17 予告なしの襲来
「あら佑紀、どこに行っていたの?」
ランニングから自宅に帰り、リビングに足を踏み入れた時、母さんが掃除機片手にそんな事を尋ねてきた。
「ちょっとランニング」
と、時計に目を向けると時刻は九時半だった。
早朝六時から実に三時間半も走っていたのか俺は。
我ながら良くやるなぁ、なんて思ったりしたが、恐らく有沙や曽根はもっと早くから練習をしていたと思われる。
上には上がいるもんだな、どんな世界にも。
「そうだったの。今、朝ご飯用意するから待っててね」
「はーい」
と、のんびりとした返事をして食卓に腰をかける。
ほんのしばらく待つと目の前に朝食が並べられた。
母さんがこっちに戻ってきてから何度も思ったことだが、黙ってても出てくるご飯とは何とも素晴らしいものだ。
転校してきてからというものの、朝昼晩全てを自分で用意していたわけだから、惣菜にしろ外食にしろ動かなければならない。
その手間が無くなるというのは実に素晴らしい。
母さんは後一週間程度したらアメリカに戻ってしまう。
だから今は、この甘え切った期間を思う存分堪能させてもらうとしよう。
何せ、その後は渚沙と二人暮らしなのだから……。
※※※※※
朝食を食べ終え、ソファーに寝転んでいた時にふとあることが頭を過ぎった。
「なぁ、あのアホはまだ寝てるん?」
今俺が寝転んでいるソファーで、日頃寝転びながら尻をポリポリ掻いたりしてダラダラしているのは他ならぬ渚沙である。
時刻は十時。
まだ寝てると言われれば、あぁ、やっぱ渚沙だな、で終わるし昼過ぎまで寝ててもそれもやっぱ渚沙だな、で終わるのだが、ふと気になって聞いてしまった。
「渚沙ならもうとっくに起きてるわよ」
アホで渚沙だと通じるのだから恐ろしい。
まぁ、今この家には俺と母さんと渚沙の三人しかいないわけだから、この場にいる俺と母さんを除くと必然的に渚沙になるのだが。
「へぇー、そうなんだ」
自分から聞いておいて、何とも興味なさげな反応をしてしまったなと思う。
が、聞いてしまったものの、起きていても別に興味ないから仕方がない。
ただ一つだけ言えることは、後でリビングに来てそこを退けと言われても絶対退いてやらねぇ。それだけだ。
それから十分程テレビをダラダラと眺めていた時だった。
リビングの扉が開き、渚沙が中に入ってきた。
渚沙の気怠げな視線が俺に向けられる。
さあ来いっ! 絶対退かねえからな?
なんて、臨戦態勢を取り身構えてみたものの、俺の存在を視界から消すように渚沙の視線が俺から外れた。
――っ?!?!?!?!
あれ……? そこを退けって来るんじゃないの?
わざわざ臨戦態勢まで取ったのに、凄く拍子抜けなんだけど。
「お母さん、ジュースとお菓子」
渚沙は母さんにそれらを用意しろとぶっきら棒に命令する。
「そのくらい自分で用意してみなさい、まったく……」
母さんは呆れたように渚沙の要求を退ける。
「お兄ちゃん、ジュースとお菓子」
渚沙は次は俺にそう命令してくる。
「いやいや、お前の方がどう考えても台所に近いだろ。つか、何で自分が飲み食いするわけでもねーのに俺が動かなきゃなんねーんだよ」
当たり前だが、俺もその要求を退ける。
「このエロ兄貴……。もう良いっ……!」
渚沙は何故か突然に俺をエロ兄貴と罵り、苛立ちながら台所に向かった。
「エロ兄貴って、佑紀、渚沙に何か変な事してないでしょうね?」
「――してねーよっ!」
「――されてねーよっ!」
母さんの俺への問いかけに、俺が否定すると同時に台所から渚沙も声を荒げた。
「そう、なら良いけど。それにしても偉いわね渚沙、奇跡的に自分で用意するなんて」
何故、我が妹はただ自分でジュースとお菓子を準備しているだけで母親に褒められているのだろう。
この件に関しては、兄である俺としてはあまり口を開きたくはない。
ただ一つ願うなら、このまま何でも自分でやるようになってください。それだけだ。
それにしても、やけに時間が掛かってやがる。
ただコップにジュースを入れてお菓子を手に取るだけなのに、既に二分程経過している気がするのだが、俺の気のせいだろうか。
いや、気のせいではない。
まさか、渚沙がただそれだけのことに手こずるなんて、流石の俺でも考えもしなかったぞ。
そう思った時、ようやく渚沙が台所から出てきた。
何故か、お盆を両手で支えている。
その上には、恐らくジュースが入っているであろうコップが三つと先日俺が買ってやったお菓子が乗っている。
