17 ストーカーライフ終幕の日
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芽衣には憧れの先輩がいる。
椎名佑紀先輩、芽衣の初恋の相手だ。
中学校に入学してから初めての夏休みのことだった。
芽衣は中学校で知り合ったお友達から、その子の小学校の同級生の男の子がテニスの全国大会に出ることになったから一緒に来てほしいと頼まれた。
その男の子のことが好きだけど、一人で行くのが恥ずかしかったらしい。
芽衣はスポーツなんて興味なかったし面倒だなって思っちゃったけど、せっかくできた交友関係は崩したくない。
お母さんに、会場がある大阪までの新幹線代をせがんだことを覚えている。
流石にお金がかかりすぎるけど、その日だけ特別にってお母さんは交通費をくれた。
お友達もそれで了承してくれたから、芽衣は人生初のスポーツ観戦に行った。
その友達は、観に行く大会が部活動の全国大会ではなくテニスのジュニアの全国大会という説明もしてくれたけど、当時は何のことやらさっぱりだった。
でも、この誘いは芽衣にとって転機だった。
芽衣たちが応援に行った男の子は一回戦を勝った後、当時の全国ナンバーワン選手と対戦することになった。
お友達には悪いけど、スポーツなんて何にもわからない芽衣から見ても、惨敗の一言でしか言い表せないほどのボロ負けだった。
一学年上の選手が相手とはいえ、同じ全国レベルの選手にも関わらず天と地の実力差。まさにそんな感じだったのを覚えている。
お友達は悔しそうに顔を真っ赤にして、瞳をうるうるさせていた。それほどあの男の子のことが好きで、負けたことが悔しかったみたい。本来なら慰めの言葉をかけてあげたりするべきだったんだと思う。
でも、その試合を観た芽衣にとって、そんなことはどうでも良くなってしまっていた。
その日一日だけしか行けなかったけど、芽衣にとって大きな意味のある一日だったから。
芽衣は試合中、対戦相手の選手に釘付けになっていた。
なんてエレガントで優雅なプレーなんだろうって、ただのど素人の芽衣が、スポーツに何の興味もなかった芽衣が、感動してしまっていた。
カッコ良かった。スポーツでカッコいいなんて思ったのは初めてだった。
その選手こそが、椎名佑紀先輩だった。
家に帰ってからも、芽衣の頭からはあの人のことが離れなかった。できることなら明日も行きたいって本気で思った。顔だってちゃんと覚えた。顔が熱くなって、その日の夜は中々眠れなかった。
翌日以降も暇さえあればあの日の彼を頭に思い浮かべ、もう見れないことに落胆する夏休みを過ごした。
そんな芽衣に奇跡が起こった。
なんと二学期初日、校内で彼を見つけてしまったのだ。
嬉しさで意識が飛びそうだった。直ぐにでもお話ししたくて芽衣は彼の元に駆け寄った。
けど……、そこには御影先輩がいた。一年生の芽衣でも知ってるその人物は、学園中の多くの男子が恋焦がれている存在。所謂、学園のマドンナ。
楽しそうに笑い合う二人を見ると、芽衣の足は自然に止まっていた。
翌日以降も、何度話しかけようと思っても御影先輩が近くにいた。
御影先輩はどう見ても彼のことが好きだとしか思えない。彼を見る目が他の男子を見る目と明らかに違っていた。
芽衣には勝ち目なんてない。でも、彼のことは見ていたい。
だから芽衣は、校内では柱に隠れて彼を見つめ、学校が終われば彼の尾行をし、試合ではギャラリーに紛れ込む毎日を過ごした。
まさにストーカー、橘芽衣の誕生だ。
それから芽衣も二年生になり、三学期を迎えた朝、いつものように少し離れた電柱の陰に隠れながら登校する彼を尾行していると、不意にある人物に話しかけられた。
『すいません。いつもお兄ちゃんを見張ってるみたいですけど、やめてもらえませんか?』
芽衣に話しかけてきたその人物は、椎名先輩の妹さんである椎名渚沙ちゃん。芽衣の一個下の中学校の後輩の一年生。
迂闊にも、芽衣が日頃椎名先輩のストーカーをしていることに気付かれてしまっていた。
『ご、ごめんなさいごめんなさい……! で、でも椎名先輩のことが好きなんです。でもほら、あの通り御影先輩がいつもそばにいるから、見ていることしかできなくって……』
