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 その後私とジョンの間で話し合いの場が持たれることはなく、従って私達の関係が改善することもなく、冒頭(プロローグ)


 家を飛び出した私は、とにかく走った。

 悪いことをしていたのはジョンなのに、なぜか浮気現場を見てしまったことに罪悪感を感じながら。「浮気を知ってしまったことは隠さなきゃ」なんてことを思いながら。


 目的地があったわけではない。

 けれども、「とにかくこの場を離れたい」という一心で辿り着いたのは、城下町の広場だった。

 しんと静まり返っていた住宅街が嘘のように、そこは幸せそうに笑い合う老夫婦や若い恋人達で賑わっていて、私だけがこの世の全ての不幸を背負い込んでいるような気持ちにすらなる。


 …………私はこれから、どうしたらいいんだろう。


 広場のベンチに座りながら涙を流す私は、本当にひとりぼっちだった。


 ◇◇◇


「すみません。オスカーへのお祝いなんですが、選びきれませんでした」

 就業時間間際に、その言葉と共に職場に戻った私を目にして、事務室内は水を打ったようにしんとした。


 メイクもろくに直さず、ぼろぼろの状態で職場に戻った私は、誰がどう見ても異様だったことだろう。

 私だって、こんな状態で戻るべきではないということくらいわかっていた。

 けれども、身なりを整えるだけの力すら、私には残されていなかった。


「業務中に抜けて行ったにもかかわらず、申し訳ありません。休みの日にきちんと選んできます」

 そう言って頭を下げる私の元に、難しい表情を浮かべた室長がやってくる。

「……何かあったかい? もし私に言いづらければ、誰か女性を呼んでこよう」

 いつもより離れた位置からそんなことを言う室長は、私が何かしらの事件に巻き込まれたのではないかと危惧しているのだろう。


「いえ、心配してくださっているようなことではありません。……私事を職場に持ち込んでしまって、申し訳ありません」

 私を娘のように可愛がってくれている室長にいらぬ心労を掛けてしまったことに胸が痛み、頭を下げて謝ると、彼はあからさまにほっと力を緩めて「そういう時もあるよ」と言った。


