12 見えない表情
早朝に比べて更に雨足が強くなった放課後、帰りにコンビニに寄りつつ駆け足で帰宅する。
そのせいでちゃんと傘で体を覆えてなかったのか、それとも単純に雨が強過ぎたからか、かなりびしょ濡れになってしまった。
玄関の扉を開くと、丁度和室から出てきた渚沙と鉢合わせた。
「うっげ……びしょ濡れじゃん。ちょっと待ってて、タオル持ってきてあげるから」
「お、おう……?」
一体何が起こっているのだろうか。渚沙が俺の為にタオルを取ってきてくれるだと?
渚沙の奇跡的な発言に頭が混乱しかけてしまうが、ひとまずその発言を信じて待っていると、すぐにタオルを持ってきてくれた。
「ほら、脱いで」
「はい?」
「そのまま上がられたら家の中が水浸しになるでしょ。だから脱げっつってんの」
と、渚沙はタオルを渡してくる前に、右手を俺に向けてくる。脱いだ衣類を渡せと言いたいのだろう。
そう思って、片っ端から着ている衣類を脱いで渡していく。
「パンツまで脱ぎやがったら外に追い出すからな」
「脱がねえよ……」
渚沙はタオルを渡してきて、濡れた俺の衣類を持って廊下の方に消えていく。
それにしても、渚沙にも俺に優しくしようという意思があったなんてねぇ。感動のあまり涙が出そうだわ。
と、涙が出ているのか出ていないのか分からない濡れた顔から拭き始める。
「ほら、着替えここ置いとくから」
全身を拭き終わった頃、渚沙が再び玄関にやってきて俺の足元に服を置いてくれた。
「……渚沙っ!」
「――はあっ?!」
奇跡的な優しさを向けてきた後、更に奇跡的な優しさを重ねてきた渚沙を抱きしめずにはいられなかった。
素晴らしい兄妹愛だな。何ならほっぺにチューまでしてあげたい。
「キモキモキモキモキモッ……! 離せコラッ――って、口近づけんなぁ……! しばくぞゴミクソ変質者!」
「ぐはっ……!」
渚沙の膝蹴りが俺の鳩尾を捉え、その衝撃でその場に崩れ落ちる。
「ハッ……! なぎじゃなかったら牢獄行きだからな、この犯罪者予備軍がっ! そのまましばらく反省しやがれバーカ」
渚沙はそう言い残してリビングに入っていく。
対する俺は、大いに反省した上で、渚沙が持ってきてくれた服を着た。
ひとまず、先程コンビニで買ってきたアイスを冷凍庫に仕舞う為にリビングに入る。
「復活早いわクソ兄貴……まだ二分くらいしか経ってねえじゃねえか。もっぺん食らわしといた方が良さそうだな」
「――した、反省したからっ……! 一旦落ち着こう? ね?」
鬼の形相で近づいてくる渚沙に焦っていると、外からある音が聞こえ始めた。
「……まさか」
俺の呟きを聞いた渚沙が、一瞬ニヤッと笑ったのが見えた。
外から聞こえてくる音、それはパトカーのサイレン。
この大雨の中でも聞こえるくらいだ。――近いっ!
段々と大きくなってくるその音。
「な、なぎたん……? よ、呼んだの……?」
「裸体の変質者に強姦されかけたって110番したけど、それが?」
「『それが?』じゃねぇ……! どうしよどうしよどうしよう……!」
本日どころか人生でも最大級の焦りを感じて、あたふたとリビングと台所を行ったり来たりしてしまう。
が、ジタバタしてももはや手遅れ。パトカーはもう今この瞬間、うちの前に停車――、
「……あれ? 通過したっぽいんだけど……」
サイレンが最大ボリュームに達したかと思ったら、その音は少しづつ遠くなっていく。
「あははっ、その間抜けヅラ、マジウケる。通報なんてするわけないじゃん」
そんなに間抜けな顔をしていただろうか、渚沙はゲラゲラと笑い始めた。
「はぁ……マジ焦った」
「つまり、やらかした自覚はあったんだね」
「はいはい……ごめんなさいでした」
「謝罪より示談金払え。五千万円で手を打ってやる」
この場合の相場は知らないが、調べずとも分かる法外な金額だ。
つーか、渚沙も払えるわけないって分かってて冗談で言ってるだけだろ。
「あ、そうだ渚沙、コンビニでアイス買ってきてやったぞ」
「話変えようとすんな。……ふーん、どれどれ? ――三つも?! たまには気が利くじゃん、お兄ちゃん」
作戦成功。渚沙は袋に入ったアイスを見て目を輝かせている。
これで渚沙も示談金云々の話は頭から抜けてしまったはずだし、五千万円どころか五円すら奪われずに済みそうだ。
「ちょっと溶けてるかもだから冷やしてから後で食えや」
「うん、あんがと」
コンビニ袋からアイスを二つ取り出し、冷凍庫に仕舞う。
「あ、他にも買ってきてるジュースとヨーグルトもなぎので良いんだよね? 食べるから持ってきて」
と、ソファーに寝転がってる渚沙が声を掛けてくる。
「これはお前のじゃねえし……」