芽衣には勝ち目はない。一年以上経ってもその考えは全くと言っていいほど変わってなどいなかった。
『はい……? お兄ちゃんが好きなのはよくわかってますけど、そもそも陽歌ちゃんは彼女とかじゃなくてただの幼馴染ですよ?』
『た、確かに二人が付き合ってるなんて聞いたことありませんけど……。御影先輩は、ど、どう見ても椎名先輩が好きじゃないですか? め、芽衣には勝ち目なんてないからこうして眺めてると言いますか……。見ていたいんですっ……!』
芽衣には勝ち目はないけど、どうしても椎名先輩を見ていたい。焦りながらも妹さんにその思いだけはちゃんと伝えた。
『陽歌ちゃんはお兄ちゃんに恋愛感情なんて持ってませんけど? ま、仮に持ってても陽歌ちゃんの想いはお兄ちゃんには届かないけど』
芽衣にとって、その言葉は耳を疑う発言だった。御影先輩は椎名先輩が好きそうだし、椎名先輩だって御影先輩といるのは楽しそうだ。
芽衣のストーキング日記では、日々メンタルをやられそうになるくらい二人は仲が良かった。だからお互いに想い合っている。そう思ってた。
だけど妹さんによると違うらしい。中でも衝撃的だったのは、仮に御影先輩が椎名先輩に想いを寄せていたとしてもそれが椎名先輩には届かないということ。
だったら芽衣の想いはどうなのかな? もしかしたら椎名先輩に届く可能性があるのかな?
椎名先輩が御影先輩に対して恋愛感情を持っていないことが判明した。それなら芽衣のことを好きになってくれる可能性はあるかもしれない。そう思うと聞かずにはいられなかった。
『だ、だったら……! 芽衣の気持ちが届く可能性はあるのかな?!』
芽衣の期待を一心に詰め込んだ言葉。
でもそれは、あっさりと裏切られることになった。
『ないです。陽歌ちゃんだろうとあなただろうとお兄ちゃんの彼女になることはできません。仮に告白しても絶対に振られます』
『ど、どうして言い切れるの……?!』
『お兄ちゃんがなんでテニスやってるか知ってます?』
『そ、そんなこと今は関係ないよ?! それより――』
『チラ子さんを探しているから』
『――えっ?!』
だ、誰なのそれは……? 今まで聞いたこともない名前。芽衣のマーク外の存在。
この名前が芽衣の頭に刻み込まれた。
『プロにでもなって活躍すればメディアに取り上げてもらえるかもしれない。そうすれば向こうから会いに来てくれるかもしれない。会えるかもしれない。そう思ってやってるだけですよ? 昔はそんなんじゃなかったのに……』
淡々と話す妹さんは途中ポツリと呟いた。その表情はどこか苦しそうに見えた。
『一応県内ニュースで取り上げられたりしたこともありますけど音沙汰なし。それも当然のことですけどね。だからあの人は本気でツアー優勝、なんならグランドスラムも取る気でいるんですよ。なぎはそんなの当然無理だと思ってますが、もしそうなれば日本中が大注目ですからね。そしてインタビューでその子に伝えるんです。会いたいと』
『そ、それは御影先輩とかは知ってるの……?』
芽衣は疎か、御影先輩ですら全く敵わない相手。御影先輩がそれを知ってるなら、恋愛感情を抱かないのも理解できる。
『陽歌ちゃんは知らないですよ? お兄ちゃんも言ってませんし。お兄ちゃんが他に誰にも言ってないなら、なぎしか知らないはずですけど?』
ならどうして御影先輩は椎名先輩に恋愛感情を抱かないのか。当時の芽衣にとって理解できなかったし今もできない。
『じゃ、じゃあなんで芽衣に教えてくれたの?』
『最初に言いませんでした? お兄ちゃんのストーカーみたいなことするのをやめて下さいって。見た感じ、ここまで言わないとやめてくれそうになかったので』
『も、もしかして椎名先輩は、嫌がってる?』
不安になった。妹さんが直接言って来るくらいだから、椎名先輩自身が気にしてるかもしれない。
『いえ、そもそもお兄ちゃん気付いてないんで。だから気付かれる前にやめたらどうです? なぎ的にもお兄ちゃんといる時に監視されてるみたいで不快なんで。家の周りもうろついてるし……。そもそも、お兄ちゃんはもうすぐ卒業して皇東に進学しますけど、そうなったら今までみたいにはいきませんよ? 寮生活ですし、皇東はイベント事でもない限り、他校生は敷地に入れませんよ?』
