16 姫宮有紗のついた嘘
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終わった……。
今日この時をもって俺の学園生活は地に落ちた。
体が震えて動けない。着々と進んでいく足の手当て。
どうして俺は転んだんだ。何も無かったのにどうして……。転びさえしなければ俺はまだ普通の花櫻生でいられたはずなんだ。
なのに、どうして――。
俺は手当てを拒否した。だけど杠葉綾女はそれを許さなかった。
あの強い意志の込められた瞳に何も言えなかった。
そう、今まで見たことなんてなかった目。真っ直ぐに俺を見る目。
あんな顔、今まで見たことなんてなかった。いや、違うか……。見てこなかったんだ。
自分可愛さに、目を背け続けてきた。姫宮や御影以外、誰もがみんなそうしていたように……。
そして今も、俺は目を逸らし続けている――。
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「終わりました! これでもう大丈夫ですよ!」
手当てを終えた綾女が涌井に微笑み掛けても、涌井は反応せずに俯いているけど、手当てをしてもらったんだから最低限お礼くらいは言うべきだと思う。
「ちょっと涌井! お礼くらい言ったらどうなのよ!」
私の呼びかけにも涌井は反応することなく俯いたままだ。
「ま、まあまあ有紗さん。私はいいですから」
「そうは言ってもね……」
綾女がそう言うと、涌井は力なく立ち上がりどこかへ行ってしまった。
「さてと――っ?!」
――いないっ?! あいつが、いないっ……!
慌てて周囲を見渡しても、どこにもあいつの姿が見当たらない。
「どうしたの有紗ちゃん?」
はるちゃんが私に話しかけている。
はるちゃんには悪いけど、今はそれに反応している余裕もない。
焦りに焦って、必至に周りを見渡し続ける。
すると、橘さんの姿が目に入った。
けど、あいつの姿はそこにもなく、橘さんは一人でポツンと景色を眺めているだけ。
でもどうして橘さんは一人なの? あいつは橘さんがチラ子だと思い込んで接触したはず。
だったらどうして今一緒にいないのよ?
私は見てしまった。あの時、橘さんが自分がチラ子だとあいつに告げた瞬間を――。
そんなわけない。そんなことあるわけないじゃないっ……!
だって、あいつがテスト最終日に話してくれたチラ子は――。
あいつが橘さんのことをチラ子だと思い込んでいると思っていた。
だから私は、あいつが橘さんに騙されないように、必死になってあいつと橘さんの二人きりでの接触をさせないようにしてきた。
あいつは何度もチラ子と発していたけど、私はそれを遮断してきた。凄く複雑な気持ちだった。
「有紗、ちゃん……?」
「――っは?! はるちゃん! スマホ、スマホ持ってない?」
あいつはスマホを持ってきていた。とりあえずどこにいるのか聞き出さなきゃならない。
「ご、ごめん……。置いてきちゃったよ」
「そ、そう……。ごめんねはるちゃん。いきなりこんなこと聞いちゃって」
「い、良いよ別にっ! それよりどうしたの? 凄く顔色が悪いけど……」
今、私はどんな表情をしているのだろう。鏡が無いからわからないけど、周りにはそれが見えている。
きっと、とんでもなく酷い顔をしてるに違いない。
「有紗さん、大丈夫ですか? お薬もありますけど……」
綾女にも私の顔色が見えている。体調なんて悪くないけど、悪いように見えるくらいやっぱり酷い顔なんだ。
「――た、体調は悪くないわっ! それより綾女、スマホ持ってないかしら?!」
「スマホなら持ってきてますけど?」
「ちょっと貸してくれない?」
「良いですよ」
綾女にスマホを借りて電話を掛ける。
もう何度目のコール音だろう。
お願いだから出てよ……。
『……もしもし』
よかった。
とりあえず繋がってくれて少しホッとしている自分がいた。
「も、もしもし……。あ、あんた今どこにいるのよ?」
『その声と言い方は杠葉さんじゃなくて有紗か? あー、すまん。もう山を降りてるところ。一足先に戻ってるわ。俺の事はいいからみんなで楽しんで』
「――ふ、ふざけないでっ! あんたがいないんじゃ――」
『有紗、悪かったな。色々気を使わせちまってよ。せっかくお前が俺と橘の接触を妨害してくれてたのに、俺は勝手に自爆したみたいだ』
「ちょ、ちょっとそれ……。どうゆう意味よ」
『チラ子』
電話口から聞こえてくるその言葉に反応するように、額から汗が流れ落ちた。
嫌な予感しかしない。
私は……! 私がしてきた事は最初から、無意味だったんだ――。
私が必死になってあいつが橘さんに騙されないようにしなくても、あいつは自分自身で真実に辿り着く。
あいつは試そうとしてたんだ。橘さんが本物のチラ子かどうかを。
そして答えを出したあいつは傷付き、この場からいなくなったんだ――。
嫌な予感しかしなかった。なのに、どうして私はこんなにも、安心しているの?
そんなのわかってる。あいつが騙されたわけじゃなかったから。だから私は安心しているんだ。
あいつが傷付いているのに、安心してしまう自分が、私は嫌いだ――。
『チラ子について知ってるのか? それとも……、お前がチラ子か?』
「し、知らないわよ……!」
どうして私はシラを切る。どうして私は真実を告げない。
どうしても私はあいつに――。
『そうか……。すまんな、全部俺の勘違いだったみたいだ。じゃあな』
通話が切れる。聞こえてくるのは一定のリズムの音だけで、他には一切聞こえない。
「――いたっ?!」
誰かに頬が軽く抓られて、おかげでハッと我に返ることができた。
「何があったんですか有紗さん」
「えっと……、綾女! スマホありがとう! 私、ちょっとあいつのとこ行ってくるから。じゃ、また後でね」
「――えぇっ?! ちょ、ちょっと有紗さん?!」
心配してくれてる綾女には悪いけど、今はあいつを追うことが最優先だ。あいつのところに行ったとして何ができるかなんてわからない。
でも、いてもたってもいられないから、私はあいつを追いかける。
山頂の出口に向かう前に、班員の佐藤とすれ違った。ここは一声掛けておくべきだ。
「佐藤、ごめん! 椎名が体調崩して先に戻ったみたいだから私ちょっと様子見てくる」
「ん? 椎名が? わかった。こっちの事は任せとけ」
あいつが体調を崩してるかなんてわからない。でも、もしかしたら今回のことで体調が悪くなっていてもおかしくはない。
これは嘘なのかどうか、そんなことはどっちでもいい。
私はさっきの電話で既にひとつ、あいつに嘘を吐いてしまっているから――。
だからお願い。本物に気付いてよ……。
そんな願いを心の中で呟いて、私は山道を駆け下りた。
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