を伸ばすフィオナは、相変わらず妖精のように美しかったけれども、〝手の届かない高嶺の存在〟には感じられなかった。


「自分を幸せにしてあげられるのは、最終的には自分自身しかいないのよ。レベッカが、レベッカ自身の幸せを諦めちゃだめ。ちゃんと、幸せになれるようにもがかないと」

 ティーカップに口をつける前、フィオナが発したその言葉はやけに説得力があって、「きっと彼女もそんなふうにもがいた経験があるのだろうな」と、そう思わされたのだった。

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