言われていることは理解できる。確かに椎名先輩が卒業すれば今までみたいにストーカーするのは難しい。妹さんにも迷惑をかけてしまっていたし、本当に潮時なのかもしれない。
でも、それでも芽衣は椎名先輩を見ていたい。
『ご、ごめんね……。嫌な気持ちにさせちゃって。で、でも……。試合を見に行くことだけは許してください。これからは後をつけたりはしないから……』
『わかってくれたならそれで良いです。試合を観に行くのはあなたの自由なので、それに関しては何も言いません。それじゃ、なぎは行きますので』
そう言うと妹さんは学校に向かって歩いていった。
試合を観に行くことを許してもらえたことが当時の芽衣にとっては凄く嬉しかった。だから芽衣は妹さんに言われた通り、椎名先輩の後をつけたりするのをやめた。
だけど、これが芽衣のストーカーライフの終わりではない。
去年の春から夏にかけて、芽衣は絶賛ストーキング真っ最中だった。
もちろん、妹さんに言われた通り試合を観に行く以外の行為は行っていないのだが、芽衣的にはこれもストーカー活動の一環として行っていた行為だから、ただのストーカーだ。
春は県予選の為、簡単に会場に行くことができた。当然椎名先輩は個人戦シングルス、団体戦共に全勝。その瞬間を見届けることができて凄く嬉しかった。
そして迎えた去年の夏。お年玉を全て注ぎ込み交通費とし、隣の県のインターハイ会場に足を運び続けた。
隣の県だったのは芽衣的にも助かった。もっと遠かったら流石にお金が足りないから……。
椎名先輩は絶対に勝つし、そんな何往復もできるわけがない。そう、思ってた……。
会場では久しぶりに妹さんとも会った。春から海外の学校に転校してしまったけど、夏休みということもあり応援に来ていた。当然御影先輩もいた。
『お久しぶりです。芽衣さん』
まさかの妹さんの方から芽衣に駆け寄ってきてくれて挨拶をしてくれた。嬉しくて堪らなかった。
『うん、久しぶり。今日から椎名先輩が優勝するまで全力で応援するから!』
『ははっ! 優勝は大袈裟ですよ。調子良くて準優勝ってとこじゃないですか?』
『それでも充分すごすぎると思うけどね!』
『ま、確かにお兄ちゃんはなぎ的にもムカつくくらい凄いとは思いますよ、ホントに……! では、なぎは親と陽歌ちゃん待たせてるんで行きますね』
妹さんはニコッと笑うと御影先輩の元に戻っていった。
本当は妹さんと一緒に観たい気持ちもあったけど、皇東学園の生徒がコートを囲うように陣取る中、妹さんと御影先輩もまた、一緒に凄く近い場所を確保していた。
御影先輩とは面識はないし、何より芽衣にはあんなに近い位置で応援するなんてできない。芽衣にはちょっと距離がある後方の位置から眺めているのがお似合いだ。
椎名先輩は個人戦で順調に勝ち上がり、準決勝まで駒を進めた。
下馬評では勝ち上がっている椎名先輩以外の三人の三年生は、椎名先輩よりも実力があるらしい。
椎名先輩もテニス雑誌のインタビューで、練習試合で負けたから今回は勝ちたいと答えていたくらいだから、本当なんだと思う。
当然、芽衣は勝つと信じてたけど。
そして、個人戦準決勝に先立って行われた団体戦準々決勝、何の巡り合わせか、椎名先輩は準決勝で対戦する予定の選手と対戦していた。
試合は椎名先輩優勢で進んでいき、もうほとんど勝利まであと少しだった。
椎名先輩がスマッシュを打った直後のことだった。右肩を押さえて蹲み込んでしまったのだ。
ざわつき出す観客、凍りつく皇東学園の人たち、心配そうに駆け寄る相手選手、涙目になり悲痛の表情を浮かべる芽衣の隣に座っていた同世代くらいの女の子、今にも泣き出しそうな御影先輩と泣いている妹さんの顔。
ただならぬ雰囲気が会場を包んでいた。
頭の中が一瞬にして真っ白になった。目の前の光景を信じたくなかった。
でも、その時はやってきた――。
皇東学園の顧問の先生が審判に棄権を告げた瞬間、芽衣のストーカーライフの幕が閉じた。
あれ以来、椎名先輩が試合に出てくることは、なかったから――。