「何で三つ……? ――まさかっ?! 俺たちの分まで用意してくれたのかっ?!」
そんな渚沙の姿に目を疑うと同時に、少なからず、いや、とても感動している俺がいた。
「そんなわけねーだろバーカ」
だが、俺の感動も一瞬、直ぐにそれは否定された。
渚沙は気怠げに俺にそう言って――。
「お母さん、両手塞がってるからドア開けて」
――母さんにそう指示した。
「はいはい」
母さんが食卓のイスから立ち上がり、リビングの扉を開けると渚沙はそこから出ていった。
「……は? あいつ、三つも飲むん?」
どおりで用意するのに時間が掛かっていたわけだなぁと思うと同時に、何故三つも用意したのだという疑問が頭の中を駆け巡った。
「違うわよ。お友達が来てるのよ」
「あぁー、なるほど」
理由を聞くと、すんなり納得できてしまった。
全然騒ぎ声とか聞こえなかったし、帰ってきた時も玄関に靴が散乱していることもなく何の違和感も無かった為、全く気付かなかった。
まぁ、久々の再会に花を咲かせているのだろう。
邪魔しちゃ悪いし、俺は自室に戻ったりせずここで大人しくしておこう。
それから十分程、邪魔はしないが生理現象は我慢出来ない。
別に二階に行くわけでもないし、トイレくらい自由に行かせてもらおう。
と、立ち上がりトイレに向かい、用を足してからリビングに戻ろうと扉に手を掛けた時だった――。
目に入ってしまったのだ。
玄関に脱ぎ散らかされた俺の靴とは対照的に、綺麗に並べられている靴の中に二足、うちの誰かの物ではない女物のスニーカーが。
これだけなら、渚沙の友達が来てるんだからそりゃそうだろ、となるはずなのだが、二足のうちの片方は明らかに見覚えがある物だ。
「渚沙の友達って……、陽歌?」
リビングに入り母さんにそう尋ねる。
「あら、気付いたの?」
「何で教えてくれないし。それ、俺の友達じゃねえか」
「だって陽歌ちゃんが、佑紀が帰って来てもしばらくの間いること秘密にしておいてって言うから」
「わっけわかんねーな」
どうして来ていることを俺に知られたくなかったのだ。
それ以前に、玄関に当たり前の様に並べられている陽歌のスニーカーに気付かない俺も大概なのだけど。
「で、もう一人は誰? 渚沙の友達?」
「知り合いみたいだけど、佑紀の同級生みたいよ? すっごく可愛い子だったけど、息子があんな子と知り合いなんてママ嬉しいわ……!」
と、母さんは流れてもいない涙を拭く素振りを見せる。
「名前は、杠葉綾女ちゃんって言ってたかしら? 杠葉神社っぽい名字よねぇ~」
「いや、実際そうだし。――じゃなくてっ! 来てる事もっと早く教えろやっ!」
これはまずい……! 非常にやばい……!
いや、どれだけ焦ろうがもはや絶対手遅れなのだが、焦らずにはいられない。
ただうちに来ただけなら特に何の問題もないのだが、陽歌の奴が来ていることをわざわざ隠してやがるのを考慮すると問題大アリだ。
本日、奴らがうちに襲来した理由――。
そんなのたった一つ、俺の部屋の押し入れの中にある、とある物が目的に決まってる。
それなら、先程渚沙が俺にエロ兄貴とか罵ってきたことも頷ける。
いや、頷けるかっ! 陽歌の奴、妹になんてもん見せてくれてんだよ。
クソがっ! こんな事ならさっさと殺処分しておくべきだった。
放置していたツケがこんなにも早く回ってくるなんて……!
しかも、何時に来たのか知らねーけど、俺がランニングしてる間って、早すぎだろっ!
遅くとも九時半より前って、テメェらどんだけ見たいんだよっ……! そんな早く来なくても逃げたりしねーよ?
おまけに、来るって予告もされてねーし。
「ん? どうしたの佑紀? おでこの汗が凄いけど」
「――なんでもないっ!」
声を荒げリビングから出ると、後ろから母さんもノコノコとついて来た。
「おい、マジでついて来ないで。お願いだからやめて」
「どうしてよ?」
そんなのっ! 母親にエロ本なりそういった類の物を所持ってることを知られたくないからに決まってるだろがっ!
言葉にするわけにはいかない理由が頭を駆け巡った。
「良いからっ! 絶対ついて来んなよ? フリじゃねぇからな? 来たら一生口聞かねえからな?」
もはや、俺の目的はとにかく母親にバレないことにすり替わっていた。
何故なら、二階に行ったところで既に時遅しだから。
なのに、どうして俺は階段を上っているのだろうか。
手遅れならもはや放置でも良い気もしたが、動く足が止まらなかった。