「もちろん、いつもそれでは困るけどね」

 悪戯っぽく加えられたその言葉から、室長の心遣いが痛いほどに伝わってきて、私はもう一度深々と頭を下げたのだった。



「今日はもう落ち着いているから、このまま帰りなさい」

 午後からの業務を意図せずさぼってしまったのだから、「その分の仕事は終わらせます」と申し出たものの、室長はそれを許さず、他の事務官もそれに同調した。


「幸いにも明日は休みだ。ゆっくり休んで、自分を労ってあげなさい」

 優しい顔でそう言う室長の言葉には、曖昧に笑って「はい」と答えたのだけれども、私は家に帰れずにいた。

 だって、ジョンが浮気相手と密会していたあの家に、どんな顔をして帰れと言うのか。


 弟のウォルトを頼ろうかとも思ったけれども、騎士団の一員である彼は、現在寮暮らし。

 騎士団の寮は家族や友人の立ち入りを禁止してはいないけれども、いくら血の繋がった家族であれ、男性寮に異性を泊めるのはさすがによろしくないだろう。


 ……となると、今日は実家に帰るしかなさそうだ。

 学生時代にとりわけ仲が良い友人がいたわけでもなければ、職場に「泊めてほしい」とお願いできるほどに親しい人間がいるわけでもないのだから、他に候補など思いつかない。

 父とは長らく会話らしい会話もしていないので、こんな形で顔を合わせるのは気まずいことこの上ないけれど、他に方法がないのだから、覚悟を決めるしかない。


 そんなことを考えながら、騎士団の演習場の前を通った時だった。

「レベッカ……?」

 久しぶりに聞く、けれども耳慣れたその声に、私はぴくりと肩を揺らす。

「何があったの? どうしてそんな……」

 悲しげに顔を歪めながら絶句するエドウィンは稽古着姿のままで、まだ職務の途中であることが見て取れる。


 もしもここで私が涙を流せば、彼はきっと付きっきりで私を慰めてくれるだろう。

 けれども私は、それをしたくはなかった。

「私は大丈夫だから、気にせずに行って?」

 そう言って無理やり口角を上げると、エドウィンはますます悲しそうな顔をした。

「……君が大丈夫でも、僕が大丈夫じゃないんだよ」

 エドウィンはひとりごとのようにそう呟くと、「少しだけ待ってて」と言い残して演習場へと向かい、すぐそばにいた騎士を呼び止めた。


 年配のその騎士と二言三言会話をしたエドウィンが、その後深々と頭を下げるのを、私は少し離れた位置からぼんやりと眺める。

 背筋がぴんと伸び、どこか気高さをも感じられるその姿は、いつか見た〝フィオナさんのために頭を下げるオスカー〟を思い起こさせて、どうしてだか胸がどきりとした。


「お待たせ」

 そんな言葉と共にこちらへと駆け寄ってきたエドウィンは、私の前でぴたりと立ち止まり、「どこか、場所を移そうか。……もちろん、レベッカがよければだけど」と言った。

「仕事は? まだ終わってないんじゃないの?」

「大丈夫、代わってもらったから」

 エドウィンはそう言ってからりと笑ったけれども、私は内心で冷や汗をかく。


「……やっぱり、いいわよ。戻って。そんなたいしたことではないから」

 だってそんな、ただの同僚にすぎないエドウィンにそこまで迷惑は掛けられない。

「今ならまだ間に合うでしょ? 仕事に戻ってよ。こんなことであなたの評判を落とす必要はないわ」

 そりゃあもちろん、急用で任務を代わってもらわなければならない場面はあるだろう。

 でも、それは今じゃない。私は、エドウィンにそんなことをしてもらえるような立場にない。


 だから、私のその言葉は、エドウィンのためを思って発したものだった。

 けれども彼は少しむっとした顔で「『こんなこと』なんて言わないでよ」と言った。

 そしてすぐにぱっと表情を切り替えると、「この程度で評判を落とすような人間だと思われてるなんて、心外だなあ」と続けた。

 ……これ以上拒ませないための、彼らしい言い方だ。


 実際、そう言われてしまうと、これ以上彼に「仕事に戻るように」と言うわけにもいかない。

「……本当に、聞いて『なんだそんなことか』って後悔するようなことかもしれないわよ?」

 わざとぶっきらぼうに言ってみたけれど、エドウィンは心なしか嬉しそうに「全然構わないよ」と言った。


「それに、気分が良い話でもないし」

「それはまあ、今のレベッカの状態を見ればわかるよ」

「多分だけど、反応に困っちゃうと思うわ」

「その時は素直に『反応しづらいなあ』って言うよ」

「……なによ、それ」

 思わずふふっと笑い声が漏れてしまったけれども、そんな私を目にしてエドウィンは少しだけほっとしたような表情を浮かべたのだった。



 そのまま彼に先導される形で辿り着いたのは、王宮の庭園を臨むベンチだった。

 たとえここで適当に誤魔化そうとしたところで、エドウィンには通じないだろう。

 それに、わざわざ任務の交代を願い出てまで私の話を聞こうとしてくれている彼に、本当のことを言わないのも不誠実な気がする。

 そう思った私は、エドウィンがベンチに腰掛けるのを見るや否や「ジョンに浮気されていたのよ」と言った。

 かつて私がエドウィンにジョンとの復縁を報告したこの場所で、今度は彼の裏切りを打ち明けることになるだなんて、あの頃は思ってなかったな……なんてことを考えながら。


「お昼に、少しだけ自宅に立ち寄ったの。今はジョンと一緒に住んでるんだけどね。玄関のドアを開けたら、女性の靴があったのよ」

「嫌な予感がしてこっそり中に入ったら、脱衣所には服が脱ぎ捨てられていてね。シャワールームから、女性の甘ったるい声が聞こえたわ」

「シャワールームに突撃する勇気はなかったから、顔は見てないの。だから、『彼じゃないかも』って考えてもみるんだけど……そんなわけないじゃない。脱ぎ捨てられていた靴も服も、彼のものなんだから」