「はあ? なぎの為に買ってきたんじゃないわけ?」
んなわけねぇだろ……相変わらずがめつい奴め。
アイス買ってきてやったんだからそれで良いだろ。
「これは陽歌に。何か風邪引いたらしいからさ」
「あぁ、陽歌ちゃんの分か。なら納得」
渚沙も陽歌が体調不良なのを知っていそうな口振りで、その為か理解も早い。
「んじゃちょっと行ってくるわ」
「寝てるかもだから、無理に起こさないようにね」
「分かってますよっと」
渚沙の忠告を頭に入れ、家を出ようと玄関の扉を開くと、慌てた様子の渚沙がリビングから出てきた。
「――ちょっと、お兄ちゃん?! どこ行くの?!」
「陽歌の家以外ないだろ? んじゃ行ってくるわ」
「だから――」
渚沙はまだ何か言いたそうだったが、家に戻ってから聞いてやれば良いだろう。
そう思って玄関の扉を閉め、陽歌の家に向かった。
※※※※※
「ただいまぁ……」
陽歌の家に行った甲斐はなく、ほんの数分で高速帰還。
でもこればっかりは仕方がない。
陽歌の家に停まっていた車は一台だけ。彩歌おばさんが家にいるなら停まっているのは二台のはず。
陽歌の父親は現在単身赴任中でいるはずがないから、一台しか車がないという事は彩歌おばさんは家にはいない。
つまり今、陽歌の家にいる可能性があるのは陽歌本人のみ。
だが、インターホンを数回鳴らしてみたものの、返事は無かった。
彩歌おばさんが病院にでも連れて行っているのか、それとも寝てるのか。
後者だったら、これ以上インターホンを鳴らしてしまうと無理矢理起こしてしまう事になるかもしれない。
そう思って止むを得ず帰宅したのだ。
「ったく……最後まで話を聞かないから無駄足踏むんだよ」
玄関で靴を脱いでいると、呆れた顔をした渚沙がリビングから出てきた。
「は? どういう事?」
「陽歌ちゃん、うちにいるんだけど」
「なんですとっ……?! どうしてそれをさっさと教えてくれなかったんだよ」
「だって陽歌ちゃん、うちに来た時お兄ちゃんにメッセージ送ってたから知ってるもんだと思ってたし」
渚沙も学校に行っていたわけだから、渚沙がいる時にうちに来たという事は時間的に俺の下校中か?
だとしたら、その時は大雨の中を下校してたわけで、流石にスマホを触ったりはしなかった。
だから気付かなかったのだろう。
「つーか、気付いてなさそうだったから教えてあげようと思ったら、聞かずに出てったのはそっちじゃん。なぎのせいにすんなクソ兄貴」
「はい……ごもっともです。渚沙様は一ミリも悪くありません」
と、頭を下げて謝罪した際にある物が目に入った。
陽歌のスニーカーだ。
「大体さぁ、靴だってあるのに気付かないとか、観察力皆無過ぎない?」
「ぐぬぬ……」
返す言葉が見つからず、只々言葉が詰まるだけ。
「はぁ……陽歌ちゃんは和室に居るから」
「お、おう……」
陽歌の様子を窺う為、和室の戸を開いて中に入る。
「――っ?!」
すると、起きていたのか陽歌は俺の顔を見た後すぐに布団に潜った。
「ごめんね陽歌ちゃん。うちのクソ兄貴が、乙女の寝室にノックも無しに足を踏み入れるようなデリカシー皆無のバカで」
……陽歌が布団に潜ってしまったのは俺が原因だったのか。
今後同じ過ちを繰り返さないようにちゃんと頭に叩き込んでおこう。
「違うよ。ここは私の部屋じゃなくて、佑くんちの和室だから気にしてないよ」
いつもなら、ここで毒の一つや二つ飛んでくるものだが、今日はそれが無い。
それが妙に心地悪いが、きっと毒を吐けないほどに調子が悪いのだろう。
「えっと、飲み物とかヨーグルトとか買ってきたけど、食えるか?」
「え、あ、いや……ありがとう。ヨーグルトは、今は食べれそうに無いから、飲み物だけいただきます」
「そっか。んじゃ、ヨーグルトは冷蔵庫に入れとくから、食いたくなったら言ってくれ」
ひとまずヨーグルトを冷蔵庫に仕舞いに行き、すぐに和室に戻る。
「それじゃあ陽歌ちゃん、今からお兄ちゃんが看病するから――」
「――いい。そこまでしてもらわなくていい」
陽歌の反応は早かった。渚沙が言い終わるとすぐに、俺からの看病を断ってきた。
「遠慮しなくて良いよ。こう見えても昔、お兄ちゃんにはなぎを看病した経歴があって――」
「――だから、いいって言ってるの」
渚沙は過去の体験談も交えたが、それでも陽歌は頑なに看病されるのを拒否している。
ここはひとまず、一旦部屋から出た方が良さそうだ。
「んじゃ、リビングにいるから何かあったらすぐ言えよ」
返事は無いが、和室から出る。その後を追って渚沙も出てくる。
戸を閉める前にもう一度だけ様子を確認しようとしたが、陽歌は依然として、布団に潜ったままだった――。