 ……きっと、こんなにめちゃくちゃな話し方じゃ、エドウィンはほとんど理解できなかっただろう。

 けれども彼は私が話し終わるまで口を挟むことなく、ただただ真剣な表情で耳を傾けてくれた。


「……玄関にあったのは、可愛らしいパンプスだったわ。ヒールが低くって、爪先が丸いの。きっと、相手はあの可愛らしい靴が似合うような女性なのよ」

 そう言った後に「いいわね」という言葉が漏れたのは、完全に無意識のことだった。

 その途端、今まで真剣な表情を浮かべていたエドウィンがくしゃりと顔を歪めたのがわかった。

 その表情があまりにも悲痛なものに見えて、私は胃の辺りがずーんと重たくなるような気分になる。


「……ごめんなさい、聞いてくれてありがとう。長々と話してしまったわね。そろそろ帰りましょう」

 私のせいで心を痛める彼の姿を見ていられなくて、わざと明るくそう言ってみたけれど、エドウィンは立ちあがろうともせず、それどころか「あと少しだけ、時間をちょうだい」と言った。


「君の弟から、ジョン君との結婚が決まっているって聞いていたんだけど……もちろん、白紙に戻すんだよね?」

 続けられた言葉は、質問というよりむしろ、懇願のようにも聞こえた。

「どうかしらね。……わからないわ」

 私のその返事を聞いて、エドウィンがぐっと下唇を噛む。

「どうして? レベッカは、浮気されても『結婚したい』って思うくらいに、あいつのことが好きなの?」

 そんなエドウィンからの問い掛けには、答えられなかった。


 だってもし、理想だけを語るのであれば、私だってオスカーとフィオナさんのような夫婦になりたい。

 お互いを尊重し合えるような、お互いの欠点を補い合えるような、そしてお互いがお互いを大好きであることが側から見ていてもわかるような、そんな夫婦になりたい。

 けれども、私はフィオナさんじゃないから。彼女のような、ヒロインのような、選ばれた人間じゃないから。

 だから。


「……身の丈に合わないことを望んだって、がっかりするだけなんだもの」

 口から出たその言葉は、間違いなく私の本心だった。

 けれどもなぜか、エドウィンの顔を見て言うことができずに、私は自分の手元ばかりを見ていた。


 エドウィンが、今何を考えているのかはわからない。

 私達はそれからしばらく言葉を交わすことなく、その場に並んで座っていた。

 遠くから微かに聞こえてくるのは、自主的に稽古をしているの騎士達の声なのだろう。


「……レベッカは自分のことだから、客観的に見れてないのかもしれないけどさ」

 長らく続いた沈黙を破ったのは、エドウィンのそんな言葉だった。

 ゆっくりと言葉を選ぶようにして口を動かすエドウィンだけれども、私に向けられた真っ直ぐな視線は射抜くように鋭く感じる。


「君はそんな最低な男に雑に扱われていいような人間じゃないよ。それは、学生時代から見てきた俺が保証する」

 彼はそう言った後で、「まだ婚約者なのに『最低な男』なんて言ってごめんね」と、悲しげに笑った。

 彼のその言葉に、私は黙って首を横に振る。

 だって、彼の言葉にどこかすっきりしてしまったから。きっとそれが、私の中の答えなのだろう。


 ようやくそのことに気がついた途端、視界がじんわりと滲むのがわかった。

 拳を強く握りしめてみたものの、堪えることができずに、瞬きと共にぱたぱたと涙が溢れて出る。

 隣に腰掛けるエドウィンが、そんな私に気づかないはずがない。

 けれども、彼は私に手を触れることも、慰めの言葉を掛けることもせず、こちらを見ることすらなかった。


 今の私達の間には、片方だけが手を伸ばしても届かないくらいの距離がある。

 だから、並んで座っているからといって、エドウィンの体温を感じるようなことはない。

 それでも、私の隣に彼がいてくれるおかげで「私にも味方がいるんだ」と、そんなふうに思えたのだった。

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